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②思い出

 私は先天性無痛無汗症だ。幸い知能に問題は出なかったものの、怪我をしないよう細心の注意を払いながら普通の人と同じような生活をしている。私は血を流す痛みを知らない。汗もかかない。たまに自分は本当の人間なのかと疑いたくなる。でも怪我をすればちゃんと血も出るし、感動モノの映画を見て涙を流したこともある。ある時不注意で、段ボールで指にぱっくりと傷を付けてしまったことがあった。それの痛みは全く無いのに、血がどくどくと勝手に傷口から溢れ出して、とても怖かったのを今でも鮮明に覚えている。あの怪我以来、血を見ることが何よりも恐怖になっていた。菖蒲と出会ったのは、その怪我から半年ほど経った頃だった。その日もいつものように血に怯えながら朝起きて、学校に行って、普段通りに過ごしていた。この時の私はまだ特別な一日になることを知る由もなかった。

 天気の悪い昼下がり、古いトイレは薄暗さも加わり、一層不気味に感じられた。洗面台の真ん中の鏡だけ何故か付いていなかったので、私はそこで手を洗った。手を濯いでいると、隣の女の子の手から赤いものが滴り落ちているのが視界の端で見えた。でも不思議と気持ちは落ち着いていて、不謹慎化も知れないけど、その血を奇麗だと思ってしまった。ふと、血が出ることは痛いことだということを思い出し、思わず「痛そう」と心の声が漏れてしまった。ハッとして慌てているのを隠しながら、「大丈夫?」と付け足した。恐る恐る様子を窺ってみる。だけど、彼女の方が慌てていて、傷だらけの腕をむき出しにして水道水で必死にごしごし洗っていた。途端にハッとした顔で彼女はこちらに振り向いた。私に傷を見られたことを気にしているのだろうか。私は誰にも言うつもりは無いと伝えた。すると彼女は何故か申し訳なさそうに謝ってきた。私はそんなことよりも彼女の手首が気になって仕方がなかった。彼女の血が自分以外の誰かに見られたらと思ったらとても胸の辺りが気持ち悪くなった。私はいつも携帯しているポケットティッシュを一袋差しだした。すると彼女はまた申し訳なさそうにそれを受け取り、「ありがとうございます。」とだけ言い、気まずさからか直ぐに立ち去ってしまった。でも更に気まずくなったのはその後で、次の授業の英語のクラスで席替えがあり、隣の席になったのだ。しかし、気まずかったのも最初だけで、彼女は意外にも気さくな人柄で、すぐに打ち解けることができた。また、お互いに価値観がとても似ていたことから、私たちはお互いに一番の友人になった。それに名前も茉莉花と菖蒲で花の名前だったので、なんだか運命を感じずにはいられなかった。それから、休みの日は一緒に出掛けたり、電話をしたりなど、お互いのことをたくさん知ることができた。これは所謂「意気投合した」ってことなのだろうか。私はそんなことを思い、ベッドに寝転がりながら交換した連絡先を眺めて、笑みを漏らさずにいられなかったのを覚えている。こんなに価値観が合う人に出会えたのは初めてで、少しわくわくして、胃の辺りが少しこそばゆくなった。

 家の壁に飾られている写真を一人で眺めながら昔のことを思い出していた。でも、お母さんとの思い出は殆ど無いに等しかった。幼いころは確かにお母さんからの愛情を受けていたはずなのに、いつからかお母さんは冷たくなっていった。最近やっと胸の口を明かし、和解できた。それまでのお母さんは仕事ばかりで、私には見向きもしなかった。でも今では菖蒲にしか言えなかったような悩みもお母さんに話せるようになった。それにしても何故これまで不思議なくらい冷たかったのか分からない。確か病弱だった私の体が突然健康になった辺りから母と密に接した記憶がない。それまでは私が転んで泣いていたら飛んできて抱きしめたりしてくれていたのに。あの時はまだ六歳ごろだったが、鮮明に覚えている。家の駐車場で転んで、両膝を擦りむいた。私はあまりの痛さと転んだ衝撃に驚いて、涙がぽろぽろと溢れてきた。この年になって転んで泣いたことは恥ずかしかったけど、これも大切な思い出の一つだ。私はそんな思い出の一つ一つを思い出しながらふと違和感を覚えた。そんな違和感の元を探していると、突然テーブルの上でスマホが着信音を流しながら奇妙な音を立てて震えていた。私は慌てて電話に出ると、菖蒲からの着信だった。「もしもし」と声が上ずらないように言いながら、「どうかした?」とそのまま続けた。

「その、電話で話すようなことじゃないから、今から会えないかな?」

菖蒲の落ち着いた声で話した。菖蒲が会いたいと言ってくるのは少し珍しい。私は嬉しいのと不安なのを同時に感じ、少し居心地の悪い気持ちになった。時計を見ると針は十三時半頃を指していた。

「お昼今からだから、十四時半頃になりそうだけど、それでもいい?

「大丈夫。じゃ、また後で。」

電話を切った後、私の気分はすっかり落ち着いていた。会える喜びと少しの不安が相まって少し気持ちが悪くなっていた。

昨日の残りのナポリタンをお皿に盛って、朝お母さんが出勤前に入れた、冷め切ったコーヒーをマグカップに注いだ。一人の食卓は慣れているはずなのに、やけにリビングが広く感じた。

「あれ、ナポリタンってこんなに味薄かったっけ・・・」

その呟きも部屋に虚しく響くだけだった。

#小説
#写真
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#自分が撮った写真を誰かに見て貰いたかっただけ
#花の命
#続きます

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