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運と自己責任論。 2022/12/15

おはようございます。さて今日も書いていこう。今は8時31分。子どもをおんぶしながら書いているので、途中で中断してしまう可能性があるが、気にせず書いていこう。

我が子の好きな音楽

さて、今はApple Musicで映画グリーンブックのサントラをかけながらこれを書いている。今おんぶしているこの子は音楽が好きなので、音楽をかけていると泣き止んだりしてくれる。どちらかというと、ビートのある、パキッとした音の音楽が好きだ。リズムとかがあっても、ドゥーワップとかだと、昔の音源だと音がこもっているので、そこまで反応しないポイ。ファレルウィルアムスのハッピーとかかけておいた方がいいかも。あとvulfpeckも反応していた。いいよね、俺も好きだよ。わかるよ。じゃあ、もしかしたらneco眠るなんてのも好きなのかもしれないな。今度かけてみよう。

音楽と気分の関係

音楽は空気を変えてくれるよなと思う。というか、音楽を作ること自体が空気を作ることだからかと思う。音の揺れの、波の塊だからな。どんな波を受け取りたいか、それはどんな気分になりたいかに関係がある。なりたい気分にあう、それに近しい音楽をかけるというのは、理にかなっていると思う。
だから大きなスピーカーとかで空気を鳴らしながら聞いたらそりゃ気分も変わってくるだろう。家の近所に、こじんまりしたライブハウスがあって、そこはリスニングデイなんかも定期的にやっている。こないだ初めて娘とそこに入ったのだが、ジャズの視聴会をやっている日だった。すごく大きなスピーカーがあって、それは気持ちいい音で鳴っていた。ここは時間貸しさせてくれるみたいなので、DJイベントをやってみたいと思っている。DJなんて言っても、ターンテーブル2台でドンドコかけるのではなく、ただ自分が好きな音源を順番にかけていくだけ。DJイベントというより、リスニングイベントだな。かける音楽の種類とかが縛りがある店かもしれないので、そこは聞いてみないとわからない。ジャズの人たちはそういうところがちょっと怖い。先日のイベントでも、まるで往年のジャズ喫茶のようだった。行ったことはないが、きっとこんな感じだったのだろうと想像できる雰囲気。黙って誰も喋らずに、ひたすらじっと聴いている。そんな感じ。

さて、ここまでで935文字。背中の子どももまだ機嫌がいい。引き続きグリーンブックのサントラがなっている。今が8:41。だいたい10分で1000文字くらいだな、いつものペースだ。

予定調和では意味がない

今日は何を書こうか、そんなことを考えてから書いているわけではないので、今思うことだけを考えて書いている。いや考えずに書いている。描きながら、俺はこんなことを考えていたんだなと知っている。
書いていない時、たとえばご飯食べてる時とか、散歩してる時とか、寝る前とか、そんな時に、これをブログに書きたいなと思うことがたくさんあるのだが、いざ書き始めるとそんなことは大抵覚えていない。でも、だからと言って、スマホのメモなどに「ブログに書くこと」なんてメモしておいても、そんな予定調和なことを書いてもちっとも面白くないのだ。あらかじめ決められたことについて書く場所ではない。温度感が大事なのだ。めもしておいたことを書くとどうしても温度が下がる。30度くらいは下がってしまう。それを自分で温め直してから書かなければならない。それでは何も考えずに書くなんてことはできないのだ。頭で書いているからだろう。そうではないことをするためのこの日記なのだ。普段の生活の中で、頭で考えてばかりいるのを少しでも減らすための訓練。それがこの日記。一つのマインドフルネスなのであるから。

ちょこちょこもう一人の子どもが色々話しかけてくるので、思考がブチ切れる。リズムに乗れない。仕方ない。今日はそういう日だ。というか子どもがいるとこういう事態は日常茶飯事なのである。これをどうしたら避けられるかなんて考え始めると泥沼である。日常はより悪い方向に向かう。これは避けられることではないし、コントロールできることではない。むしろ受け入れてそれこみでどう生きていくかを考えなくてはならない。ただこれもやりすぎると自己犠牲がすぎるので、その塩梅を自分で知ることも大事だ。子育てというのは難しい。家庭は憩いの場ではなくなると、信田さよ子さんの本に書かれてあったが、そうなのか、諦めなくてはいけないのだなと思った。でも本当にその通りなのだと思う。

10年前の自分。10年後の自分。

少なくとも子どもが10代くらいに近いてきたらもう少し変わるのかもしれない。それにしたって、下の子は0さいなので、あと10年かよ。健康で長生きするのみだな。今から10年前の自分を考えてみよう。その時、今の俺を想像できただろうか、どれくらい想像の範囲で、どれくらいが理想の範囲で、どれくらいが望んでいなかった範囲なのだろうか。
望んでいなかったことといえば、自分の嫌な部分がそのままであること。思った以上に交友関係を自ら狭めていることとかだろうか。あとは、音楽をプレイできていないこと。
理想のことといえば、家族がいることだな。10年前の自分には本当に手に入れたくても実際は難しいのではないだろうかと考えていたことなので、家族がいてこどもがいるというのは、理想がかなったと言っていい。これは運なのだろうか。

運と自己責任論。

運というものについてたまに考えることがある。人生は運というのは、自己責任論とは相入れない考え方だと思う。自己責任論は、原因と結果を常にセットで考えているだろうし、二項対立構造で物を考える。論理的であろうとする。そんなイメージ。でも運というのは、何か大きな力が働いていて、それは自分の力が及ばないもので、どうすることもできないこと。運によって運ばれてきたものに対して、どうするかしか自分にはできないということ。つまり原因と結果に当てはめて考えると、原因も運によって運ばれてくるし、それに対して自分が何かをやった、その後の結果もまた運によって運ばれていく。何事も運で始まり運で終わる。自分にできることは運と運の間にしかない。手放すということがキーワードに思える。ここまでやったら手放す。それは信頼ということにも微妙にかなさってくる気がする。なんとかなるだろうとか、誰かが助けてくれるかもしれないとか、きっと俺の人生は大丈夫だとか、何かそういう希望のこと。信頼という希望なのか。でも希望が強くなると期待になる気がする。期待が大きくなると管理しようとしたくなるので、原因と結果、自己責任論につながっていく気がする。信頼は期待になってはいけないのだろう。ひたすら受け入れる力。
運によって運ばれてくるもの、そして運が自分を運んでくれる結果、それに期待をする生き方ではなくて、運と運の間にある、自分がやるべきパート、自分の力が及ぶ範囲の中で、自分が何をやるか、自分がやれることに対する信頼なのだと思う。信頼は、運と運の間で、自分に対してすることなのだろう。何がきても大丈夫、どういう結果になっても大丈夫。自分はきっとうまくやれる。うまくやれなくても、その次きっとうまくやれる。そんな感じなのかもしれない。と言いながら、そもそも信頼なんて必要ないのかもと思う。

運に関していうと、僕はずっと頭にあるのは、アメリカのTVショウのwhat would you do?だ。その中で、ホームレスに対して施しをする女性が、「自分もそうなっていた可能性がある。自分が運がいいだけで、この人が運が悪いというだけ」みたいな言葉がずっと頭にある。僕の中の運の解釈はそれの比重が多い。運をベースに考えることは、人を等しくみる。自分も等しく見る、ということなのかもしれないなと思っている。


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