情熱と解釈。

今クールで唯一、毎週追いかけてたドラマ『だが、情熱はある』の話です。
Twitterの文字数には到底収まりきらないのでここに書きますね。

おれは山里亮太という人間が大好きです。
2021年5月末、リアルタイムで『明日のたりないふたり』を観終えて気持ちが昂ったおれは、終演後のグッズのオンライン販売に目もくれず、山里さんについての熱量高めのnoteを書き連ねていました。noteを書き終える頃にはグッズが全部売り切れていました。それぐらい好きです。

だからこそ、『午前0時の森』にて、山里さんと若林さんの人生がドラマ化されると聞いた時はめちゃくちゃ嬉しかったです。

ただ、その後、ドラマの情報が徐々に解禁されていくにつれて、(演出の人『たりないふたり』観てへんの…?)(ジャニーズの方が主演なのね…)(安島さんが女体化…?)(さすがにCreepy Nutsは関わってるよね…?)と、なにかと勝手に不安視するようになってしまいました。なんなら粗探しみたいになっていた気もします。
まさに偏見まみれの色眼鏡、今日も視界良好。やかましわ。

2017〜18年にかけて、おれは今よりずっと鋭利で幼い感覚を振り回していたんですけど、それこそ山里さんの『天才はあきらめた』や若林さんの『ナナメの夕暮れ』を読むことで、考え方や生き方の引き出しを増やすことができたんですよね。当時に比べるとだいぶ大人になった気がしています。でも、まだたりてなかった。

きっと、山里さんや若林さんの本を通して得た自分の解釈を絶対視してたんやろなと思います。
生きていく上で自分の中に軸を作るのは大事やし、引き出しだって増やした方がいい。
他方で、史実や真実に対する解釈に絶対なんてなくて、ましてや対象は他人の人生な訳で。
おれは、ちょっと分厚めの本を読んでちょっと遅い時間帯のラジオを聴いたぐらいで、自分好みの解釈を仕立ててしまっていて、挙句の果てに(実写化するならこうあってほしい…!)を無意識に押し付けそうになっていたんですよね。これはきっと驕りです。まーじで反省。

そんな事もあって、"ドラマを観ない"という選択もできたはずなのに、結局、第一話を観てしまい、今に至ります。
『だが、情熱はある』めっちゃ面白いですね。2クールやってくれればいいのに、と本気で思ってます。

回が進めば進むほど、森本慎太郎くんは山里さんで、髙橋海人くんは若林さんで、富田望生ちゃんはしずちゃんで、戸塚純貴さんは春日さんでした。(列挙し始めると終わらないのでこの4人に留めますね)

とりわけ山里さんの事が好きなおれは、ここまで"山里亮太"を演じられる森本慎太郎くんへの尊敬が止まなくて、羨ましくて、一周して嫉妬しちゃってます。ジャニーズに嫉妬するとかもう意味分からんしこれはほんまに反省した方がいい。

以前書いたnoteでは、『たりなさは人間臭さであり、その人の歴史だ』と自分なりに結論付けました。その考えは今も変わっていません。
たりてる側・たりてない側、自分がどちらにいるのも曖昧やし、はっきりしてない方が面白いのかもしれない。もはや二分化するのは無粋なのかもしれない。
ただ、他人のたりなさを解釈できる人間でありたいし、そんな人間になりたいとは思っています。当面の目標です。


現在、21時50分過ぎ。『だが、情熱はある』最終回まであと30分と少し。
こういう文章って、ドラマの最終回を観てから書くものなのかもしれませんね。いやぁ、計画性がたりない。
情熱だけは伝わっていれば良いのですが。

では。

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