最高裁判決文を読む。

判決文を読んだが、あまりに虹色で吐き気がしてくる。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/191/092191_hanrei.pdf

※本記事の引用はすべて上記判決文より引用している


■「性別は自認どおりに送るのが重要」は常識?


まずどの裁判官も一致しているのが

「自認する性別にもとづいて社会生活を送ることは誰にとっても重要な利益、法益である」旨だ。

自認する性別に即して社会生活を送ることは、誰にとっても重要な利益であり、取り分けトランスジェンダーである者にとっては、切実な利益であること、そして、このような利益は法的に保護されるべきものと捉えられる

個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができることは重要な法益

もうこの時点で私にはわからない。
性別とは自認するものではなく、否でも応でも存在する生物学的な事実である。
個人が自分の性別を嫌だと思おうとどんなまやかしを信じようと自由だが、なんと最高裁において、
そんなものを「皆が共有していて当然の常識的前提」かのように持ち出しており、その土台の上に論を構築しているのである。
道端で話しかけてきたあやしげな人物の言う事なら、「あ、結構です」と素通りできるが、
ことは最高裁判決だ。
この判例と判決文は今後、日本全国の企業や施設や学校などで参考にされることになるであろうから無視するわけにいかず、吐き気をこらえながら全文を読む羽目になった。

■自認する性別にもとづく社会生活とは

では、具体的に何が「自認する性別にもとづいて社会生活を送る」なのかというと、こうだ。
・説明会の翌週から「女性の服装」で勤務
・行動様式や振る舞い、外見
・女性ホルモンの投与や≪略≫等により女性として認識される度合いが高い
・名も女性に一般的なものに変更された

女性とは、性別とは、
服装でも振る舞いでも行動様式でもない。
薬や整形などで見た目が女性っぽく見せられるかどうかではない。
名前ではない。
これらが「女性」「女性としての社会生活」である、とすることは「女性らしさ」を定義する、
ふるくさい性偏見でしかないはずだ。
女性としての社会生活とは、すべての女性の社会生活のみである。
男性としての社会生活とは、どんな服装やふるまいや見た目を伴っていても、
「そうした男性の生活の一形態」、男性の多様性のひとつであるはずだ。

本件説明会の翌週から女性の服装等で勤務するようになり、社会生活を送るに当たって、行動様式や振る舞い、外見の点を含め、女性として認識される度合いが高いものであった

女性ホルモンの投与や≪略≫等により女性として認識される度合いが高いことがうかがわれ、その名も女性に一般的なものに変更されたMtF

■特例法の「弱み」

また、性別適合手術(※生殖器を切除し、男性の場合は性器の形状を女性器っぽく整形する手術)について、
手術を受けずとも
可能な限り本人の自認を尊重する対応を取るべきだ」とする。
理由には、
・身体への侵襲
・生命健康への危険
・経済的負担
・体質

等を挙げている。

性別適合手術は、身体への侵襲が避けられず、生命及び健康
への危険を伴うものであり、経済的負担も大きく、また、体質等により受けることができない者もいるので、これを受けていない場合であっても、可能な限り、本人の性自認を尊重する対応をとるべきといえる。

更にまた、

本件で、経済産業省は、上告人が戸籍上も女性になれば、トイレの使用についても他の女性職員と同じ扱いをするとの方針であったことがうかがわれる

とあり、「特例法」がすべての誤りであり彼らにとってのスタートであったと改めて痛感させられる。
かんたんに言うと「生殖器切除すれば戸籍記載を変更できる。記載変更すれば、異性であるとみなさなければならない」という法律が
すでにある。

そう、この時点で、とうに「弱い」のだ。
「女性を女性としてのみ定義し、いかなる男性も女性トイレや健康診断や更衣室等に入ってはならない」とするためにはもうとっくに20年も前から負けているのである。

すでに「当人の主観の自認どおり、生物学的性別ではなく、異性として他者に扱いを強いることは、本来そもそも是である」という前提に立っているからだ。

特例法はあくまでそこに「今は〇〇であれば(結婚してなければ、生殖機能を失っていればetc)他者に扱いを強いてよし」と現時点での条件を添えているに過ぎない。

となれば、
「手術ができない」「したくない」を述べる者が出てくるのも道理であり、条件緩和の是非を問う段に進むのも道理である。

経産省もすでに
・男性器を整形し、
・戸籍記載を変更すれば
たとえ女性職員が全員一丸となってNOを言ったとしても
聞く耳を持たない(持てない)方針であったということ。
もうこの時点で女性は完全に負けている。

