第5回 「アトランティスの前世でも、インピーダンス装置に似たものを作っていたようなんです」中田 悦弘 氏
中田悦弘(なかだ よしひろ)
弘石堂代表
昭和22年1月東京都江戸川区小岩生まれ。
27歳のときにエドガー・ケイシーを雑誌で知り、ケイシーがリーディングで推奨していたインピーダンス装置の製作を開始。また同時に、ケイシーリーディングに登場する宝石(鉱石)類の販売も開始、現在に至る。
弘石堂(こうせきどう)連絡先 Tel 049-292-8265
テンプル――
中田さんと初めてお会いしたのはテンプルを始めた1996年。テンプルは今年(2012年)で16年目を迎えますから、中田さんとのご縁も16年ということになります。いつも電話でお話しているのに、これまで中田さんとケイシーとの出会いや、個人的なことを一度も聞いたことがないことにあらためて気がつきました。中田さんはケイシーが日本に広まったばかりの頃の状況もよくご存じだと思いますので、今回は是非、その頃のことをお聞かせいただければと思っています。
さっそくですが、中田さんがエドガー・ケイシーを知るようになった経緯から教えていただけますか?
中田――
私は昭和22年、東京の小岩に生まれました。子供の頃から不思議なこと、未知なる世界のこと、宇宙のことにとても興味がありました。とりわけ死についてのこと、死後の世界、死んだらどうなるのかをずっと考えているような子供で・・・。
たぶん小学校5年生だったと思いますが、父親に死んだらどうなるのか聞いたことがあるんですよ。私としては、死んだ後のことについて聞いたんですが、父親の返事は「火葬場に行って身体を焼かれて骨になるんだ」と。求めていたのはそんな答えではなかったんですが、それ以上聞けずガッカリした記憶があります。そんな具合に、子供ながら死んだらどうなるのか知りたいとずっと思っていました。
テンプル――
死に興味がわくような環境だったんですか?それとも何か特別な出来事があったんでしょうか?
中田――
環境ではなく、前世からの影響だと思います。それで、時が経ち、27才前後だったと思いますが、サラリーマンをしている頃、エドガー・ケイシーのことを知るようになったんです。
きっかけは「UFOと宇宙」という雑誌でした。その名のとおり、UFOの写真がたくさん掲載されているような、いまでいう「ムー」のような雑誌で、その中でケイシーを紹介する記事があったんです。それで「ケイシーという人はすごい人だな」と。記事の中にジナ・サーミナラ氏の「転生の秘密」と「超能力の秘密」の本が紹介されていたんで、早速購入して読んでみました。
当時は、今のようにケイシーの本が何冊も出版されていたわけではなく、この2冊と霞ヶ関書房からでている「奇跡の人」の合計3冊しかなかったんですが、この3冊に自分がこれまで知りたかったことが全部書かれていました。それでもっとケイシーのことを知りたいと思って、たま出版に直接電話したんです。他にケイシーを知る手だてはないものかと。すると市川市にエドガー・ケイシーを研究しているグループがあると教えてもらい、メモした番号に連絡したら出てきたのがケイシーの翻訳で有名な林陽さんでした。
当時私は千葉の本八幡に住んでいて市川までは自転車で行ける距離だったこともあり、すっ飛んで行っていろいろ話しを聞いてみました。当時林さんは、まだ獨協大学の学生だったと思いますが、様々なケイシーの本を翻訳してガリ版刷りで冊子を作って会員さんに配布していました。距離的に近いこともあり、それからは、よくそこに行くようになったんです。
実はその頃もまだ死についての興味は続いていて、林さんが翻訳されたケイシーの記事や、様々な精神世界系の本を読みあさっているうちに、レイモンド・ムーディ博士の「かいま見た死後の世界」という本に出会うわけです。あの本は臨死体験をした人たちの証言をまとめたものですが、彼の本を読んだときは本当に衝撃を受けました。そして「それみたことか」と。
私はケイシーのリーディングと共通する部分があると「これは本物だ」と思うんです。つまり私にとってケイシーのリーディングは高いレベルの「物差し」「スケール」になっていて、ケイシーを基準にしてその本の信憑性を判断しているところがあるんですね。そして同時に「やはりケイシーは凄いな」と改めてケイシーリーディングを見直す・・・みたいな。それで、ムーディ博士の本を読んだとき、ますますケイシーへの信頼が高まった感じがしました。
テンプル――
その頃はまだスピリチュアリティに関心が高かったようですが、その中田さんがインピーダンス装置を作るようになった経緯は何だったんですか?
