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書いた本を売るための本屋 その3 スローガンを考える。

さて、今日も書いていこう。まずnoteを立ち上げて、とにかく思いつくままに書いていくのがいい。書いているうちに、なんだかオッというものが出てくるので、それが出てくるまでひたすら書く。千葉雅也がいうところのくだをまくみたいな感じ(そんな言い方だったか自信がない。間違えたら怒られそうだが、調べたりすると思考が止まってしまうので調べない)。

昨日noteを書いてみて、まずタイトルというかプロジェクトの名前、つまり今自分が何やっているのかを一言で言えるといいなと思った。つまりそれがこのマガジンのタイトルになるのであり、連載の名前になるのである。実際に本にしたときに、もしこれがシリーズになるのであれば、シリーズの名前も見据えて決めた方がいいかもしれない。
ちなみに今が10時21分。メモ

さて話を戻そう。今自分が何をやろうとしているかというと、ぼんやりでいいから書き出してみるか。

・本を作って、その本を売る本屋をやりたい
・同時に参考書籍も売りたい
・元々の発端は、オンライン本屋を始めたはいいが、やはり普通に売っているだけでは違う気がしてきた
・それとは別に、本を書きたいという欲求があった
・日記本、エッセイ本を自主制作しようとしていたが、それもいいけれど、何かテーマを設けてそれを考察した本の方が持続性があるのではないかと考えるようになった。
・それはつまり雑誌なのでは?と思い至った。
・雑誌といってもいろいろな形式があるが、イメージしていたのは若林恵編集時代のWIREDや黒鳥社から出ている雑誌もの。
・その雑誌的な本を作ることと、本屋をどうしようか問題をくっつけてしまえばいいのではないかと思った。
・それで、「書いた本を売る本屋」という構想を思いつく

箇条書きだとこんな感じか。さらに付け足すなら不安なことか。

・そもそも自分の技量的に雑誌的な本づくりなんかできるのだろうか。
・つまりリサーチし、本にあたり、ときにはインタビューなんかも交えながら時間をかけ根気よくやることになりそうなのでそこまで体力があるか
・あとそれをまとめるだけの編集力とか、メタ力、執筆力があるのだろうか
・めちゃくちゃ大変だから、一冊だけで終わってしまわないか
・やる意義はありそうだけれど、重た過ぎて嫌になってしまわないか
・雑誌的なフォーマットということで言えば、締め切りを設けた方がいいのかもしれない
・有限性があることで、区切りが生まれ、勉強の歯止めになる。『勉強の哲学』でもどこで終わりにするかについて語られている
・日記本やエッセイ本の方が、気楽にできるのではないか。あと読まれやすいのではないか。

うん、こんなところだろうか。
確かに日記本とかの方が軽くて、続けやすいかもしれないが、逆に軽すぎて吹いたら飛んでいってしまいそうなくらい、自分の中でやる意義がふわふわしたものになってしまいそうな気がする。つまり重しがない、というわけだ。
そこにいくと、雑誌的に本を作るというのは、目的が生まれる。何か自分の中で問いを立てて、または興味があるトピックを立てて、それについて調べ考察していく。そうか、問いではなく、興味関心で区切ればいいのか。問いだと、どんどんメタ化していき、膨大になってどこをスコープすればいいのかがわからなくなって崩壊しそう。それをまとめられる自信がないのか。そういうことか。つまり、自分の癖として、どんどんメタ化する、展開することがあらかじめ予想されるから、区切り方がわからない、自信がないということで重く感じているのかもしれない。
そこで、興味関心で区切ると良い、、、ということでもないのか?ちょっと怪しくなってきたぞ。そもそも問い自体が興味関心から出発するのだからな。まあでも、興味関心があることを少し掘ることで、何か問いが生まれるのであればいいのか。

こういうのは、具体例を上げながら考えて行った方がいいかもしれない。まずとりあえず、今興味関心があること、雑誌作りのテーマにしてみようかなと思えそうなことを羅列してみよう。

・本屋の困りごと
・怒りについて
・子育てについて
・本の作り方
・創作と継続のコツ
・水俣病

ざっというとこんなところかな。
あと、この連載自体を本にするのはありかなと考えている。でもそれは一発目というか、ビハインドザシーンってことなのかな。『勉強の哲学』でも作り方として後発で出している。ただ香山哲のプロジェクト発酵記はそれ自体が作品だし、前に出ているな。要するにどっちでも成り立つんだろう。興味があることは、編集なのかもしれないな。つまり、悩み起点で考えてみるという軸もあるな。
悩みで書き出してみよう。

・編集
・プロデュース

ん、これしか出てこないぞ。なんだか乗っていないのか。自分のノリが悪いのか。これじゃ困ったな。もっと自分は何か困っていることがありそうだ。綺麗に書こうとするんじゃない。もっと泥臭くいけ。かきだせ、そのまま書き出してしまえば大丈夫だ。そうだな。今困っていることと言えば、何か作りたいということだ。そもそも本屋を始めたのも、テキストが書きたかったからだ。本屋をやりたいというよりも、本を売りたいというよりも、本の感想テキストを書きたかった。それをみて欲しかった。要するに本を書きたかったのだ。そうだ。今俺は本を書いて出版したいのだ。そうだ、自主制作というか、ZINEが作りたいのは、本になると大掛かりになるからだ、びびっているからだ。お金かかるしな。そういう意味では、インディーで本を作っている人たちに話を聞きにいくのもいい気がする。ただ自分の感覚値的に、まず自分で作ってみる方がいいんだよな。自分で作ることで、悩みが具体的になるからだ。作る前の悩みというのは悩みに見せかけた不安なことがおおい。ただ、それが実際にやることで具体的な悩みになっていく。判断も含めて。お金がかかるからやめたのか、それともお金はかかるけれどやることにしたのか、といった具体的な判断は、その後の行動や作品の質にもろに直結する。その蓄積の結果が作品である。一つの作品を通して、得た経験、悩みなどを持ってして、聞きたい人に話を聞きにいく方がより濃密な話ができるというか、具体的な話ができる。その人と自分との間に交点ができるからだ。作りもしないうちから、話を聞きに行ってどうするんだ。

よし、やっぱり本を作ろう。きっと外から見たら何にも進んでいないように思うだろう。それ初めから言ってたことやんけ!となるだろう。でも自分のなかでは違うのだ。ぐるっと回って同じ地点に辿り着いているのかもしれないが、螺旋階段を上がるように、上に登っているのだ。二次元で見たら、ただ円を回って同じ地点に立っているように見えるかもしれないけれど、三次元で見たら上に上がっているのだ。

本づくりへの意思が固まったし、より具体的になった。本を作るというのは、自分が書いた本ということだ。だから、この連載も、「作った本を売る本屋」ではなく「書いた本を売る本屋」なのだ。自分が書いたということが重要なのだ。書いたものを誰かが売ってくれる、出版社が売ってくれるというんではなく、自分で書いたものを自分で出版して自分で売るという本屋なのだ。要するにDIYの精神なのであり、インディーであるということだ。
本屋百々は「書いた本を自分で売る、DIY本屋です。」というわけだ。前に進んだぞ。もう少しシャープになりそうな気もするけれど、だいぶ具体的になった。DIYという言葉がわからない人もいるだろうからな。けれど、自分的には何をしようとしているのかがより具体的にわかるようになった。スローガンみたいなことだからな。

よし、今日はここまで。今が11時23分。1時間くらい書いたのか。ここまでで3158文字。また次回。

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