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「ゴースト・オブ・ツシマ」は一人の男が神になるまでの話だった。

2020年も上半期が終わりますが、多くの注目タイトルが世に送り出されてきました。
FF7リメイク」や「ザ・ラスト・オブ・アス パート2」などはその最たるものであったでしょう。
これらのような注目タイトルには多くの場合、過度な期待が寄せられてしまい、賛否両論に、下手をすると大ブーイングを買ってしまうという場合も少なくありません。

また、発売延期を繰り返すようなタイトルもあります。
「FF7リメイク」はもともと三月に発売予定だったのが四月の発売にずれ込んだし、「サイバーパンク2077」も四月発売の予定を大幅に遅らせて今年の秋の発売になるといわれています。

クオリティを上げるためには仕方のないことですが、同時にファンの期待を増大させるような行為でもあります。
たいていの場合、この宣言には非常に大きな覚悟が必要になるでしょう。

さて、本記事で扱う「ゴースト・オブ・ツシマ」もこの例に漏れず、発売延期をした作品でした。
否が応でも高まってしまうファンの期待。
それに対して、彼らの提示した答え ―発売された作品― は、世間から非常に高い評価を得ることに成功しました。

Amazonでは平均評価4.6。
Meta criticでもメタスコアが83で、ユーザースコアが9.3という非常に高い数値をたたき出してます。
実際、僕が遊んでみたところ、「これは2020年の最優秀ゲームかもしれない」と思わされました。
PS4で遊んできたゲームの中では断トツで完成度が高く、細部まで作りこまれているような印象を受けたのです。

しかし、その中身は単純な「侍ゲー」ではありませんでした。
かといって、「忍者ゲー」でもありません。
真の意味で「神ゲー」だったのです。

※この記事は「ゴースト・オブ・ツシマ」とマンガ作品「ファイアパンチ」のネタバレを多分に含みます。
 プレイ後・読後の閲覧をお勧めします。

ゴースト・オブ・ツシマという物語

そもそもゴースト・オブ・ツシマとは「蒙古との決戦に敗れた落ち武者が、蒙古への復讐のために修羅道に堕ちる」というのが事前情報でした。
そのあらすじの感じから、フロムソフトウェアの「SEKIRO」を思った人もいるかもしれません。
侍や忍者が、(数百年の違いはあるとはいえ)中世の日本を駆け巡る死にゲーアクションという面では両者ともに一致するからです。

実際、「ツシマ」の序盤はそのように進みました。
浜での決戦、そして金田城でのコトゥン・ハーンとの決闘にて命を落としたように見えた境井仁は、気が付くと自分が見知らぬ女に助けられていることを発見します。
女の名前は「ゆな」といい、対馬に住んでいる野盗でした。

彼女は境井の刀を売り払うなど、境井の救命だけが目的ではなかったようですが、それでも彼女のおかげで一命をとりとめた境井は彼女を「命の恩人である」として、罪を咎めません。

息つく間もなく襲ってきた蒙古軍の追撃を上手くかわしたところでチュートリアルは終了、島中を回れるようになるのですが、ここからメインストーリーを進めていくと、すぐにおかしな点に突き当たります。

彼は「侍」ではなくなっていたのです。

「冥人」

先述したゆなには弟がいます。
名を「たか」といい、対馬でも有数の腕利き鍛冶職人です。
しかし、彼はゆなと逃げる途中に蒙古につかまってしまいます(ここの話の詳細はサイドストーリーで語られます)。

ゆなと別れた後の境井の第一目標は金田城に囚われている伯父、志村を助けることでした。
志村は対馬国において地頭の任を鎌倉から任されており、彼を助けることが対馬、ひいては日本国を守るために必要であると考えたのです。

しかしながら、これはゆなに止められてしまいます。
強大な蒙古軍の大拠点にたった一人で討ち入るのは無茶である。
そもそも金田城に一人で乗り込んだから命を落としかけたのではないのか。
犬死するなら仲間をそろえて計画的に攻め込んだ方が志村を救うことにつながるだろう。
ということでした。

