佐倉智美著書感想③/4 男子トイレに入って「男とは男らしい男のみ」という「エフェクト」をこそぶち壊してほしい。

佐倉智美著『性同一性障害の社会学』
を読んでの感想?考察?
第3回です。

前回まではこちら。
1回

2回


本書では、
男女の違いについてかなり触れられている。
でありながら、とらえかたや結論が私と全く違ってしまうところは、
第2回でも述べた通り。
今回も、更に例を並べていきます。


FtM15人へのアンケートが載っている。

★性的指向はほぼ女性に向く
★身体違和より「らしさ」への違和が多い
・カルーセル麻紀などを見て「これだ!」
★結婚後のトランス開始では、ほぼ離婚に至る
(作者後述 ★親権は相手に渡ることが多い)

……★は、MtFとの違い、だそうだ。
男性は結婚後にトランス開始しても離婚されづらく、
離婚となっても親権を取られることが女性より少ない。
「らしさ」への違和より身体を変えることを望む。
性的指向は女性に向く人も多い。
ということで、これを著者は

>女性は(略)ジェンダー秩序を撹乱されることに対して、比較的柔軟に対応できる

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

と推測しているが。


女性には「まあ、旦那の自認や服装なんて、なんでもいっかー☆」
なんて柔軟さがあるから……
ではないと思う。
忍従が美徳とされ、経済的に自立が難しく、幼い子供も抱えているかもしれない状態で、
暴力をふるわれても逃げ出せない女性が多い社会で
離婚が女性にとって容易ではない、だけなのではないだろうか。

(佐倉氏が妻に打ち明けたときも、
妻は楽しそうに見えたが実はショックを受けていた、
という様子が書かれている)

>FtMやレズビアンの情報はゲイやMtFにくらべ格段に少ない。
>社会が男性中心にできている、男性優遇社会だから
>「セクシュアルマイノリティ女性を応援するサイト」も意義があると言わざるを得ない

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

そう、ひとことでLGBTとか性的少数者、と言っても、
そのなかでより弱い立場におかれるのはやっぱり
「女性」だと佐倉氏も認識しているようだ。

(※文脈からして、ここでの「女性」とは「性自認が女性の男性」の意味では著者も言っていないと思われる。そういう「都合による使い分け」をして、解釈・注釈が必要になる時点で、自認主義なんて詰みだと思うんだよね)

が、佐倉氏はこうも言う。

>女性としての生活体験が乏しいうちは、ナンパのあしらい方にさえ長けていない

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

女性に「トランス」した男性は、女性と違ってナンパがうまくあしらえず、
女性扱いされたーと喜んでるうちに被害に遭うかもしれないぞ、
と忠告している。
ここでは女性より「女性にトランス」した男性の方が、
困難性を持っている、危険にさらされているものとして位置づけられている。

女の私でも、ナンパの「長けたあしらい方」など
いまだにわからない。
暴力、暴言、
もしかして仲間が居て、車に押し込められるのか……
という恐怖や不安や屈辱を、
「女性としての生活体験」を積んできた女なら
長けたあしらいができる、と思われているようだ。

しかしこんなもの、女のあしらい方の問題では全くない。

男の胸のうち次第で
「ムカついた」「合意があった」
「ヤっちゃお」
と思われたら
こちらが何をどうしようと不正解になる世界を、
女は生きている。

そして女性は、あらゆることを「受容」できる、受容して当然の存在として描かれる。

>トランスジェンダーをいじめる側だが、これがなぜかほとんど男の子たち>キーワードはもはやホモソーシャルしかあるまい

>女性集団が、女らしい女以外の者の存在に親和的なのも、そもそも女性集団は"女性集団"ではないから

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

(ホモソにおいては)

>性別は男と女ではなく”男らしい男”と”男らしい男以外"

>”女性集団”というのは、そのすべての外部領域にあたることになる>”内部の側ではない者”どうしとして仲間になりうる

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

とある。
そういえば他のMtF当事者が
「不妊女性は、自分たちの気持ちに寄り添えるはず」
と言っているのも見たことがあるが、

それもこれもまさに
人間は”男らしい男”と”男らしい男以外"だ、
というホモソ的とらえかたそのものではないのだろうか。

女性と男性は、生殖器はたしかに違うが、
それは
「生殖器以外は同じ」という意味でも、
「男性器が不足した人間が女だ」という意味でもないのに。

いま話題の渋谷区のトイレも
「男性専用orだれでもトイレ」しかないのは、
人間を「男らしい健常な成人男性」と「それ以外」に分けている。

そして、遠藤まめた氏の著書にも感じたが、
思考は「GC=ジェンダークリティカル(性規範を解体し、「らしさ」に縛られない社会を求める)」と途中まで似るのに
結論がまるで違ってしまう、
という非常にもやもやする点について、
本書を見て、なんとなくその正体がつかめた気がした。

>MtFトランスジェンダーと、メンズリブにかかわっている人との間には、幼時体験などにかなり共通項があることが多い

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

(両者を分かつものは)

>自己実現上有利であるという理由もないではない

>しかし、いちばんの理由は、結局は、自分で自分を好きになれる、そういう自分になりたいから、と言うより他はない。

佐倉智美『性同一性障害の社会学』

要するに、

【男らしさ・女らしさ】に違和感を抱いて生きてきた点ではトランスジェンダーとかなり共通している、とは言え

メンズリブ男性やGC女性は、
【なりたい自分】が社会的規範にそれなりに沿っている。
ボーイッシュな女性とかおしゃれな男性、程度で、周囲からの目も【特別視】までは至らない。

いっぽうトランスジェンダーは、
【なりたい自分】を実行した場合、
他者から見て【異性らしさ】と他認されるほどに、逸脱しており、【特別視】されているだけ


ということだと思われる。

……いやいやいや……

「男らしい男と、その他」という枠組みを解体して、
抑圧してくるホモソ的価値観の欺瞞をあばき、
迎合するものを批判し、
その仕組を利用し弱者を抑圧するものを糾弾する。

いっぽう、
「男らしい男と、その他」という枠組みを押し付け、
抑圧してくるホモソ的価値観におさまり、
迎合し、
その仕組を利用し弱者を抑圧してみせる。

両者は結論どころか何もかも違っていたわけですね。

「男らしい男、合わない~怖い~。
そうだ、柔軟で、ホモソにはじかれた仲間の女なら、
こんな僕のこと受け入れられるはずだし、受け入れるべきだし、
怖くないからあっちに行こうっと☆あ~しっくり来る」

と、

「ホモソ=強者男性」には立ち向かわず、
女に受容を強いるための言い訳を
並べ立てているようにしか見えない。

このツリーで言及したことを見ても、

男子トイレに入って「男とは男らしい男のみ」という「エフェクト」をぶち壊しに行けばいいのにな。

女はズボン穿くのも短髪にするのも仕事するにも「エフェクト」と闘ってきたし、今も闘っているんだけどな。

まだ続きます(次で終わりたい……)

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