純粋が疼くとき
バウムクーヘンを食べたことはありますか。
すごくそれに似てるなぁって思うことがあるのです。
中心に純粋があります。
それを弱さで包んで、強さで包んで、その強さでどうにもならないときに、また弱さで包む。
何重の人間なのかと気になります。
一番外側が弱さで包まれてるときのことはよくわかります。
そのときは、強がり、攻撃し、ときに自分を卑下し弱さが外気に触れている状態をなんとかしようともがいています。
一方でその逆の強さのコーティング状態にあるときは難しいです。そのときは、凛としていて、安定していて、一見スキがありません。
会うと興奮するのです、そのコーティングの一枚裏にある弱さは、きっと何年か前のそのひとの表で。それを言葉ってものを使って一枚一枚剥がしていく作業は、人間というものを理解する冒険で。きっと異常にそれを剥がしたくなるのは、そこに鏡があることを、どこかで期待しているからです。
そして、すべてを剥がし終わったときに、疼いている純粋がみえたときに、それを通して自分の輪郭に出会えます。
その時の快感はきっと、一度きりでは満足できないのでしょう。
そこに見えた純粋は、その形をしたコーティングかもしれないからです。その純粋を疑ってしまったとき、皮に見えてしまったとき、絶望と期待と共に、旅は始まります。剥がして剥がして、その芯に出会うまで狂ったようにまた剥がし続けるのでしょう。
そして、願わくば、本当の芯に出会うのが、もしも自分の命の期限の少し前であれば、それほど幸せなことはないと思うのです。
剥がして剥がして、見つけて、また剥がして、生きていることを確認する。安心して渇いて、疑って。ただそれの繰り返しなのでしょう。そうわかっていてもやめられないことに、細やかな救いを感じるのでしょう。
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