中田――
30才になっていた頃だと思いますが、その頃になってアメリカには、ケイシー療法に使用するマッサージオイルだとか、本に出てくるハーブ類を扱っている会社が存在していることを知ったわけです。特に「超能力の秘密」に紹介されていた「アトミダイン」に興味があったので、林さんに頼んで取り寄せてもらおうとしたんですが、彼がなかなか手続きをしてくれないので、結局は自分で英語で手紙を書いてアメリカから取り寄せたりしていました。
そのうち、ケイシーのリーディングに出てくるインピーダンス装置の作り方を知って、読んだとたんに「これは面白い!」とピンとくるものがありました。特に水で冷やすとエネルギーが発生するところに強く惹かれました。構造は非常にシンプルですから、これなら自分で作れると。それでさっそく材料の調達を開始したわけです。1977年頃のことでした。
テンプル――
そうはいってもインピーダンス装置の材料は特殊ですし、大量生産をするものではないですから、材料を見つけるのは大変だったんじゃないですか?
中田――
材料というのは主に炭素板、炭素鋼ですよね。当時はまだサラリーマンをやっている頃で、御徒町に勤めていたんですが、勤務先のすぐ近くに炭素板を扱っているところが見つかりました。ちなみに、そことは今でもおつきあいがあります。炭素鋼は、私は小岩生まれで、小岩の町内に金属の加工工場があったことをなんとなく覚えていて、そこのおじさんに「こういうモノを作ってほしい」とお願いしたら、炭素鋼を取り寄せてくれて寸法通りのものを作ってもらえたんです。ガラスや炭といったものはすぐに入手できますから、材料がそろえば、すぐに制作に取りかかれました。
テンプル――
装置に必要なもの全てが近くにそろっていたわけですね。人生には無駄はないですねぇ。まるでケイシーに導かれていたかのよう。ところで、サラリーマンというのはどういうお仕事をされていたんですか?
中田――
髭剃りで有名なブラウンという会社で修理を担当していました。実は、家業が散髪屋で、最初は理容師になったんです。でも、子どもの頃から何かを作ったりいじったりするのが好きだったので、理容師を辞めてサラリーマンを選んだんです。
で、材料がそろったので、いよいよインピーダンス装置の制作を開始しました。最初の2年間くらいは、作っては人に試してもらい、作っては人に試してもらいを繰り返していました。ご存じのようにインピーダンス装置は、人の微細なエネルギーレベルを扱う装置なので、劇的な体感なんてそれほどすぐには分からないわけです。それでいろんな人に使ってもらって「どうだったか?」「何か変化はあったか?」と聞きながら作り方の精度を上げていきました。
そのうち、林陽さんがこの装置を商品化して会員さんに売りたいと言い始めたんです。そう言われると自分としても「よっしゃ」と制作にも力が入り、いっそう一所懸命に作り始めるようになりました。会員さん向けでしたが、かなりの数の装置が売れたと思いますよ。珍しい装置ですし、ケイシーが勧めたものでしたから一人が使えば、その友達や家族の方も使い始める・・・みたいな感じで。それでそのうちサラリーマンでいるよりこっちの仕事のほうが面白くなり、34才で会社勤めを辞めてしまいました。
テンプル――
私もテンプルを始めたのは34才でしたよ。
中田――
菜央子さんは、銀行勤めでしたっけ?