また、仲間をそろえる旅の前に、自分の弟であるたかを助けてくれないかともお願いをします。
彼女は野盗で、境井は侍。さらに対馬が蒙古という脅威にさらされているという状況で、たった一人を救うためだけに危険な真似をするなど、普通は聞き入れるはずもありません。
ですが、たかが腕利きの職人であり、城攻めに有用な道具を用意してくれるであろうこと、更に命の恩人である彼女の願いであることから、境井はこれを受け入れます。

見事救出作戦は成功し、たかを小松の鍛冶場に連れてくることに成功します。
ただ、この小松の鍛冶場は蒙古の拠点。鍛冶作業をしたときに出る煙で蒙古軍が攻めてくるだろうということで、なかなか動けませんでした。

境井はこれを逆手に取り、鍛冶場を動かして蒙古軍をおびき寄せて一網打尽にするという作戦を取ります。
見事これも成功し、鍛冶場を取り戻すことができました。
しかし、ここで境井は衝撃的な一言を受けます。

「お侍の戦い方じゃない……」

助けたはずのたかから発された、畏怖の言葉でした。
この時代の侍の戦い方は、一騎打ちが主流。一対一で正々堂々と刀を使って戦うというものでした。
一方、境井の戦い方は(プレイスタイルにもよりますが)くないや煙玉などの飛び道具や搦め手を多用し、場合によっては敵を背後から闇討ちすることさえありました。
これでは確かに「侍」ではありません。

言葉に詰まる境井。
すると、ゆなはこれに対して次のように返します。

「当り前さ!この方は冥府から蘇った冥人(くろうど)様だからね!!」

すると、茫然としていた人々は納得したような表情で、逆に境井の活躍を讃え始めます。
それまでは恐れていたというのに、この一言を受けただけで、彼らの境井に対する態度は一変するのです。

この時の村人(たかを含む)は、まるで何も考えていないかのように見えます。
時代的に、神や仏、鬼といった存在が今よりも強く信じられていたころであるとはいえ、目の前の人型生物が、「侍」ではなく「冥人」であるといわれたことを素直に受け入れたようでした。

これが、「ツシマ」を「神ゲー」にした第一歩でした。

"演技"と宗教

その後、各所で冥人のうわさが囁かれるようになります。
ゲームシステム的にはメインストーリーやサイドストーリーを進めるほどに冥人のうわさが広まり、それと同時に境井が強化されるという仕組みになっています。
ですから、逆に言えば、ストーリーを進めるほど、そして境井を強化するほどに、冥人のうわさは広まるのです。

そして、最初こそ冥人と呼ばれること、振舞うことに対して違和感を抱き、拒否していた境井ですが、段々と彼も「侍としての境井仁」から「冥人としての境井仁」へと染まっていきます。

それはまるで、「ファイアパンチ」の劇中で、単なる復讐者であったアグニが、アグニ教の神に、復讐の鬼であるファイアパンチに染まっていく過程を見ているようでした。

ジャンププラスにて連載されていた「ファイアパンチ」。
作者は現在「週刊少年ジャンプ」で「チェンソーマン」を連載している藤本タツキ先生です。
彼は非常に映画好きであると知られていますが、「ファイアパンチ」にもそのエッセンスはふんだんに盛り込まれていました。

初めはただの村の青年でしかなかった主人公「アグニ」は、妹を殺した軍人「ドマ」への復讐の旅の最中で、映画狂「トガタ」と出会います。
彼女(便宜上"彼女"と記します)との出会いの中で、アグニは演技することを学び、そして次第にそれがうまくなっていきます。

例えば、時には「妹と命からがら逃げてきた難民」に。
時には「女性ばかりの難民キャンプを襲おうとした暴漢」に。
時には「復讐の鬼『ファイアパンチ』」に。
そして、時には「アグニ教の神」に。

