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考えるな、カンニングしろ。

カンニングのすすめ

Twitterをやっていたら、こんなニュースが目に入った。
なるほど、確かに高校3年生からしたら悲痛の声を上げてしまうほど今の状況は辛いだろう。
気持ちはわかる。

高校3年生に残された時間はあまり多くはない。
それに加えて、入試改革まで起きてしまう有様だ。
彼らの目の前に見えていた道は、おそらくガラガラと大きな音を立てながら崩れている真っ最中なのだろう。

だからこそ、今、カンニングをして賢くなろう。

「やってはいけないこと」

世界共通の「試験中にやってはいけないこと」として、カンニングが挙げられる。
カンニングは何らかの方法で自分のもの以外の解答を覗き見て、それを元にして解答を作り上げるという不正行為である。

なお、ここでは、それが試験中か否かには関わらず、「自分のもの以外の解答(模範解答含む)を参考にして自分の回答を作り上げること」という意味で、「カンニング」という言葉を使う。

試験におけるカンニングの歴史は思っているよりも深く、古くは古代中国で科挙に合格するために着物の全身に細かく解答を綴った「カンニング着物」が作られたこともある。
もちろんこの技術は今日でも発展し続けており、小型化した電子デバイスで外と通信しながらテストを解くだとか、何らかの方法で替え玉受験を試みるだとか、あの手この手で不正受験をしようとするものは跡を絶たない。

カンニングも弱者の戦略の1つである。
試験で点が取れない、どうしようとなった時に、自分自身の実力をあげるという方法と同時に「自分よりも実力が上回っている誰かを真似する」という方向へ考えが至るのもごく自然な発想と言えよう。

だからこそ、カンニングは世界共通で起こりうるし、絶えることはない。
もし今の地球上からカンニングを絶滅させたとしても、あっという間にどこかの誰かがカンニングの「再発見」をしてしまうだろう。
天然痘とは違うのだ。

では、カンニングは絶対にやってはいけない悪いことなのだろうか。

「やってもいいカンニング」と「やってはいけないカンニング」

僕が思うに、カンニングには二種類ある。
試験中に行われるものと、それ以外である。

試験で行われるカンニングは、言わずもがな、やってはいけない。
そもそも試験というものは全員をスタート地点に立たせてようい、ドンで一斉に勝負をさせる、どちらかといえば徒競走のようなものであるから、そこには同じ条件で勝負をさせるという公平性の担保が必要である。

試験はなぜフラットな条件下で行われるかと言うと、先程も言った通り、全員を同じ条件で比べた時に誰が一番秀でているのかわかりやすくするためである。
これは科学の実験のような発想から来ているとも言えるだろう。
比較実験するときには、比較する値以外を全て同じ条件にしないと、何が原因でその変化がつくのかがわからなくなってしまう。

早い話が、100m走にバイクや車を持ち込んではいけないし、ドーピングしたりフライングしたりしてはいけないということだ。
走る際にはその人の実力が100%発揮されるように、全員が同じフラットな条件のもとに行われないと、誰が一番早いのかの比較ができないのだ。
勉強についてもこれは同じである。

では、試験中以外に行われるカンニングとはなんだろう。
これは、自習の際に行われるカンニングである。
つまり、自習中において、自力で問題を解く前に、模範解答を参考にして答えを作り上げるという行為のことを言う。

なぜこの場合はカンニングしてもよいのか?
それは、このカンニングによって不利益を被る可能性があるのが、本人に限定されるからである。

試験中のカンニングの場合には、自分は利益を得るけれども、自分以外の全員は相対的に不利になってしまう。
つまり、自分以外の受験者が全員不利益を被るのである。
これは全員が同じ状況からスタートし、他の外的要因を寄せてはいけないという試験の趣旨に反する。
だから試験中のカンニングはやってはいけないのである。

対して、自習中のカンニングはどうだろうか。
自習している最中に答えを覗き見ても、誰も得をしない。
なんなら、自分はその学習機会を失ってしまう可能性すらあるから、もしかするとカンニングをした本人が損をしてしまう可能性がある。

こういった意味で、自習中のカンニングは公共の福祉に反さない。
周囲の人間は勝手にやればよろしい、それで落ちていくのは自分かもしれないけれども、そういった態度を取ることができるからである。

