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『社会学的想像力』に手を付けてみた

読書サークル「三つ星スラム」における8月の課題図書である。
先月の課題 "Catcher in the Rye" と三島由紀夫は、今まで何となく論説文が多かったスラムの課題から一気に文学になって、おお、これはという感じを受けたのだけど、今月は一転して、ずいぶんとかたい方に振れた感がする。

まあともかく、買ってみて、ページをめくってみる。

書かれた年は1959年である。第二次世界大戦が終わって15年になろうという頃。United NationsがAxis Powersを打ち破り、世界が民主主義の勝利を高らかに宣言したのもつかの間、勝利を得た陣営はすぐに今度はソヴィエト連邦を中心とする社会主義諸国と、米英を中心とする資本主義諸国に分かれ、敗戦国のうちドイツを2つが分かち、日本は本土は資本主義陣営にとどまったものの、解放された朝鮮半島は南北に分断され、などという冷戦史をここでくだくだしく述べるのは控えておこう。

でも、それからさらにソヴィエト連邦におけるスターリン独裁が行き詰まる中で彼の死去と共にスターリン批判が起こり、また中国はまだそこまで独自路線ではないにせよ、大躍進政策は失敗し、何となく世界がすぐに社会主義に染まるという事はひとまず無さそうに見えだした頃、でもそれがアメリカでの知的世界においても「アメリカのやってきた事は誤りでは無かった」という感じの雰囲気が擡頭し、社会科学という言葉が持っていた歴史性・・・それは結局の所、史的唯物論的立場で遅かれ早かれ世界は社会主義に向かっていくんだという感じの方向性だったわけだけど・・・が違う方向に向かっていく感じの頃。

ともかく、かつての社会科学が、人々の生活の実態が社会そして世界とつながっているものだという事を解き明かすという方向から、米ソの間で軍拡や宇宙競争はあっても、あちらはあちら、こちらはこちら、そしてその中で”それぞれの社会では何がどう動いているの?という感じの事、それは結局全体をエイヤと決める事にみんなを動員するような”政治的”な話をするのをやめて、例えば身の回りにおけるコミュニティの中で、どんな人がどんな方針を立てて動いて、それがどんな影響を相互にあたえるのか、みたいな話にシフトしていくような時代だと思ってくれるといい感じはする。

だけど、そんな風に歴史性を忘れ、世界全体への視座を捨てて、観察、リサーチ、あるいはある種の関与実験がしやすい小さな分野における”精密な研究”、あるいは、「どんな社会においても適合するグランド・セオリーをこそみつけてやるんだ」という、高度に抽象化された議論という風に、社会学の方向が『歪曲し、摩耗して』行くことに関して、かつてのスペンサー始め、デュルケーム、シュンペーター、ヴェーバー、そして何よりマルクスという、社会に関する知見を広めた先賢たちの精神を受け継いでいると自負しているこの本の著者ミルズは苛立ちを隠せない。

彼は、結局次の3つの「方向性」を示した。それは今までの社会学の伝統的やり方を元にはしているが、それらが歪められてしまったのが”今の社会学”であるとしている。

1.歴史理論という方向付け

・社会学は、歴史的かつ体系的

非常に「古典的」な理解

2.人間と社会の本質の体系理論
社会学は、全ての社会関係を分類し、普遍の基質と仮定されるモノを考えるための概念を扱うようになった。

形式主義的な方向性は、高度に一般的なレベルで、社会構造の構成要素を巡るかなり性的で抽象的な観点に関心を注ぐ。

これは方向性1の問題をタダした反動であろう。しかし、歴史が完全に放棄されてしまう。

一般理論の確立を目指すあまり、高度に抽象化してしまった。

3.現代における社会的事実、社会問題の経験的な研究という方向性。

特にアメリカ(合衆国)では、経験的なサーベイが社会学の中心
経済学・政治学などが専門領域として先行して確立されているなかで、学問的な残り物を雑多に集めた、社会科学におけるある種の便利屋という立ち位置

何でも屋。そして調査につぐ調査

しかし、この3つの方向性は、結局は一つの「社会科学の約束」をうまくまとめているとも言える、そうミルズはいう。
ニュアンスとしては「古典に戻れよ」ということだろうか?

まあともかく、第1章はある種の「マニフェスト」だ。これからどんな風に議論が進むのか。読んでみるしかない。

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