高校日本史 鎌倉時代
「社会人のための高校日本史」は、高校の日本史をベースにして高齢者大学の日本史講座向けに作り直した動画です。このシリーズは鎌倉時代。源頼朝から承久の乱・モンゴル戦争・両統迭立まで時系列になっています。
鎌倉幕府の成立には1185年説や1192年説がある。その根拠は「朝廷が守護地頭の設置を認めた」「朝廷が将軍に任命した」、ともに朝廷が主語になっていることが鎌倉幕府の特徴です。挙兵から、後白河上皇との折衝、娘たちの入内工作へ、源頼朝の行動を追いかけてみた。
神器の一つ剣は壇の浦に沈み、後鳥羽天皇は神器の欠けた天皇となった。コンプレックスを克服するため、後鳥羽上皇は公家と武家の上に君臨する「王者」をめざす。後鳥羽と北条政子は頼仁親王を次期将軍にすることで合意するが、源実朝暗殺によって後鳥羽は承久の乱へと向かう。
北条時頼は得宗家の地位を確立し、後嵯峨上皇と協調して政治を安定させた。地方の荘園には新補地頭が赴任し、荘園内での地位を強化していく。仏教においては、鑑真・最澄の仏教に戻ろうという禅宗、末法の世においては阿弥陀仏や法華経への信心が大切なのだという親鸞や日蓮が現れた。
1266年、皇帝クビライは日本に国書を送る。南宋侵攻を目前にして、日本との外交関係を樹立するためである。しかし、北条時宗は返諜を行わなかった。1273年、南宋の樊城が陥落、高麗の三別抄が降伏して、1274年の文永の役が起こる。クビライの国書、竹崎季長絵詞を見ながら蒙古襲来をぶ。
後嵯峨上皇の後、持明院統と大覚寺統の迭立が始まった。幕府は皇位継承を安定させるため文保の和談を提唱するが、後醍醐天皇は両統迭立の解消を目指す。荘園では地頭と領主の対立が増え、各地で下地中分が行われた。王家領矢野荘でも下地中分により、地頭方と領家方で一円支配が実現する。
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