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『PUI PUI モルカー』の裏に隠された抽象のセカイ

突然ですが、みなさんはこのかわいい生物を知っていますか?

モルカー

もちろん知っていますね。
そう、「モルカー」です。かわいいですね。

〇「モルカー」とは

『PUI PUI モルカー』は、この1月に始まったばかりの見里朝希監督による幼児向けストップモーションアニメで、モルモットの車「モルカー」と人間が仲良く暮らす街での日常と事件を描いています。

ちなみに、ストップモーションアニメとはどういうアニメかと言いますと、簡単に言えばアニメ版のパラパラ漫画です。
キャラクターを少しずつ動かしながら写真を何百枚も撮り、それを超高速で連続投影することで、アニメーションに見せるわけですね。

モルカーは「モルモット」+「カー(car = 車)」からなる造語です(見た通りだと思いますが……)。
とはいえ、銃を突きつけられると怯えるレタスやニンジンを好んで食すといった特徴から、その本質は車というよりも生物としてのモルモットに近いようです(第2話参照)。

そんなモルカーたちが活躍する『PUI PUI モルカー』は毎週火曜日の朝7時30分より、キンダーテレビ(テレビ東京系)で絶賛放送中!

……とまぁ、ここまでモルカーの紹介をしてきたわけですが、実は僕、気付いてしまったのです。
「これ、絶対幼児向けじゃない」と。

これは『PUI PUI モルカー』の世界がそのハートフルな見た目に反して非常に治安が悪く、現実の諸問題を皮肉っているようなブラックな世界観であるという意味ではありません。
見里監督が影響を受けたアニメとしてアニメ版『星のカービィ』をあげていることは有名な話ですが、それを言いたいだけならわざわざ6時間後の出勤を控えた深夜(執筆当時:午前3時)にnoteを書いたりはしません。

※アニメ版の『星のカービィ』は知る人ぞ知るブラックな社会風刺アニメとして、その筋では非常に有名です。「環境破壊は気持ちがいいZOY!

では何に気付いたのか。
それは、このアニメが一見幼児向けの超簡単なアニメであるように見えつつも、実は非常に高度な抽象化がなされており、我々の思考のバックボーンとなる普遍的知識(いわゆる常識)の醸成を幼児に促すものであるということです。

「いやいや、何が抽象化やねん。
 そもそも「抽象」なんて大人の僕らにも分かりにくいのに……」
と思われた方、いますね?

いいえ、違います。
今回に限っては、特にアニメという媒体においては、抽象化は難しく、非常に簡単であるのです。
僕は、ここにこそ見里監督の苦労とその真髄を垣間見ることができる気がします。

〇『PUI PUI モルカー』に抱く違和感

さて、ここまで読んでいただけた方の80%は、おそらく本編視聴済み勢であると思いますので、ここからはアニメ本編を観たことがあるという前提で話を進めていきたいと思います。

そんなモルカーフリークのあなたに質問です。
このアニメには、実は他のアニメには見られない「ある特徴」(違和感と言い換えてもいいかもしれません)があるのですが……お気付きになったでしょうか?

現在のところ、他のアニメーションでは当たり前のように使われている、「アレ」が一切使われていないのです……(少なくとも、第2話までは)。
正直言って、これは異常です。

気になって2度3度と見返してきたそこのあなた、何が使われていないのか、お分かりになりましたね?
そう、『モルカー』においては、一切の「言葉」が使われていないのです。

〇知の象徴としての"言葉"

「おいおい待てよ、言葉が使われていないアニメなんて腐るほどあるぞ。」
ごもっともです。むしろストップモーションアニメにはその類のアニメが多く存在します。

例えば、『ニャッキ!』などが挙げられます。
芋虫のニャッキを主人公とするクレイアニメーションの『ニャッキ!』は、劇中で一切の言葉が用いられません。

ニャッキ!