僕が劇中で一番好きなセリフが第63話に登場します。

「人は信じたいものを信じたいように信じるんだ」
ファイアパンチ第63話 p18より

これはファイアパンチ作中でも特に重要なキャラが発したセリフというわけではありませんが、しかしこのセリフこそがファイアパンチという作品の核の一つであるように僕は考えています。

「ファイアパンチ」という作品では、「人は誰しも演技をしながら生きているものである」とされています。
それは見方によってはペルソナといえるのでしょうが、つまるところ、生き方にも通じます。

教師として生きる人間は、教師として振舞うように意識しますし、すると自然と身も心も教師となっていく。
人には自分に与えられた役割が先にあり、それに合うように自らサイズを合わせていく。
だからこそ、神として振舞うことを求められる人間は、徐々に神としての振舞いを得ていく。

中世日本の「官打ち」という呪いが思い出されます。
これは、その人に分不相応な官職を与えることによって、その相手を滅ぼすという呪いなのですが、これもまた、演技に通じます。

与えられた役割をこなすために、その役を務める人間として自身に演技を染み込ませるわけですが、自分に不釣り合いなほど大きな役では、役者が役に飲み込まれてしまう。
つまり、文字通り「役者不足」
「官打ち」はかなり実用的な呪いだったのではないでしょうか。

そして、この演技は自身のみでなく、周囲にも伝播します。
自分が自身をそうであると思い込むのと同様に、他人も自分に理想像を重ねてみるようになるのです。

ファイアパンチの作中でいえば、主人公を慕う青年「サン」がその筆頭に挙がるでしょう。
彼はアグニ教のリーダーでしたが、同時に熱心なアグニ教の信者でもありました。

物語終盤にサンは同じ教団の幹部を殺します。
殺された幹部たちは、どちらかというと現実主義者で、アグニ教が虚構に過ぎないことを知っていました。
しかし、サンはこれを受け入れず、「アグニ教に仇なすもの」として幹部を処刑したのです。

そして、最終盤に復讐の鬼と化したアグニと出会った時に、サンは戸惑います。
お前はアグニ教の神ではない。お前は誰だ。と。
アグニという一個人に対して、神性を見出しすぎたからこそであるといえましょう。
彼もまた、「自分の信じたいものを信じたいように信じている人間」だったのです。

「ツシマ」にもこのような人間がたくさん出てきます。
つまり、境井仁という一個人を超えて、「冥人」という肩書だけが暴走していく様をハッキリ観察することができるのです。

「冥人」のうわさについて

先述したように、このゲームでは主人公境井を強化するために冥人のうわさを広めることが必須です。
蒙古の旅団や賊を討伐する、民の願いを聞き入れる、蒙古の拠点を制圧する、などあらゆることでうわさが広まるようになっているので、普通にゲームをプレイしていたら、ゲーム中盤にはそれなりに冥人のうわさは広がっています。

そして、うわさは一人歩きします
ゲーム中にも何度もそれを感じさせられる場面があります。
例えば、野党の頭である丈志と話した時には、彼からこのように言われます。

「あんたまさか、冥人か!?山よりでかいって聞いていたが……」

また、ハーンとの決戦後の志村之譚始まってすぐ、荷車が泥にハマって動けなくなっている村人に、どこに行くのか尋ねると次のように返されます。

「近く冥人さまが元の国に攻め入って蒙古を打ち滅ぼすと聞いたから、せめて物資を差し上げたくて……」

どちらも境井が流した噂ではありません。
もちろん彼はただの人間(?)なので、山より大きいなんてことはありませんし、元の国へ攻め入って「ゴースト・オブ・モンゴル」する予定もありません。

これは両方とも、冥人としての境井仁のうわさが一人歩きしてしまったが故のことであるといえましょう。
即ち、この時点で冥人とは、境井仁という人物を指すのではなく、「蒙古への復讐のために冥府より舞い戻った地獄の使者」という性格の方が強まっていたのです。
端的に言えば、人性を失っていっているのです。

