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ドイツ語と日本語の間で 〜外国の地名の話〜

大それたタイトルをつけてしまいましたが、内容はそんなに大したことじゃないです。

言語学に携わる身である私は、世界で何かがあればもちろんその情勢にも目はいくけれど、どうしてもことばの方に意識が向く。ロシア語もウクライナ語も初級レベルで、本当に一部の違いしかわからないのだけど、表記をキエフとするかウクライナ語に近いキーウにするか問題が近いうちに発生するだろうなと思っていたら案の定昨日Twitterはこれがテーマとなっていた。ウクライナ語に近い表記にするべき!というのに対し、「そんなんで戦争が終わるならキーウって呼ぶわ!言葉狩りみたいなことして!」みたいなのも見て、やれやれ、という思いが生まれた。が、これは言語がいかに政治・政策・イデオロギーと深い関係を持つかを表してもいるように思い、不謹慎ながらとても興味深く議論を観察させていただいた。

そもそも自分達の言語にない音や文字をどのように自分達の言語に取り込む、もしくは転記するかというのは、政治が絡んでいようがいまいが難しく、揺れが発生しやすい。昔、ウクライナ出身の新体操選手にアンナ・ベッソノワという素晴らしい選手が活躍していたが、彼女の名前を日本語で転記する時にはアンナ・ベッソーノヴァと、苗字について表記が揺れることが多かった。一方英語ではAnna Bessonovaと表記されるのに対し、ドイツ語ではHanna Bessonovaで、両言語間では下の名前の表記に揺れがある。実は彼女の名前はウクライナ語ではГанна Безсоноваと表記される一方、ロシア語ではАнна Бессоноваなので、ウクライナ語名の/г/というのを反映させるか、それともロシア語式を採用するかというところで揺れるのであろう。ちなみに/г/は/g/に転写されることが多いので、ウクライナ語式にするとGannaとなるが、ウクライナ語ではどうやら声門摩擦音になっちゃうんだそうで、それがドイツ語のHannaの表記に現れているよう。面白いことを知りました。

さて、地名というの発音の都合ももちろんだけど、特に政治的な動向によって「キエフと表記するかキーウと表記するか」みたいなもっとわかりやすい形で、それでいてとても議論が厄介な形で表記の揺れ、もっというと表記に関する論争が起こりやすい。と、私は思っている。でもこれは何も日本だけの話ではなく、どこででも起こることなんじゃないかと思っている。

そんな時、ちょっとこれまでの転記の話とはずれちゃうんだけど、ふと思い出したのでそのことを書いてみたい。2020年夏にウクライナの隣のベラルーシでルカシェンコ大統領が再選した際、不正選挙が行われたとして市民が反政府デモを起こしドイツでも連日ニュースで取り上げられてきた。あの時"Weißrussland"という呼ばれ方が全くされなくなり、"Belarus"に統一されていくのに気づいた。ルカシェンコ再選がほぼ確実、というようなニュースの時にはテロップはBelarusで、アナウンサーは「Weißrusslandとしても知られている」という文言を付け加えていたけれど、それもBelarusに統一されていったような体感があった。

現在のドイツ語による正式名称はRepublik Belarusなんだけど、Weißrusslandというかつての呼び方も一般には普及している。日本でもかつて「白ロシア」と呼ばれていた時期があったよう。またBelarusの-rusはロシアという意味ではなくルーシから来ているんだそうで、こういうことからもソ連崩壊後Belarusと呼ぶよう国から要請も出ていたんだそう。それでもドイツではWeißrusslandという呼び方がずっと普及していて、tagesschauなんかも2016年の録画を見るとWeißrusslandの表記がテロップにもされている。ちなみにリンクの個々のEintragをクリックすると、キーワードが一緒に表示されるのだけど、キーワードの方は一番上に上がっている2021年2月18日のニュースの中でもWeißrusslandが表記されており、その他の記事ではWeißrussland, Belarusのどちらもキーワードに入れていたりもするが、テロップはBelarusに統一されている様子。

それではそもそもWeißrussland vs. Belarusの表記はコーパス上どうなっているのか、DWDSを使ってWeißrusslandとBelarusに関するStatistikを見てみることにした。

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(出典:DWDS-Wortverlaufskurve für „Weißrussland“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Wei%C3%9Frussland>, abgerufen am 4.3.2022.
および
DWDS-Wortverlaufskurve für „Belarus“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Belarus>, abgerufen am 4.3.2022.)

わかりやすく一緒になったグラフを後付けする。

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(出典:DWDS-Wortverlaufskurve für „Weißrussland · Belarus“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Wei%C3%9Frussland&q2=Belarus>, abgerufen am 5.3.2022.)

ということでBelarusの頻度は2016年から急上昇しており、その一方Weißrusslandは1997年をピークに下降傾向にあることがわかる。尚、このコーパスは1946年から2022年現在までの新聞の記事をコーパスとしたものである。

細かくみていくと、2019年まで使用絶対数(グラフ上で「absolut」で表示される箇所)はWeißrusslandの方が多く、同年のヒット数がWeißrussland = 6177に対し、Belarus = 228となっているが、2020年ではWeißrussland = 5756に対し、Belarus = 7113と大逆転している。また、100万トークンあたりのヒット数でいうと、Weißrusslandの方が2017年から2020年までで、6.53 - 6.25 - 6.03 - 5.91と緩やかに下がっている一方、同期間のBelarusでは1.60 - 4.05 - 6.61 - 7.67と年々急上昇していることが分かる。