テンプル――
いえいえ、親が私に銀行勤めをさせたがったんです。銀行とか公務員とか、堅い仕事について欲しいと。うちが自営業で苦労したのと、兄が公務員を辞めてケイシーの研究と翻訳家になってしまったので、よけいに福利厚生や収入の安定している仕事をして欲しかったんでしょうね。でも性格的に合わないんです、そういった堅い仕事は。
中田――
お互い、アウトローですからね。私の場合はインピーダンス装置がそこそこ売れていたんで、これだったら何とか生活ができるかなと。それからケイシーはリーディングで様々なジェムストーン(*天然石全般のこと)勧めていますよね。それでケイシーが勧めた鉱石も一緒に取り扱うようになりました。
テンプル――
ケイシーが勧めたジェムストーンしか取り扱いをされていないのですか?
中田――
そうです。ケイシーの会員さん向けと当時あった「トワイライトゾーン」という雑誌に広告を出したりしてました。当時は今と違って「ケイシーがこの石についてはこう述べていますよ」というように、ケイシーのリーディングを紹介しながらジェムストーンを扱っている人は誰もいなかったんで、皆さんけっこう興味を持って下さり、こちらも意外と売れました。
いわば私はケイシー流でジェムストーンを紹介した先駆者でもあったと思うんです。でもあるとき、雑誌の広告でケイシーのラピスラズリのリーディングを紹介したら、あっという間に大手の業者さんが同じようにケイシーリーディングを紹介しはじめて、市場をさらわれてしまいました。私のように小さなところは太刀打ちできないです。
今は中央アート出版から「宝石の神秘力」という本が出ていますが、その前に、林さんが「神秘的宝石論」という本を翻訳して共同で自費出版したんです。それはケイシーだけではなく、何人かの超能力者が宝石について述べたものをまとめたものなんですが、その本を出版したものですから、業者がその内容に目をつけて、私が当時やっていた営業の手法をまねされるようになって。ラピスラズリなんて、当時、ケイシーが勧めた鉱石だと一大ブームになりましたからね。鉱石ショーのようなところに行くと、インドやパキスタンから来た業者さんが原石から加工したものまで様々なラピスラズリをテーブルいっぱいに山のように積み上げていて、そこに人がたくさん押し寄せていました。
テンプル――
ケイシーはラピスラズリについては、どう述べているんですか?
中田――
ケイシーが述べたラピスラズリというのは正確に言うとアズライトのことです。
ケイシーは、アズライトは脳下垂体に働きかけて潜在能力を活性化する、サイキックの能力を強めると述べています。どういうふうに使うかというと、主にはラピスを額にあてます。ただしエネルギーが強すぎるのでケイシーはガラスのケースに入れて使いなさいと勧めています。ちょっと面倒ですよね。でも、霊感の強い友人なんかに聞くと、ラピスを額に当てるとその部分がズキンときたり、手にもっただけでエネルギーの流れを感じると言っていますね。
テンプル――
林さんがされていたケイシーのグループは、勉強会も開催されていたんですか?いつ頃まで関わっていたんですか?
中田――
林さんはアメリカのAREが発行しているものの中から面白い記事を見つけては自分で翻訳して会報を作っていました。会報の配布だけで特に定期的な勉強会はしていなかったように思います。会員同士の交流会も近所の人以外とはしなかったですし。
会報を本屋においてもらうようにしたりとか、表紙のデザインをしたりと少しはお手伝いなどしていましたが、その後は訳あってその勉強会を離れてしまいました。同時に装置の制作もやめてしまいました。およそ8年くらいのおつきあいでしたね。
テンプル――
私がテンプルを始めたのは1996年。たしかその時に兄から中田さんを紹介されてお会いしたように記憶しているんですが、そのときは装置を作っていらっしゃいましたよね?
中田――
いえ、菜央子さんに会うまでの約10年間くらい、装置を作っていませんでした。テンプルさんとのおつき合いをきっかけに装置の制作を再開したんです。
テンプル――
そうだったんですか。全然知りませんでした。いまテンプルでは、中田さんのインピーダンス装置と炭素鋼(カーボンスチール)を取り扱わせていただいていますが、装置を作るうえで気をつけていること、心がけていることなどありますか?