山よりでかい、どこにでも現れる、蒙古を殲滅しては去っていく。
どれもこれも人間とは思えません。
これらはすべて境井の鬼神のごとき戦いぶりを目の当たりにした(そして命を救われた)人々が、尾ひれを付けながらうわさを流した結果なのでしょう。

そして、うわさが流れれば流れるほどに境井は強くなります
本来、境井が強くなるために、うわさという要素は全く必要がないはずです。
しかし、冥人のうわさが広まれば広まるほどに、彼は冥人としての生きざまを受け入れ、本来なら侍が戦いには用いない暗器を使うようになります。
まるで、自身が冥人であることを確かめるかのような独り言をつぶやきながら。

「神」と化した冥人

冥人と化した境井はまさに鬼のような力を見せます。
煙玉で姿を消し、炎を纏う太刀を操り、毒矢で敵を仕留めます。
更に、一度に三人の敵を闇討ちしたり、「冥人の型」を使って複数の敵を一太刀の下に切り殺したりもします。
もはや、ここに侍としての境井の姿は見受けられません。

人間離れした活躍を見せる境井。
ここで僕は思いました。
「こいつ、本当に人間か?」と。

冥人と化した境井は、超人的な耐久力に加え、不眠不休で動き回る体力を持ちます。
そもそもこのおじさん、どうやって体力を回復するのかといわれれば「気力」で回復しています。

明らかに致命傷でも踏ん張って耐えます。一回死にかけても鉄の意志で立ち上がります。
更には、ゲーム終盤にて、トリカブトの毒を塗った毒矢を受けても、なぜか生き返ります。
ゲーム的な表現といわれればそこまでですが……

いや、でもゲーム的な表現とはいえ、毒を受けた境井に対しての指示が「境井が毒を受けた。気力で解毒しろ!」はおかしいでしょ。
微量でも喀血して死ぬような毒を受けておきながら気合で解毒して、直後に激しい戦闘をこなすなんてこと、普通の人間にできますか?

更に、闇討ちの補助となる「聞き耳」システムだって、相当に人間とは思えないようなスペックを誇っています。
パワーアップさせると数十メートル先の敵の動きまで事細かに感知できるようになりますが、これもまた人とは思えない能力です。

明らかにゲーム終盤までで境井は人の枠を超えています。
まさに人間離れしているのです。

そう考えると、この物語は冒頭から少しおかしかった。
コトゥン・ハーンと戦って落とされた橋の上から川までは相当な距離があります。
手負いの人間が一人落ち込んで、しかも長距離を流されて助かるとは到底思えません。

ゲーム終盤にトリカブトの毒矢を受け、吹雪の中に倒れてもゆなの助けもあり生還しました。
どんな絶望的な状況からでも必ず生還し、民の願いを叶えてきました。
奇跡とも呼べるような回復を見せながら。

境井が強くなるためには、何はともあれ、「うわさを広める」ことが重要でした。
人のうわさが広まって、強さを増す。
すなわち「信仰が深まってその強度が増していく」ということです。
「うわさが広まって、様々な解釈が人々の間でなされるようになった」ともとれます。

これらはすべて一つの事実を表しているように見えます。
つまり、「境井仁」という人間は既にコトゥン・ハーンとの決戦時に果てており、それ以降の境井は、信仰に支えられる霊的・神的存在になっているのではないかということです。


人々の間で「対馬を護る伝説の侍」が囁かれたから、境井は蘇った。

物語終盤で境井が毒に倒れても、民の願いがそれを許さなかった。

境井の発揮する超人的な能力は、全て民の願いが、信仰が深まったからこそ発揮されるものだった。

だからこそ物語序盤のうわさが出回っていない(=信仰が浅い)状況では境井はまだ弱く、彼が様々な出来事を為すと、それに比例してうわさが広まり、境井の力は強まっていく。


このように考えると、辻褄が合うように思えないでしょうか?
少なくとも僕には、境井はもはや人ではなく、人の形をした何かであるようにしか思えないのです。
そして、このゴースト・オブ・ツシマというゲームは、境井仁とゆなの作り出した「冥人」という存在を祀る、土着宗教が誕生するまでの物語であると僕は考えています。

