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足利義政 応仁の乱と銀閣寺

足利義教が嘉吉の乱で殺害され、室町幕府は足利義勝・足利義政が幼い将軍となる。足利義政の時代、畠山家・斯波家が分裂、盟友であった細川勝元と山名宗全が対立に転じ、応仁の乱が始まった。

近年は「応仁の乱の原因は日野富子ではない」が定説になっている。では、応仁の乱の原因は何なのか。畠山家の内紛、細川勝元・山名宗全の連携、文正の政変、足利義政の政治など応仁の乱直前までの動きを秦野祐介先生が解説。前半は山名宗全と畠山義就の接近まで。

細川勝元と山名宗全は連携して畠山家を分裂させたが、山名宗全が畠山義就と組んで幕府の主導権をめざしたため、勝元と宗全が東軍・西軍に分かれて戦いを始める。将軍足利義政や後花園上皇は応仁の乱を避けることはできなかったのか。室町幕府の統治体制から応仁の乱の原因を探ります。

応仁の乱以前、銀閣寺の地に天台宗浄土寺があった。門跡は義尋(ぎじん)。足利義政は足利義視(義尋)を還俗させて将軍を譲ろうとする。応仁の乱の戦火で浄土寺は焼失し、足利義政が東山殿を建てて晩年の住居にした。義政没後、菩提を弔うため東山殿は慈照寺(銀閣寺)になる。

応仁の乱が終わると足利義政は東山殿を作り始める。義政は義尚に将軍職を譲った後も、利権の大きい外交と禅院の権限を保持していた。もう一つの大きな財源は贈与。将軍や天皇に贈与される工芸品は市場に放出されて収入をもたらした。義政の頃、工芸品は枯淡美へ変わり東山文化を生み出した。

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