しかし、『ニャッキ!』劇中で言葉が用いられないことは違和感には繋がりません。
というのも、このアニメには基本的に「人間」が出演しないためです。

芋虫であるニャッキには、「人間」の役割は期待されません。
我々は些細な事件から喜怒哀楽の感情を顕わにするコミカルな芋虫の日常を観るためにニャッキ本編を鑑賞するのであり、そこに道具や言葉を用いる知的生命体としての役割は、誰も求めていないのです。

逆に、同じくクレイアニメーションの『ジャム ザハウスネイル』などはカタツムリ(をモチーフとした謎生物)が主人公でありながら、彼らは人間の言葉をしゃべります。

ジャム2

しかし、この世界においてはカタツムリの学校があり音楽が開かれる、家族を構成して群れを成すなど、ある程度の文化や社会が醸成されているような描写があり、カタツムリとはいえ人間並みの知能を有していることが分かります。

また、非常に面白い例として挙げられるのが『ピングー』です。
スイス生まれのクレイアニメーションである『ピングー』はペンギンのピングーとその家族や友人に起きる事件をコミカルに描きだします。

ピングー

『ピングー』の劇中においては、日本語(を含む人類の用いる言語)は一切用いられません。
その代わりに、彼らは独自の言語である「ピングー語」で会話をしています。

そして、やはりこちらもある程度の群れで社会を形成しながら、暮らしています。ピングーたちは学校でモノを学び、友人と玉遊びをして交友を深めます。
こちらにもある程度発達した知能がみられるわけです。

これらは現実のカタツムリやペンギンというよりも、一つの知的生命体としての性格が強く、現実世界で人間が行っている営みの主役を別の生物にコンバートしたと読み取れます。

つまり、彼らは言葉を用いて会話しなければ、逆に違和感があります。
これらの主人公には「人間」としての役割が強く期待されているのであり、必然的に言語についても「持たされて」いるのです。

〇『モルカー』世界の人間は知的生物か?

では、これを踏まえて『PUI PUI モルカー』本編第1話を観てみましょう。
すると本編開始からわずか1秒で人間(人形ですが)が登場します。

実際にこのまま視聴を続けると、アニメ本編が開始してから30秒もしないうちにOLとおぼしき女性が時計を見て焦っている様子が映し出されます。
さらに、渋滞最前列の男性は、自分のモルカーが渋滞の原因になっていることなんかそっちのけでスマホをいじっています。

視聴を続ければ救急車モルカーや病院の存在、パトモルカーや警察の存在も登場し、明らかに人間社会としての現代文明が成り立っていることがわかります。

しかし、一方で前述の通り、『モルカー』世界の人間は言葉を発しません
発声器官を用いた鳴き声の発声(笑い声など)はむしろ積極的に行いますが、意味を持った言葉の発声(これを「発話行為」といいます)については、一切行いません。

この時点から読み取れることは以下の通りです。

・『モルカー』本編世界には、現実と同じような人間社会が存在する。
・文化水準や技術レベルも現実と似通っている(モルカー除く)。
・『モルカー』本編における人間は発声器官をもつ。

では、『モルカー』世界には言葉が存在しないのか?
それは違います。なぜなら、街中のいたるところに文字が確認できるためです(第2話にて"POLICE""STORE"など)。

表記としての文字が存在する以上は、「読み」が、すなわち発話される形態が存在するはずです。
そして、それは発話行為に紐づきます。
そもそも言葉も文字もなしに、このレベルの文明を組み立てるのは不可能に近いでしょう。

となると、ここで一つの疑問が生じます。
なぜ『モルカー』本編では言葉が発されないのか?

