見出し画像

そうだ、外に出よう。

※記事は有料になっていますが、無料で全文読めます。余裕のある方はサポートをお願いします。

最初に注意書きです。タイミングが悪いんですが、「ウイルスなんか気にせずに、どんどん外に出よう」という記事ではありません。自分も慎重に行動しているつもりだし、みなさんにもぜひ慎重に行動していただきたい。

しかし、現実問題として、緊急事態宣言が解除されて、外に繰り出したくなる人たちが増えるであろうことは、想定されてないとならない。感染のリバウンドへの懸念もあるけど、いい陽気になってきたし、今までうちに閉じ込められてた分、余計に外に出たくなる。そういう気持ちがわからない人は、そう多くないと思います。しかし、さまざまな危険や不都合を承知の上で、なぜ人は外に出たがるか。そういう疑問について考えてみたのがこの記事です。

ヒトもネコも外に出たがる

外に出たがってるのは、ヒトだけではない。うちのネコなども、陽気に誘われて、外へ出せとうるさい。もうよぼよぼの年寄りなのに、やはり春になると夜遊びに出かけたがる。いつかも書いたけど、ネコは死を自覚してないから、人(猫?)生に見切りなどつけない。どうやら死ぬまで現役である。

だが、昨年の夏には死にかけてた猫である。まだよろよろしていて危なっかしい。それに、近所でネコの怪死事件が多発している。実家で飼っていたネコも二匹ほど犠牲になったらしい。どうも毒餌をまく家があって、みんなだいたい見当がついてるんだが、証拠がないから何も言えない。

そんな危険がいっぱいの場所に年寄りを出すのは、やはり躊躇される。だから、家の中と柵で囲われた庭から出さないようにしている。それでも、その外に出せと騒ぐんである。

外に出なくても、生きていくのに何の支障もない。餌も十分あるし、安心して寝られる場所もある。何を好んで外に出るか。そう思うんであるが、どういうわけか、外に出たいという気持ちは自然に湧いてくるものらしい。

自分の経験であると、子どもがやはりそうであった。四つ足で這い這いできるようになると、行動領域をどんどん広げていく。危なっかしくて、いつも後ろについて回らないとならなくなる。二本足で歩けるようになったら、もう家の中になんか閉じこめておけない。よちよち歩きの子どもを連れて、あちこちを歩き回った記憶が自分にもある。外へ、外へ、というのが子どもの衝動であるらしい。

内と外

「内」と「外」というのは、日本人にはなじみの深い区別であるが、国際関係論で少し取り上げられてるのを見ただけで、欧米圏ではあまり深い議論を聞いた記憶がない。

「上と下」や「前と後」のように直接身体構造には関わっていないが、やはり身体性と切り離せないカテゴリーである。カテゴリーというのは全体を分類していくときの述語である。この世界をぼくらはいろいろに分類して整理していくが、その一つである。あるものは「内」であり、他のものは「外」であるとぼくらは見なす。その区別は身体をもつ主観を前提としている。ただ内であり外であるものは存在しない。つねにある者にとって内であり外である。その身体に近い部分、すでに身体の延長となり、もしくは身体がその一部になっているようなものが内であり、そうではない部分が外である。

そして、上下や前後と同様に、二つは相互に依存するカテゴリーである。上がなければ下もない。前がなければ後もない。同じように、内があるから外があり、外があるから内がある。内を定めると自動的に外ができるし、外を立てると自動的に内が立つ。そういう関係にある。

国際関係論では、国内政治と国際政治の区別が内と外の問題になる。国内には政府が存在する。国際政治はアナーキー、つまり無政府状態である。しかし、国内政治と国際政治が別々に存在するのではない。国内を平定し、権力を一点に集中し、領土を確定し、その領土内に均等に法を強制する近代国家を作り上げることによって、領土の外にある国際政治が無政府状態として現われる。

ちょっとわかりにくい話かと思うが、華夷秩序や帝国主義的な秩序のように、固定された領土をもつ主権国家が存在しない場合、アナーキックな「国際関係」とはちがう原理が働いている。また、ソマリアのようにある国の国内の主権がどこにあるのかわからなくなると、やはり内と外、国内政治と国際政治の区別自体が曖昧になってしまう。グローバリゼーションのように、国境をヒトやモノ、カネ、情報などが自由に通りぬけていくようになっても、やはり国内と国際がつながってしまう。

そうであるから、国内政治と国際政治は実をいうと底でつながっている。二つに見えるが、実は一つのものである。その区別自体が政治のうちにあって、国内政治と国際政治を分ける政治学は、その区別を作り出す政治を見落とすことになる。そういう批判が国際関係論で提起されている。

地図で書かれた国境線のある場所に実際に行って見ても、そこには線は引いてない。人間が紙の上に線を書くことによって国内と国外が決まる。同じように、内と外の境界線というものも、見る立場にある者が自然に上に投射する。内にあるものを決めることは、外にあるものを決めることでもある。そして、内というのは自分の身体に近い部分であり、外というのはその向こうである。そういう関係が成り立つ。