■天秤にかけるべきでないものが、かけられた。特例法以降の世界

だから、天秤にかけられるはずのない両者は
天秤にかけられてしまった。
そしてもはや当然の流れとして、誤りの土台に積み上がる先の道理として、本判決をもって、最高裁は男性の要求側に軍配を上げた。

男性であることを認識している女性職員が抱くかもしれない違和感・羞恥心等を過大に評価し、上告人が自己の性自認に基づくトイレを他の女性職員と同じ条件で使用する利益を過少に評価

本来なら
「ねえ、あの男、女子トイレに入りたいって言ってるんだけど、君たちどう?受け入れてあげられる?」
「なんで嫌なの?来週からスカート穿いてくるよ?苦しんでるんだよ?なのに、性的暴力を振るわれるとでも心配してるの?」
なんて、上司が女性たちを呼び出して打診するだけでも、女性への重大な人権侵害でありセクハラである。

だが、実際には意見を求める「説明会」が行われた。
そのことによって、事実にもとづく女性の尊厳、心情、安全等が、
毀損されたと私は言いたい。
たとえもしも、その場に居た女性職員の「違和感を抱いているように見えた」が事実ではなく、
お高級なふかふかソファに座った虹色な方々で「ぜーんぜん大丈夫!私は”カノジョ”と女子トイレも更衣室も健康診断もなんでも一緒でOK」と思っていたとしても、
認めてはならないことだ。
他のすべての(これから生まれてくる女の子を含めた)女性への冒涜であり、影響は他に必ず伝播するからだ。
さきに書いたように、
「女性専用の場を、男と共有するように。嫌なら、弁護士等が納得する理由を述べよ」と迫られることなど、それ自体が女性差別であり精神的虐待だと強く認識してほしい。

女性が男性とトイレ等を共有したくないという当たり前の前提は、「特段の配慮をすべき他の職員」という表現で、
なにか特別なことさらの理由がないなら却下すべき(立石弁護士等の言葉を借りるなら「抽象的な不安で失当」)として、
もはや「当たり前に持っていてはならないもの」と貶められたのである。

本件判定時においては、上告人が本件庁舎内の女性トイ
レを自由に使用することについて、トラブルが生ずることは想定し難く、特段の配慮をすべき他の職員の存在が確認されてもいなかったのであり、上告人に対し、本件処遇による上記のような不利益を甘受させるだけの具体的な事情は見当たらなかったというべきである。

■トランスジェンダーに関する「理解を増進する研修」は、誰に対して行われるか?

そして、裁判官は「研修」を行うべきだ、とも書いている。
男とトイレ等を使えと言われて拒否する女には「研修」を行って、トランスジェンダーに対する理解を増進せよ、と言う。
つまり「拒否をいだく女が間違っている」という前提に立っている。

同僚の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対して抱く可能性があり得る違和感・羞恥心等は、トランスジェンダーに対する理解が必ずしも十分でないことによるところが少なくないと思われるので、研修により、相当程度払拭できると考えられる

経済産業省は、早期に研修を実施し、トランスジェンダーに対する理解の増進を図りつつ、かかる制限を見直すことも可能であった

けっして、「男性が男性の性別通りのトイレや健康診断で危険や不快を感じる心配のないように、トランスジェンダー職員を含む男性職員に理解増進をもとめる研修を行おう!」とはならない。

LGBT「理解増進」がなんたるか、いったい何を私たち女性、私たちの社会全体に求めてくる性質のものであるかを、この最高裁の判決にあらためて、まざまざと見ることができるだろう。

この先、この判決を例として、同様の訴えが目に見えない形で「是」とされていくかもしれない。
そうなれば、裁判までも至らないことだろう。
NOを言わなければ「トラブルが生じたことはない」とされるのはわかっている。
だから私たちはNOを言わなくてはならないが、経産省の職員ですら明確に言えなかったNOを、一般の非正規等立場の弱い女性たちがどれだけ職場や学校などで掲げて立ち向かえるかと考えると、
暗澹とする。

だが、長い目で見れば事実はけっして負けないと思っている。
なんなら世界の正常化への動きを見ると、予想より長くはかからないかもしれない。
今回の判決を受けて、女性だけでなく私の周囲の男性も怒っている。
ひとまず最高裁判所裁判官国民審査では、この判決を出した最高裁裁判官たちには
✕を付けます。

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