ちなみに簡単に調べてみたところ、"Weißrussland oder Belarus?"という話題は2020年から2021年にかけてZDFWeltMDRRheinische Postで記事が出されており、どれもざっと読んだところ結論から言えば口語的にはWeißrusslandでいいけど、政治的なコンテクストではBelarusとするべきとされている。そんなわけでDWDSのStatistikにも影響が出ているものと思われる。

日本語で「キエフか、キーウか?」問題が発生しているので、ドイツ語の表記でKiew vs. KyivもDWDSで調べてみた。Kiewは日本語のキエフ同様にロシア語を元にしており、Kyivはウクライナ語での綴りをラテンアルファベット化している、と大体言っていいのではなかろうか。

結果は以下のとおりである。

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(出典:DWDS-Wortverlaufskurve für „Kiew“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Kiew>, abgerufen am 4.3.2022.
および
DWDS-Wortverlaufskurve für „Kyiv“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Kyiv>, abgerufen am 4.3.2022.)

こちらはグラフとしては後半似たような形をしているように思えるかもしれないが、y軸の数値に注目すると、数の上ではKiewが優勢なのがお分かりいただけると思う。実際、Kiewの絶対数は2022年現在で3433となっているのに対し、Kyivはたった6のヒット数となっている。二つのグラフをまとめちゃうとKyivはひたすらy=0なので比較をしやすくするために別々にする。

それでは今回爆撃を受け甚大な被害が出ているХарків(ウクライナ語)/ Харьков(ロシア語)のドイツ語表記Charkiw vs. Charkowではどうだろうか?以下、DWDSで得られた結果をあげる。

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(出典:DWDS-Wortverlaufskurve für „Charkiw“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Charkiw>, abgerufen am 5.3.2022.
および
DWDS-Wortverlaufskurve für „Charkow“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Charkow>, abgerufen am 5.3.2022.)

さらにまとめたもの。

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(出典:DWDS-Wortverlaufskurve für „Charkow · Charkiw“, erstellt durch das Digitale Wörterbuch der deutschen Sprache, <https://www.dwds.de/r/plot/?view=1&corpus=zeitungenxl&norm=date%2Bclass&smooth=spline&genres=0&grand=1&slice=1&prune=0&window=3&wbase=0&logavg=0&logscale=0&xrange=1946%3A2022&q1=Charkow&q2=Charkiw>, abgerufen am 5.3.2022.)

100万トークンあたりのヒット数で見るとCharkiwが1を超えることはないけれど上昇傾向にあり、一方Charkowは2011年から下降傾向になり2018年から2022年現在までにかけては0.09 - 0.10となっている。2022年現在までの両表記の絶対数はCharkowが27に対し、Charkiwは63で逆転している。実際ドイツ語でニュース検索してみると、CharkiwとCharkowが混在していたり、"von den Russen Charkow genannt"などの説明があったり、あるいはどちらかを括弧に入れて表記する(ロシア語名の方が括弧に入っている記事が一つあった)など、まだまだどちらとも言えない様子。体感としてはCharkiwの方が多い気がしていたけど、グラフでは一応逆転しているようだから増えていくんだろうか、これから。

Charkiw、Kyivについては特に似たようなグラフの形をしているのも面白いですね。

ハルキウまたはハリコフについては、キエフかキーウか問題と同じように、もしかするとそれ以上に複雑なんじゃないだろうか。なぜなら、この街にはロシア語話者も多いはずだからだ。ドイツ語版ウィキペディアを見ると"Charkiw gehört zum mehrheitlich russischsprachigen Teil der Ukraine."と書いてある。しかもここにある2015年のアメリカの研究機関の調査によると、この地に住む人の95%が日常生活でロシア語をメインで使い、85%に至ってはロシア語だけしか使わないということも分かっている。実際この街は地域公用語にロシア語が含まれており、ウクライナの街だからといってウクライナ語だけの表記が必ずしも望まれる訳ではない。ウクライナ東部はロシア語話者が多いというのは、昨今の状況からニュースでもよく伝えられている。また、ロシアが侵攻する理由づけにもされているのでとても政治的だ。いや、住民の言語状況が政治的に使われてしまっているのだ。とても悲しいことである。

色々と話が逸れてしまったけれど、こういう表記の問題は何も日本にだけある問題ではなくどの国にもある。ベラルーシのようにまとまった国や国民が「こう呼んでくださいね」という場合はその修正が非常に簡単だ。日本語ではグルジアではなくジョージアと呼んでくださいね、という時にそんなに反発がなかったのと同じなのではないか。ウクライナの場合、国民の中にロシア語話者もいるし、ロシアの侵攻の理由を鑑みれば「同じ土俵に上がらない」という意味でもウクライナ語一択の表記統一は望まれないのかもしれない。私の考えとしては「部外者があーだこーだ言うんじゃなくて、当事者が決めることなんじゃないかな。それまでは両方に配慮したらいいんじゃないの?」と思うのだ。

ドイツにもきっとこの議論は起こるだろうし、もしかしたらもう起こっているかも。メディアの中ではウクライナ語・ロシア語両言語に由来する表記がなされていて、でもこれもどうなるのだろうな、というのは今後も気にしながら見ていきたいと思った。何度も言うけど部外者がどっちの表記にするかなんて決めない方が良いし、議論もしない方が良いのだ。ロシア語由来による表記の排除は、ロシアが悪者、だからロシアのものは排除するみたいなのと全く同じように馬鹿げている。もちろんその議論を通して「へぇ、ウクライナにはロシア語しか使わない人もいるし、ロシア語が公用語の地域もあるのか」という多言語状況が知られるのはとても良いことだと思うけど。

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