主観的な距離

だが、「内と外」の身体性との関わりがもう一つある。身体は有限の存在であるから、あらゆる場所に同時に居合わせることができない。世界全体を俯瞰することができない。だが、ヒトは動物であるから、空間上を移動できる。だから、内から外に出たり、また外から内に入ったりもできる。

であるから、内と外というのは身体への客観的、物理的距離によっては決まらない。主観的な距離感覚とでもいうものが「内と外」を決める

たとえば、複雑な社会に住む者にとっては、内と外は相対的で何層にも重なった複雑な構造になってる。たとえば、まずは自分の内面と外の世界との区別がある。さらに、じぶんの「ウチ」(身内のウチ、家庭という意味でのウチ)がある。それに比すれば、職場や学校などに関連するものは「外」であるが、自分の知らない他の場所に比べればこれも「ウチの会社」「ウチの学校」になる。通いなれた通勤路・通学路もまたそうかもしれない。

「勝手知ったる」という言い方があるが、どうやらそれが「内」の特性である。どこに何があるか、だいたい知っている。だから、そこで何が起こりうるかについても、だいたい予想できる。びっくりするようなことは滅多に起きない。だから、緊張を緩めていてもよい。このような心理状態をゆるすような空間は「内」である。その範囲を外れると、内よりも強い緊張を強いられる。これが「外」である。

むろん、「内」と分類された空間が、完全に知られてるわけではない。自分の内面には、自分の知らないものが蠢いている。通り馴れた道で事件が起きたりもする。自分の祖国かと思っていたら、同胞から「この国から出てけ」と言われたりする。そうした事態に直面すると、内と外の区別自体が曖昧になってしまったりする。

だが、みずからの生活のうちには比較的安定した部分があって、通常、それをぼくらは「内」と分類して差支えない。ヒトが移動しつつも「イエ/故郷(ホーム)」を求める動物であるとすると、この定住の願望が満たされる部分が「内」であるとも言える。

外に何がある?

そこで、冒頭の問いに戻る。そうであるなら、どうしてヒトやネコ、いや多くの動物たちは、外に出たがるか。外では予測できない事態が発生する。だから危険がある。緊張を強いられる。内に閉じこもっていれば安全で安心である。なのに、なぜ外に目が向くのか。

しかし、まさにこの同じことが答えである。外には内にないものがある。そこには危険もあるが、自分には未知の何かがある。内にはもう隠された財宝はない。外にはあるかもしれない。内では時間は円環して流れており、もう新しいことが起こる可能性がない。空間的に外に出ることが、この時間の円環から脱け出ることである。

そうであるから、これは「ヒトの欲望にはかぎりがない」などと言われることとも関連がある。何の過不足もない生活してる者が、ひょいと隣を見ると、どうも隣の芝の方が青い。あっちにはこっちよりもっとよいものがあるんでないか。そういう思いが頭に浮かぶ。

ヒトには「ウチ」に安住して暮らしたいという願望と、「ソト」によりよい生の可能性を求めたいという願望が同居してる。簡単に手に入るものだけでは満足しない。ひとのものを欲しがるとか、欲張りというのは悪徳なんであるが、しかしこの欲の皮のツッパリが、人類を世界中に拡散することになり、また恐ろしく遠い距離をものともしない交易やら文化交流をもたらすきっかけにもなった(残念ながら、細菌やウイルスなどを拡散することにもなってる)。

このような「外」のもつ二重の性格がまた、外からやってくる旅人を警戒しながらも、また歓迎するという両価的な態度にもつながる(以下リンク)。

だが、移動性が高いくせに、ナワバリ意識も強いわけだから、あちこちで摩擦が生じることにもなる。勝手知ったる散歩道で、あまり見かけない人を見るだけで、領土侵犯されたような気になる。それなのに、他人の散歩道には、天下の公道だいとばかりに、遠慮なしにずかずか入り込んでいく。そういうところがぼくらにはある。

しかし、だからといって、人間の移動の自由を縛ることが多くなると、当然内に閉じこもりがちになるわけである。加えて、先進国の中流家庭に育っていれば、このウチの生活が充実してきていて、最低限の外出だけで、必要なものからそうでないものまで充足できるようにもなっている。しかも、SNS のようにウチにいながらソトにもつながっているという、「おうち飯」ならぬ「おうち社交」のようなものさえある。油断をしていると、ますます外に出るのが億劫になってくる。

時間が未来に開かれているから、まだ現実になっていない可能性を考えることができる。同じように、内と外は底でつながっているから、自分がまだ見ぬ現実があるということが信じられる。厳しい現実性の重みを引き受けながらも、希望を失わずに人類が生きてこれたのは、二進も三進も行かなくなったときに、「そうだ、外に出てみよう」という人々が必ず出てきたからではないかと思う。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。