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millennium Paradeが描く世界と向かう先

アルバムを聞いた後の圧倒的なカタルシスと残る虚無感。

まるでクリストファー・ノーランの映画を見た後の「とんでもなく情報量が多く凄いものを見た!けど何を見せられていたのだろう?」と思うあの感じに似ている。

自分がどうしてカタルシスと虚無感を感じたか、そしてmillennium Paradeが何を目指しているのか、書き記したい。

millennium Paradeの1stアルバム『THE MILLENNIUM PARADE』は音楽家・常田大希によるソロプロジェクトDaiki Tsuneta Millennium Parade(DTMP)が前身となりこの時期の楽曲をアップデートしたものも多く収録されている。

聞いてもらえれば誰もが感じるだろうが、異常なまでの多くの音数で構築され異常なまでの情報量の多い楽曲が並ぶ。

King GnuはJ-POPのフォーマットに準じた楽曲を作り日本人に聞いてもらう音楽をやるバンドだから、millennium Paradeというプロジェクトが立ち上がった時、このプロジェクトは世界に向けて発信するもので今の世界の音楽にアジャストした楽曲を作るものだと僕は思っていた。

海外音楽の現代のスタンダードは音をなるべく重ねず隙間がある音楽である。最近の海外の音楽によくある楽器では出せないすごくLowの効いた音が鳴り、そこにハイハットが細かなリズムを刻む、音域を幅広く使う音楽をmillennium Paradeも軸に独自の世界観を構築していくものだと勝手に思っていた。

だがmillennium Paradeの音楽は真逆だ。

狭い空間に音を置けるだけ置き空間を音で埋め尽くしている。四方八方から音、音、音。気後れするほどである。

音で空間を埋めているが、配置の仕方の妙でつぶしあうことなく、しっかり調和を保っているのだ。

おそらくこれは常田大希という音楽家の音楽に対しての知識の量、聞いてきた音楽のジャンルの多様性の幅の広さが故のものだろう。そして彼は18歳の頃に小澤征爾さんが主宰する若手のオーケストラ楽団にチェリストとして参加していた経験もあり、音を潰しあうことなく適切な場所に配置してシンフォニックに聞かせることができているのだろう。

この情報量の多いが調和が保たれた音楽はどこに向けているのか。間違いなく日本だけでなく世界を照準にしているはずだ。

先ほど自分は現在の世界の音楽のスタンダートとは真逆のことをしていると書いた。音数の多さはJ-POPのシグネチャーでもある。

ただKing Gnuとは異なり日本語での歌はKing Gnuの井口理が参加している“Fireworks and Flying Sparks”、”FAMILIA“以外では無く、英語の歌が殆どだ。また歌は言語関係なく歌が歌として目立つことなく楽曲の一部、一つの楽器の音として鳴っていることが印象的だ。

更にこの作品にはKing Gnuの井口以外にも多くのアーティストがボーカリストとして参加している。Friday Night PlansのMasumi、Black Boboiでも活動しているermhoi他参加しているアーティストの多くがJ-POPを土壌としていない海外の音楽の影響を色濃く感じるアーティストばかりが並ぶ。

曲ごとに最適なボーカリストが採用され曲の良さを最大限に引き出す。日本のアーティストではなかなかやっていないスタイルで構築している。これはまさに常田が影響を受けたFlying Lotusがやっていることと似たような形だ。

これらのことからJ-POPのシグネチャーでもある多すぎる音数の音楽に歌をも楽器の一部として乗せ、それを常田が強く影響を受けたアーティストのスタイルで作り上げた、世界を照準にした日本の音楽だ。

日本の音楽を感じるのは音数の多さだけでない。その世界観にもある。今作は「遠い未来」と「生と死」がテーマに思える。

今作のキーにもなっているRadiohead“の”The National Anthem”のようなリフが効果的な“2992”は常田が生まれた1992年の1000年後の未来が描かれている。

作品通して描かれている世界は光り輝く未来ではなくディストピアの荒廃した世界だ。遠い未来に期待できないのはバブル崩壊後に生まれた自分も含めた常田などの人間が感じる傷だらけの船に乗せられた感があるからだろう。

更にいき過ぎた資本主義、進む監視国家、これらを考えるだけで『ブレードランナー』のような荒廃した世界を想像してしまうのは仕方ないのだ。

ただ常田はそんな世界にもこの曲が1000年後にも残っていたら面白いという期待も込めこのタイトルを付けたそうだ。これには本気で1000年後にもこの曲が残っていてほしいと考えているというよりジャンクフード化され、ただただ消費されるのが嫌だ、少しでも聞いてくれたリスナーの心に残ってほしい、音楽の歴史に残ってほしいという強い願いからきているのだろう。常田は期待できないと分かっていても期待したいという淡い願いを今作で描いているのかもしれない。


また「生と死」については“Bon Dance”の盆踊り、“Fireworks and Flying Sparks”に花火がタイトルに入っているが盆踊り、花火には「死者を供養すること」「鎮魂」の意味がある。

また“Deadbody”や“The Coffin”など「死」を意図するタイトルも並びアルバム最後を飾る“FAMILIA”では死を意識した歌詞になっており作品を通して常田の死生観が表現されている。

特に“FAMILIA”は井口の歌声の効果もあり、それまでのとんでもなく多い情報量の音楽かつディストピアの世界を通過した自分たちを浄化してくれる、そんな名曲に仕上がっている。

ディストピアの世界、死と生がテーマになっており、それをオーケストラ楽団にも参加していた音楽家・常田大希が表現すると聞いた者を圧倒し、聞いた後に虚無感を感じさせることに繋がったと考える。

また日本の音楽の構築の仕方で海外のアーティストがスタンダートとしたプロジェクトの在り方で日本の音楽で世界を狙う。

コロナ禍でライブが思うようにできなく残念だろうがコロナが落ち着いた頃、millennium Paradeが世界で大暴れしている、そんなディストピアではなくユートピアな世界が待っているかもしれない。

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