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超個別具体的であるということ 2022/12/14

さて、今日も書いていく。今は8時15分。いつもより少し早めに起きたので、顔を洗って歯磨きをして着替えた後、洗濯物を畳み、娘のお弁当を作って、ストレッチをして、よもぎ茶を飲んで、トーストを焼いて食べた。昨日焼いたカンパーニュを食べるはずだったが、冷凍庫が微妙にいっぱいだったのと、少しカンパーニュを切るのが面倒だったので、冷凍トーストを食べてしまうことにした。

そして今。
娘が起きてきたので、一時中断していた。ここまで200文字くらい。そんで8時33分。ここから再スタート。

寒いので手袋をしている

部屋が寒いので、指だし手袋をしている、そのせいでタイピングの感覚が鈍っている。もともとそんな正確ではないのだから大層なことは言えないが、いや、正確でないからこそ、鈍ると打ちにくいのだろう。もっと上手ければ鈍った後のクオリティが今より高いところを維持できるはずだ。
さて、今日もそんなどうでもいいことをただ頭に思い付いたことをひたすら書き綴っていくわけであるが、今日書きたいことというのは、今やりたいことがめちゃくちゃに溜まってしまっているということだ。

タイムイズマネー感覚

一つをやっているうちに新しいやりたいことが出てきてしまって、僕は気分屋なので、その時ホットなことを優先してやりたくなってしまうので、もともとやろうと計画していたことなどはどんどん後回しになっていく。
昔はもっと計画的にやろうとかタイムマネジメントだとか、時間の使い方だとかを気にしていた気がするが、今はもうそんなことはどうでも良くなってしまった。やりたいときにやりたいことをやる。それでいい。ただどうしても抑えて置きたい計画はもれなく進める。そういうスタイルでやっていこうとしている。なぜなら、まず計画をみっちり立ててしまうと、自分にプレッシャーがかかるからだ。そして、やりたかったことがいつの間にか達成すること、終えることが目的にすり替わってしまっている気がする。そして、いくつやりたいことを消化できたかみたいなゲーム感覚というか、クリア感覚になっていく。それって、いくらお金を集めれたか(稼げたか)を競っている人たちと何が違うの?ってなってしまう。僕は稼ぐためにこの本を読もうとしてる訳じゃないのに、「よしよんだ、次!」なんてやっていると、稼ぐために本を読むことに知らない間に繋がっていくのである。そして、タイムイズマネー感覚に支配された僕は、子供に対しても、早く早く、無駄なことをなくせ、効率良くやれ、みたいに接し始める。最悪だ。そんな人生はまっぴらごめんだぜ。そんな人生からできるだけ遠くに行くために、それは自分がその人生の当事者というだけでなく、それをよしとして生きている他人からも遠くに行くために、できるだけ関わらなくて済むように生きていいきたいと今の生き方を選んでいるのに、自ら近づいて言っているようなものだ。

そう考えると、性善説・性悪説ではないが、人間というのは気をつけないと、意図せずして、そういうタイムイズマネー体質に擦り寄ってしまいがちな生き物なのか。放っておくと、そういう感覚になってしまうのか。今の社会がそうなっているのか。原因なんかは僕が考えたってわかるはずもないし、他の人のことなんか、僕がわかりっこないので、僕は徹底的に自分のことだけを具体的に考えていけば良いのだ。

怒りは依存ではないか

そう。新しく読み始めた本に、依存症関連の本がある。というか、依存症関連の本をまとめてだーっと図書館で借りてきた。というのも、僕は個人的に怒りの研究をしているのだが、その怒りという性質が、依存なのではないかと思ったからだ。
怒ってしまうのは、起こりたくても怒ってしまうのは、それが無意識に自分にとって良い効果があると考えているからそうしているのだろう。本意ではなくとも、習慣とか過去の経験から、怒った方が自分にとって都合がいい状況になると思っているからそうする。自分を守るために怒っているのだ。自分のためなのである。それは依存の性質だと思う。過去の経験に依存しているのだ。オートパイロットで、ある一定の状況下になれば、怒りが発動するように仕組まれた体質が出来上がっているのだと思う。

そう考えたので、依存症関連の本を読めば、怒りという依存から抜け出すヒントになるかもしれないと思った。ただ怒らなくなればいいってもんじゃあない。依存症なのだから、適切なアプローチをしなければ、必ずぶり返しがくる。短距離走ではない、これから先の長い人生に置いて付き合っていく自分なのだから、怒りに変わる対処方法もあるんだよ、と自分に教えて、体験させてあげない限り、これまで自分を守り続けてきた(と自負がある)怒りという対処法はそう簡単には手放されることはないだろうから。

超個別具体的であるということ

一冊めによんでいるのは、信田さよ子さんの本だ。
その本の初めに書かれていたことで、信田さんが、超個別具体的なことに徹底してこだわることで、ある普遍性が見出せる気がすると書かれていた。ここは僕的に赤線を引っ張るところだ。図書館の本なので、実際にはそうすることはできないのだが、いつも本は赤ペン片手によんでいる僕としては、ここは間違いなく赤線ポイントなのである。

この話を応用するわけではないけれど、僕も自分という人間の超個別ぐたいてきなことを徹底して表現することで、何か副産物のような形で他の人へお裾分けできるような何かがこぼれ出てくるのではないかと考えている。この日記についてもそうだし、商品作りをしている時もそうだ。というか、それしかできないのだ。僕にとっては、自分ごとでないと納得感ができない。それではリリースできないのだ。誰かのためとか、有名になるため、それこそ稼ぐためになんかに、何かを型をトレースしたような表現をし続けていると、息苦しくなってきて、長く続かない。長く続けるためには、自分のことでなくてはならないのだ。自分のことを表現しようとすると、よそ様の型は使えない。当然だ。借りてきた型に合わせて自分の中から何かを出すことが前提になってしまうので、それは自分の中にあるものが出せなかったり、それはまだいい方で、自分の中にないものまで偽造しなくてはならないのが最悪だ。全てはその型に当てはめるため。パーツを偽造するのが最悪。

自分で表現すると、型がないので、形がぐちゃぐちゃになってしまう。それを整えるのがデザインなのだが、原型はデザインできない。そう、この日記のように。この日記は何もデザインしていない。支離滅裂かもしれないし、僕以外の人が読んでも関心がないというか、読みにくい部分ばかりだろう。僕だって読み返そうと思ったら根気と時間が必要だ。
けれど、それでいい。こうして出しまくっていくことで、後で形になっていくからだ。型なんて最初は必要ないのだ。ドロドロのぐちゃぐちゃでいい。自分の中でこれは大切だと感じるものがあれば、それは繰り返して反芻されてくるし、何度もアウトプットされてくるだろう。それを繰り返しているうちに、次第にまとまりを見せ始め、デザインの方向性が見えてくる。そこまでくれば、根気がなくても見やすい形にもなっている段階だ。僕を知らない人や根気がない人でも見てくれる可能性が高くなってくる。

だけど、原型はあくまで型なしで良いのだと思う。原型は借りてくることはできない(いや借りてきて商売している人もいるだろうし、それで助かっている人もいるだろう。僕もその一人でもある)、これは少なくとも僕にとってはそうなのだ。この考えすら、みんな共通のものだと思っていない。僕にとって真実であればそれでいいのだ。それが超個別具体的に生きるということだと思う。


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