「神ゲー」認定間違いなしといっていいくらい面白いゲームですが、まさか「主人公が神になる」という意味でも神ゲーだったとは恐れ入った。

もしこれが本当なのであるなら、志村はこれを見抜いていた可能性があります。

彼は「誉れ」に徹頭徹尾拘り、「誉れ」こそが民を収めるために必要不可欠なものであると説きます。
同時に、冥人となった境井には「それでは民はついてこない」とも。
ゲームの最終盤には「民に刺されるかもしれない」と忠告されることすらもあります。

彼が本当にこの宗教の誕生を見抜いていたとするならば、志村の心配ももっともです。
民が信じているのは、「冥人としての境井仁」にすぎません。
武士としての、一人の男性としての境井仁を知っているのは、ゆなや志村をはじめ、ほんの一握りの人間しかいません。

もし、境井が「民の信じる冥人」を演じきれなくなったら。
境井の思惑や信条と、「民の信じる冥人」がかみ合わなくなったら。
その時は、境井が殺され(もしくは必要とされなくなったことで消滅し)、新たなご神体として別の人間が冥人を名乗ることになるかもしれません。

更には、この頃には冥人以外の言うことを聞かなくなっているかもしれません。
それほどまでに人を窮地から救い出すヒーローの影響力は大きく、武士の権威など軽々と上回ります。
志村の心配していた通り、鎌倉の権威が及ばなくなる可能性も十分にあり得ます。

ゴースト・オブ・ツシマとは、蒙古軍から見れば「浜での決戦から生き返った侍の亡霊」ですが、対馬の民から見れば、「対馬を護るために蘇った侍の怨霊」なのです。

霊は神ではなくないか?と思われるかもしれませんが、霊的存在、特に怨霊が祭り上げられて神的存在に昇華した事例は多くあります。
例えば、平安時代最強の怨霊と名高い(?)崇徳上皇などは、もともと怨霊扱いでしたが、その怒りを鎮めるために神として祭り上げられました。

他にも、菅原道真公なども元々は恐れの対象でしたが、今では雷様を経由して、学問の神様として親しまれています。
このように、霊が神になった事例はいくらでもあるのです。
そして、境井仁が「対馬を護るために蘇った怨霊」から何らかの神に転ずる可能性もあることは分かっていただけるかと思います。

境井はゲーム開始から対馬中を駆け巡ります。
そして、「対馬に平和をもたらす」という1点の目標を胸に戦い続けます。

彼の基本的な行動原理は、侍として民に平和をもたらすことです。
これは全く揺らぎません。侍である志村らと対立したのも、民を思う姿勢に食い違いが発生したが故のことでした。

そんな彼ですが、なぜか島中を駆け巡り、民の願いのために奔走します。
一見蒙古がかかわっていないような依頼だったとしても。

また、彼は旅先で神社や稲荷をお参りします。
和歌を詠むこともありますし、秘湯に浸かって体力を増やしたりもします。
これらはすべて、村の人々が話してくれることです。

当然ですが、普通は神社にお参りしようが特別な効果を発揮するお守りなんかもらえませんし、旅先に和歌を詠むためのちょうどいいスペースなんかありません。
秘湯に浸かっても気持ちがいいだけで体力が増加するなんてこと、ありません。

更にいうなれば、フィールドもそうです。
劇中の対馬は、大変美しい日本が描写されていますが、なかでも注目すべきポイントは、四季がごちゃ混ぜになっているところです。

あるところでは桜が咲き乱れ、あるところでは青々とした葉が生い茂り、あるところでは紅葉したカエデが絶えず舞っており、またあるところでは深い雪の中に全てが閉ざされています。

当然ですが、対馬はそんなびっくりどっきりな場所ではありません。
この一国の中でそれほどの気候変動が起こるというのはさすがに無理があります。
ですが、これ、一つ思い当たることがありませんか?
この無茶苦茶ながらも美しく、夢のような情景。
そう、これはまるで神話の舞台のようなのです。