中田――
インピーダンス装置を作るときには自分の精神状態が穏やかな時にのみ制作しています。気持ちがイライラしたりネガティブに傾いているときには作らない。そして制作する前は簡単ですが瞑想をしてから制作に入っています。
テンプル――
インピーダンス装置の内部は、お客様には分からない部分ですが、中田さんが作られている装置の原材料の品質というのはものすごく高いですよね。私はいくつかアメリカ製のものを分解したことがあるので中身を知っているんですが、それと比較すると、群を抜いています。
インピーダンス装置は、人の微細なエネルギー領域を扱う商品ですし、作り方がシンプルな分、どんな材料を使うかが装置のクオリティを左右します。材料にあそこまでの高いクオリティを求めてしまうところが中田さんの職人気質なところだと思いますが、あの原材料はどうやって探されたんですか?
中田――
装置に使う炭素鋼については、最初、金属の加工工場を通して取り寄せていたんですが、そのうち炭素の含有量がもう少し高いほうがいいということが分かり、自分でハイカーボンの炭素鋼を探し始めました。が、日本国内で鋼材屋を探すのがとにかく大変でした。以前は日本でもハイカーボンのものを作っていたようなんですが、需要が少なくなったらしく、炭素の含有量が0.55%のものしかない。そんななか、ようやく0.58%のものを見つけて・・・。でも、そこに行きあたるまで本当に大変でした。
さらにハイカーボンの炭素鋼をオーダーしようにも、鋼鉄は発注単位が何十トンになってしまいます。それで、どこかの会社かが何十トンと製鉄工場に発注し卸問屋に納品されたとき、ほんの少量の単位で分けてもらうしかないんです。その入手ルートを見つけるまで本当に苦労しました。
テンプル――
そのルートはどうやって見つけられたんですか?やはり電話ですか?
中田――
今はインターネットがありますからもっと楽でしょうが、当時はやはり電話でした。金属の工具を作っている会社に電話して「どこかこういう炭素鋼を扱っているところはないか」といろいろ聞いて・・・。あとは金属の加工をしているところに問屋を紹介してもらったり。
テンプル――
今はアメリカから炭素鋼を取り寄せているんですよね。
中田――
そうなんですよ。ずっと日本製の0.58%の炭素鋼を使っていましたが、中田製のものはカーボンの含有量が少ないから効果がないと批判する方々がいて・・・。ケイシーは0.55~0.65%までとある程度の許容範囲を述べていますし、実は親しくしているお客様でオーラ透視ができる方に頼んで、炭素の含有量の違いがどうエネルギーに出るかテストしたことがあるんです。0.55%、0.58%、0.60%、0.64%の4種類の炭素鋼で作ったインピーダンス装置のオーラ透視をしてもらいました。結果は、どれも一様にほぼ同じきれいなオーラが発生しているといわれました。
これ位許容範囲があるので全然大丈夫なんですが、お客様の中には心配される方もいらっしゃっるし、まぁ、いろいろ経緯があって、最終的にはアメリカ製の0.62%の炭素鋼を購入することにしました。ただ、ものすごい大量発注をしなければならなかったんで、あと20年分くらいの在庫になってしまいました。
テンプル――
20年間分が15年間分くらいになるよう、テンプルでも頑張って売りますね!同じく装置に使うチャコール、炭はどうですか?