カンニングはするべきか

では、自習中のカンニングは本当に不利益を被るのだろうか。

これは、間違いであると僕は思う。
なんなら、自習中のカンニングは積極的に行って良いとも思う。
なぜか。

自習中にカンニングをして学習機会を損失してしまうのは、その問題の答えを覗き見て、何も考えずに解答を写してしまうからである。
ただの写経と化した学習には何の効果も望めない。これはただ時間と腕を動かす体力を失わせるだけであって、確かにこの場合のカンニングは学習者にとって損失となりえると思う。

ただし、これは逆に言えば「考えながら解答を確認すれば得になりうる」ということである。

そもそも分からない問題に立ち会った時に、我々は何ができるだろうか。
答えは、ただ考えるのみである。

ひたすらに考える。どこに突破口があるのかを探り続ける。
そして、糸口を掴んだらそこに錐で穴を開けてムリヤリにでもこじ開けてみる。
こういった経験から学習に対しての理解は深まっていくだろう。

では、突破口が思い浮かばない場合はどうすればよいか。
錐が手元にない場合にはどうすればよいのか。
こうした場合には、潔く壁の壊し方を確認するしか方法はないだろう。
だって、時間は有限なのだから。

もしあなたが無限の時間と無限の資源を持って目の前の壁を打ち倒せと言われたのであれば、ひたすらに考え続けることは成長のためにも良い手かもしれない。
これはどちらかといえば大学での研究に対する姿勢に通ずるものがある。

しかし、こと受験となると話は変わる。
あなたの腰には時限爆弾がくくりつけられている。
期限までに爆弾を解除できなければ、ドカン!といってあの世行きである。

浪人というコンティニューシステムもあるにはあるのだが、これは1コンティニューにつき数十万〜数百万の損失を生む大変危険な賭けである。
二の矢を当てにするのは言ってしまえば過度な安全志向に走った敗者の思考であって、これは勝負する前から負けることを覚悟している、臆病者の態度である。

やるからには一撃で勝ちきらなければならない。
では、貴重な時間をどの様にして扱えばよいだろうか。

答えは簡単、とにかく時間効率あたりの学習量を上げられるようにすれば良い。
答えのわからない問題に対して何十時間もかけて首をひねり続けている場合ではないのだ。

だからこそ、僕は教え子に対して自習中のカンニングを勧める。
3~5分考えてわからない問題があったのならば、すぐに答えを見ろと恥ずかしげもなく言い放つ。
だって、そこまで考えて何の方針も立たないのなら、恐らく次のステップに至るまで数十分以上かかるからだ。

そして、答えを見た後に、「なんで自分はこの答えにあるような方法が思い浮かばなかったのだろうか」と考えなさい、と後に添える。
これが大事で、これがなければ時間をドブに捨てているだけの阿呆になってしまう。

勉強は問題に向き合って答えを探ることだけではない。
むしろ、自分が負けた相手に対して、どうすれば次は勝てるのか、敗者たる自分と勝者とは一体何が違うのかというところを考えるべきなのである。


コロナ禍に見舞われている今、誰も彼もがパニックになっている。
もちろん受験生以外にも不安な学生は多いであろう。
その中でも自分の未来にダイレクトに関わってくる受験という一大イベントを控えている彼ら受験生の気持ちは、察するに余りある。

しかし、いくら泣いたからといって、その流した涙の量に比例する施しがあるとは限らない。
涙を流すのにも時間を消費する、体力を浪費する、結果として学習機会を損失する。
貯まるのはストレスだけである。

多少厳しいことを言うようだが、今の高校3年生たちが行うべきは、悲嘆することでも絶望することでもない。
目の前にしか道はないのだ。既に退路は絶たれている。
未来は不安定だが、だからこそ全力で今を生き抜かなければ、さらなる追い打ちを食らうのは他ならない自分である。

今の苦難は全員に平等に訪れている。
これに対するリアクションは様々だ。

環境がどうにかしてくれる人もいる。
自力であがく人もいる。
ただ泣き続ける人もいる。

僕ならあがき続けるだろう。
それしか未来を切り開く道がないのだから。

ピンチはチャンスという言葉がある。
誰が言ったのかは知らないが、ライバルが勝手に脱落していく今のコロナショックの世界は大チャンスでもある。

足掻いて足掻いて駄目ならば、最後は笑うしか無いだろう。
どうか、ポジティブに世界を捉え直してみてはどうだろうか。

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