これらもやはり、人々が話す「冥人」のうわさが境井に影響を与えたものであると僕は考えています。
人々の流したうわさの数だけ、その質だけ彼は強くなり、今日も対馬を護るために東西を駆け巡るのです。
そして、このゴースト・オブ・ツシマというゲームは、きっと後日談という形で語られているのでしょう。
境井仁という「神となった男」の為した伝説として。

ゴースト・オブ・ツシマとは何だったのか

ゴースト・オブ・ツシマという物語は、「冥人という神が誕生するまでの宗教誕生秘話」であり、伝説の始まりであったというのが、僕の考えです。
繰り返しになりますが、境井仁は冒頭のコトゥン・ハーンとの決戦を終えて橋下に落下した時点で生を終えており、そこから島中の民の願いによって冥府から蘇った侍の怨霊なのです。

そして、これはやがて荒神として祀られる運命にあるのではないか。境井仁は人から神へと昇華するのではないか、その予兆を示しているのがゲーム中の境井の活躍ではないのか。
明らかに人の身を超えた活動量、能力、そして技の数々。
これらは、彼が霊的、神的存在になったことを表しているのではないでしょうか。

だからこそ、彼は蒙古を打ち破ることができた。
史実の蒙古襲来、すなわち元寇では、対馬の侍たち八十騎は熾烈な戦いの末に壮絶な最期を遂げたとあるようです。
実際には、彼らの願いは届かなかった。

だからこそ、逆に現代になって対馬の人々の願いによって蘇ることができたなら、という歴史のIFルートを見せられているのだと思います。
ゴースト・オブ・ツシマは、蒙古軍にとっても劇中の人々にとっても「対馬を護る怨霊」でしたが、同時に今を生きる我々にとっても、元寇で虚しく散っていった侍たちの蘇った姿(=ゴースト)だったのです。

そういった意味で、このゲームは二重に神ゲーでした。
一つは純粋に賞賛としての「神ゲー」。
もう一つは、「人が神になっていくまでの過程」を描いたゲームとしての「神ゲー」です。

このゲームは間違いなく2020年の最高傑作のひとつになるでしょう。
僕は以前FF7リメイクの感想記事を執筆したことがありますが、あの時以上の興奮を得ています。

新規IPでありながら、これほどの深い感動を与えてくれた、また、大きすぎた期待を裏切らなかったその勇気と技術を持ったサッカーパンチプロダクションズには敬意を表します。

民のために戦え 名誉を捨ててでも

「ツシマ」がどのようなゲームであったかは、この一言さえあれば足ります。
しかし、一点だけ違うとすれば、境井は武士としての名誉、誉れを捨て去りましたが、同時に冥人としての新たな名誉を得たと言えるでしょう。

最後に一点だけ。
このゲーム、ゴースト・オブ・ツシマは、ストーリーにかかわる選択肢を選ぶことがほぼできません。
これは神話に干渉することが我々に不可能なように、ほとんどが確定している過去であるからだと考えています。

しかし、ゲームの一番最後では、物語に深くかかわる重大な選択をプレイヤーの手で選択することができます。
ここではその詳細は敢えてぼかしますが(未プレイの方もいらっしゃるかもしれないので)それ以降の境井の生き方を決定づけるような、超重要な決定です。

それまでは全く干渉できなかったストーリーに対して、なぜ最後の最後だけ干渉できるようになるのか。
それは、全ての人の願いを体現する存在として再度誕生した境井の、人間としての最後の抵抗であったのではないかと僕は考えています。

あなたがどちらの選択肢を選んだのかはわかりません。
しかし、それがあなたの、ひいては「境井仁という一人の人間」の選択であり、冥府から蘇った怨霊「冥人」の選択ではなかったのだとすれば。
ゴースト・オブ・ツシマという物語も「ファイアパンチ」と同じく、「演技していないヒト」に始まり、「演技していないヒト」に終わると結論付けられるのではないでしょうか。

新たな伝説の誕生を目撃したい人にも、ただ純粋に面白いゲームが遊びたい人にも、万人にお勧めできるゲームです。

 

追伸・ご報告

さて、最近noteの更新が滞っていてごめんなさい!
実はこの4月から6月頃にかけてずっと本の執筆をしていました!