中田――
炭は備長炭の非常に質のいい粒子のそろったものを使っています。以前テンプルのスタッフさんにもお見せしましたが、砂のように粒のそろったいい炭ですよね。あれは備長炭から作るハードチャコールを何回か洗ってキメをそろえているんです。ケイシーは堅い木で作るハードチャコールと指示していますし、柔らかいパウダーでは駄目なんです。以前アメリカ製のものを分解して中身を確認したことがあるんですが、大きさも不揃いでパウダーのものと大きな欠片と様々に混ざっていました。おそらくバーベキュー用の炭を砕いて使っていると思います。私自身も最初の頃はそうやって作ってましたしね。アメリカは炭の文化がないので、ある程度は仕方がないと思います。それでも効果はありますのでお使いの方も心配はないと思います。
炭素板はキメの細かい高品質のものを寸法通り正確に作ってあって、ここでも高度な日本のもの作りの技術が生かされています。
テンプル――
時々、使っても何も感じないという人がいらっしゃいます。普段ワサワサ生きているのに、そんな急に微細な生命エネルギーの変化なんて分からなくても心配ないと思うんですが、皆さん、劇的な変化を求めているのか、感じないと続けるモチベーションが落ちるようで・・・。
中田――
ケイシーはインピーダンス装置は使っても何も感じないとリーディングでちゃんと警告していますよね。そんなものだと思いながら使っていると後からご褒美が来る。
テンプル――
装置を数年単位でずっとお使いだったお客様は、2~3年後に至高体験としかいいようのない出来事が装置の使用中に起こったとおっしゃっていました。ある個人開業の歯医者さんは、午前と午後の間の休憩時間に装置を使って少し午睡をとると、午後からの診療が肉体的にも精神的にもとても楽になるといわれていました。試しに装置を使わないでみたら体感が違うので、これは必須アイテムだと。
祈りや瞑想も最初は何も分からないし感じない。でもそれでも諦めずただひたすらに座り続けますよね。インピーダンス装置もそんな感じで、諦めずに使っているうちに内なる何かが変わり始めるのではないかと。ケイシーが勧めたものって、やり方は簡単なのに忍耐力を要求されるものが多いです。もちろん中には比較的早い段階で、使っていると手が温かくなったとか、気持ちが楽になったとか、夢見がクリアになったとか言われることはありますが。
中田――
インピーダンス装置はすぐに違いが分からないかもしれませんが、炭素鋼(カーボンスチール)は比較的すぐに違いが分かります。以前姪っ子が遊びに来たとき、鼻をグズグズ言わせていたんで、鼻の穴に炭素鋼をあて呼吸をしてごらんと言って、やってもらったら、数分のうちに鼻がスースーしてきたとびっくりしていました。
テンプル――
話題を少し変えて、中田さんは、ケイシーが日本に入ってきたばかりの、いわば黎明期とも呼べるあたりからケイシーを研究していらっしゃいますが、福田高則先生や坂内先生とは、当時、交流はあったんですか?
中田――
福田さんも坂内さんも、やはり林陽さんがやっていた会に出入りしていた頃に知り合いました。福田さんは今も炭素鋼のご注文をいただいています。坂内さんと知り合ったのはちょうど坂内さんが本格的に夢の研究をし始めた頃だったと思います。
テンプル――
林陽さんとはその後、袂を別つことになってしまいましたが、考えてみれば、全てはあそこから始まっていたんですね。
中田――
40才のとき、マイケル・スプラッドレーというアメリカ人サイキックにリーディングを取ってもらったことがあるんです。ケイシーと同じようにトランスリーディングをする人でした。ディープトランスのリーディングは面白かったですよ。予想していない思いがけないことを言われて。たしか質問とお金をアメリカに送って、何ヶ月後かにリーディングが返ってきたと記憶していますが、その彼のリーディングの中で「あそこでエドガー・ケイシーのことをいろいろ学んだことが、あなたにとって人生の立脚点もしくは分岐点になった」というようなことを言われました。実際、勉強になったので、そのことはとても感謝しています。マイケルさんはその後リーディングを辞めて警察官になったそうです。
アトランティスの過去生のことも言われました。アトランティスでは、冷却装置の研究や仕事に携わっていたと。アトランティス時代に使われていたツーオイ石のことはご存じですか? おそらく人工だと思いますが、アトランティスでは巨大な水晶エネルギーセンターだったんです。太陽からのエネルギーをその水晶に集束させ、それから各地に送電するシステムだったようです。そのツーオイ石を使ったエネルギーセンターは、おそらく稼働中に熱を発していたのではないかと思うんですが、その熱を冷却することに私は携わっていた。ある「氷で冷やす装置」を作っていた。そんなことを言われました。
それから、スピリチュアルなことに関わるようになったのは、過去生でいろんな宗教を渡り歩いていたことがあると。キリスト教、ヒンズー教、仏教などを転々としている。自分の傾向を考えると納得しましたね。
テンプル――
ケイシーのことにここまで長く関わるようになったのは何故ですか?ケイシーのどんなところに惹かれたんでしょう?