僕はこの答えを、「見里監督によって意図的に捨象されているため」と考えます。
つまり、『モルカー』世界の人間は、知的生命体としての役割を期待されていないのです。

この世界における人間は、単なる舞台装置以外の何物でもありません。
なんなら、人間をネコに置き換えようが、芋虫に置き換えようが、支障はないのです。

〇見里監督の狙い

『PUI PUI モルカー』は幼児向けのアニメです。
キンダーテレビ(おそらく"kindergarten" = 「幼稚園」から)で放送されていることからもそれは明らかでしょう。

幼稚園児に見せるのですから、ある程度は知育的な役割も期待されていることとなります。
事実、『アンパンマン』や『きかんしゃトーマス』、『しまじろう』などのアニメーションにおいては、言葉が欠かせません。

『アンパンマン』から言葉を取ったら、暴力パン男によるバイキン撃滅ショーと化しますし、『きかんしゃトーマス』から言葉を取れば、やたらと不気味で掘りの深い顔がついたカラフルな機関車が行ったり来たりするだけの、ひたすらシュールな映像になります。

まだ幼児の彼らにとって、外の世界はまだまだ広く、危険なものです。
ですから、これらのアニメーションを通じて、主に道徳面が大きいと思いますが、様々なことを学ぶことが期待されます。

しかし一方で、この「言葉」という要素が彼らの学習の障害となります。
乳幼児が視聴する以上は、知らない言葉が多かれ少なかれ出てきますが、様々な言葉を学ぶことができるという一面もありつつ、その意味が理解されないという危険性も同時に秘めているためです。

実際に、僕の小さい頃などは、意味が分からないながらもお気に入りのディズニー映画を何度も繰り返し視聴していた記憶があります。
しかし、そのストーリーについてはいっぺんたりとも理解していませんでした

大人になってから再度見返した時になってやっと、そのストーリーを把握することができました。
僕は、人生でおそらく100回以上も見た「トイストーリー2」のあらすじを、大学生になるまで説明することができなかったのです!

言語運用能力を育むという効果がありつつも、そのような危険性を秘めている以上、これらのアニメーションは「普遍的」であるとは言えません。
どうしても、ある程度の年齢、知能、知識、そして言語運用能力を備えなければ、物語を楽しむことは難しくなります

しかし、『モルカー』はこの点をクリアしています。
なにしろ、劇中で言葉が使用されないのですから。
このアニメは言葉を使用していないが故に、視聴者の年齢、出身、文化、あらゆるものを問わずに、直感的に楽しむことができるわけです。

このアニメを楽しむために必要なのは、「悪いことをしたら警察に捕まる」「怪我や病気をしたら病院へ行く」などの、最低限の常識のみ。
ある意味、究極の「国民的アニメ」であると言えるでしょう。

更に言えば、これらの「最低限の常識」を知らなかったとしても、アニメの展開を通して学ぶことができます。
それも、言葉を一切用いずに、です!

これはもはや革命であると言えるのではないでしょうか。
もはや、日本の幼児教育は言葉が一切必要ない段階まで進歩したといえるのですから。

〇『PUI PUI モルカー』と抽象のセカイ

先ほど『モルカー』に言葉が登場しない理由を、僕は「見里監督の意図的な捨象である」としました。

これは、純粋な感情の発露がカギとなっている『モルカー』世界において、「言葉」という要素が不純物で働くためであると僕は考えます。

嫌なことがあったら怒る。
嬉しいことがあったら笑う。
悲しいことがあったら泣く。

そんな、「あたりまえ」のことを、映像表現の中で究極的に追求した、見里監督の渾身の作、それこそが今作『PUI PUI モルカー』であったのです。

考えてみれば、多くの生物は言葉がなくとも厳しい世界を生き抜いています。
鳴き声が言葉に似た働きをする生物は数多くあれど、言葉を操り、無限の思考を繰り返す生き物は人間以外にありません。

しかし、本当にそれでよいのでしょうか
僕たちはそんな小難しいことを考えるために生きているのでしょうか
「あたりまえ」のことを忘れてはいませんか
そのようなメッセージを感じます。

幼児向けアニメである今作が、なぜか連日Twitterでバズり、大人たちが熱狂する理由も、ここにあるのではないでしょうか。
敢えて言うなら、「言葉は邪魔」なのです。
『PUI PUI モルカー』は、言葉の奔流に追われ続ける現代社会人の、最後の心のオアシスであったのです。

去年にも増して不安定な社会状況が叫ばれる今だからこそ、『モルカー』を視聴してみてはいかがでしょうか?

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