「とにかくお金と時間を節約する」というのがコンセプトの学習法についての本で、扶桑社より、この8月2日に出版されました。
現在はAmazon並びに全国の書店にて販売中となっています!

僕が培った独学勉強法のノウハウや、いかにしてお金や時間を節約して仕事をこなしていくかについて、全てを詰め込んだ一冊となっています。
もし周りに勉強について悩んでいる人がいたらオススメ頂けると嬉しいです!

そもそもなぜこの本を書こうと思ったかですが、もともとはこちらの記事がきっかけでした。

この記事をご覧いただいた編集者の方からご連絡を頂き、僕としても願ってもない返事だったのですぐにお返事しました。
その後、とんとん拍子に話が進み、気が付いたら執筆も終了、あとは本屋の店頭に並ぶのを待つのみとなっていました。

去年の今頃は、まさか来年の自分が本を執筆するとは思ってもいなかったので、なんとも言い難い気持ちがあります。

上記した記事を書いてくださった西岡壱誠さんと、担当編集の山口さんには何から何までお世話になりました。
この場を借りて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

初めて本を書くとなり、初めに躓いたのはその字数。
10万字以上にもわたる超長文を書くことは決して楽なことではありませんでしたが、「東京大学の学生の実家は太いことが多い」というデータが出ていることが、この本を書く上での原動力となりました。

それは、僕自身、東京大学に来て、歪な違和感を感じることが数多くあったからです。

東京大学の学生は、どうやら、そのほとんどが「自分の実家は普通である」と思い込んでいるように見えます。
しかし、それは大きな間違いです。
実際には年収950万を超えるような世帯が半数以上を占めています。
これは日本の平均世帯年収を大きく上回るものであり、少なくとも中流階級から上流階級のわたりの部分にいるような家庭出身の学生が多いことを示しています。

僕が東京大学を目指したのは、ひとえに「学費が安いから」です。
東京大学しか目指すことができなかったからです。
東京大学に来るまでは、「国立大学の門戸は自分のような経済的に恵まれない子供が学ぶためにあるのだ」と固く信じていました。

この思いは東大進学後にはかなく崩れ去ることとなりました。
周りの学生の家庭を聞いてみたら、親が超有名企業の役員であったり、医者であったり、法曹三者であったり、世間的にエリートといわれるような階級の子息しかいなかったのです。

僕は大変困惑しました。
国立大学のため学費が安く、東京のど真ん中という、地理的にも経済的にもハードルが低い大学であるのに、その中身は豊かな家庭の出身者が跋扈する地獄ではないかと。

僕は国立大学に夢を見すぎていたのでしょう。
少なくとも東京大学は貧困ながらも能力のある学生にとっての「最後の楽園」ではなかった。

これは仕方のないことでしょう。
しかし、教育費をいくらかけられているのかどうかで受験の結果が決まってしまうのは面白くない。

僕はお金持ちのことを叩きたいのではありません。
僕も親になったら自分の子供に収入の許す限り最良の教育を受けさせると思います。これ自体は全く間違ったことではありません。

とはいえ、東京大学のような最高峰の大学が、どのような経済状況の人にも門戸が開かれているのにも関わらず、実際のところは「重課金者」御用達の大学となっているような現実が気に食わないのは確かです。

ですから、僕は上に文句を言うのではなく、下を引き上げることにしました。
お金をかけずにコスパ良く東大を目指せるような本があれば、この状況も少しは変わるのではないか?と思うようになりました。

この本は、そのような思いから執筆したものです。
ですから、重課金者に対して無課金or微課金で戦うための術を数多く取り揃えたつもりです。
もし東京大学を目指したくとも、様々な環境が原因で気後れしているような人がいらっしゃったら、ぜひこの本を手に取ってほしいと思っています。

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