中田――
ケイシーのリーディングは私にとっては真理なんですね。私はいつも「本当のことは何だろう?」ということを探求しています。それがケイシーの中にあるんです。有名になったケイシーの予言リーディングで、1998年に日本の大部分もしくは日本の重要な部分が海に沈むというのがありますが、あれは「1998年に起こる」ではなく「1958年から1998年の間にその出来事が始まるであろう」ですからね。昨年(2011年)の地震も長い歴史の中の流れの中で起こったことですから、これからも様々なことが起こると思います。さらなる異常気象や地震、戦争、ポールシフトが起こるかもしれませんし。
ブライアン・ワイス博士の本を読んでいると、過去生ではなく未来生退行で何百年後の未来に行った患者が「町に水晶の家があった」と言っていたという記述を読んでうれしくなりました。ケイシーも夢で地球の未来に行ったとき同じようなヴィジョンを見ています。
またリーディングで人の意識が環境に影響を及ぼす、というのがありますが、私は以前からアメリカで多く発生する竜巻はネガティブな意識の顕れではないかと思っていましたが、ワイス博士の「未来世療法」の中にそのことが出ていたのでびっくりしました。
そうやってケイシー以外の本を読んでいるときに、ケイシーのリーディングと同じだったり、符合するものがあると、やはりケイシーは面白いと内なる喜びを感じるわけです。そういうことはよくあります。
日本語になってないリーディングはたくさんありますし、私がお兄さん(光田秀氏)に翻訳してもらいたいと思っているケイシーのリーディングもたくさんあります。とにかくケイシーのリーディングは面白いですし、私がモノを考えたり判断する基準になっています。
テンプル――
最後に、中田さんご自身はケイシー療法をどのように実践していらっしゃるんですか?
中田――
ひまし油湿布はよくやっています。自分の腰の痛みにあてたりもしています。最近は母に使うことが多いです。
そうそう、テンプルで大地の力シャンプーって扱っていますよね。母はいま91才で筋肉が弱って一人で髪を洗えないので、私が洗っているんですが、あのシャンプーを使いはじめて母の髪が増えたんです。約2年使っていますが、明らかに母の髪の毛が増えました。以前はふわふわの細い髪だったのが丈夫になって、妹も訪ねてくるたびにびっくりしています。
シャンプーだけではなく、鶏の手羽元スープも飲ませているので、この2つの相乗効果だと思いますが、とにかく凄い。櫛で梳かすたびに驚いています。
母がやっているひまし油湿布ですが、こんなふうに使っています。最近、母の痛風が起きる頻度が増えてきました。以前は半年に1回くらいだったものが、今は毎月のように痛風の痛みが起こるようになり、痛い時には歩けなくなるので、トイレに行くのも抱えて難儀をしていました。そういうときにひまし油で痛いところを湿布。2日くらいで痛みが消えるようです。痛風のときの湿布は1日中やりっぱなしで、そのあとオリーブオイルでマッサージするんですが、母はよく言っていますよ。「ひまし油は凄いねぇ」と。
テンプル――
これからの夢やプランをお聞かせいただけますか?
中田――
ケイシーが勧めたガンの治療法がありますよね。その治療に使う装置を日本でも簡単に使えるようにしたいですね。ただ原材料の関係で値段の高いものになってしまうので、最初はケイシー療法に理解のある医師の方に使っていただけたらと思っています。ケイシーセンターでケイシーが勧めたガン治療の方法をまとめた冊子を作られましたよね。あれを読んだときすぐに「あ、これ作ろう!」と思ったんです。あれを完成させるために、いま頭の中でいろいろ考えているところです。
今日は素敵なお話をたくさんしていただき、本当にありがとうございました。2012年
インタビュー、構成:光田菜央子
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