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目を凝らせ

先般、子供といっしょに読んだ本は、19世紀初頭にオハイオに移住した開拓民の家族の話。何とか住める小屋を建てた時点で、お父さんが二人の兄弟を残してペンシルバニアにいる残りの家族を迎えに行く。でも、冬になる前には戻るはずが、病に倒れ予定通り戻れなくなってしまう。何も知らない兄弟は、近くに人家も無いような森の中で厳しい冬を過ごすことになる。フィクションなのだが、取り残された兄弟が一冬を生き延びたのは記録に残っている史実らしい。

この話に、兄弟のサバイバルを助ける心やさしい「インディアン」が登場する。その昔に白人に自分の村を焼かれ追い出されたのにもかかわらず、何かと兄弟に気を使って、罠の作り方など森での生き方をいろいろ教えてくれる。そのインディアンが兄弟に教えた教訓の一つが「目を凝らせ。そうすれば見えてくる(Look closely. And you see)」というもの。

実際に、ここがうさぎの通り道だとか、この木の上にフクロウがいるとか、もうすぐ雨になるとか、この植物は食えるとか、インディアンは兄弟には見えないものがよく見える。兄弟から見ると、彼はただ立ち止まってじっとしているだけなのだが、実は五感を研ぎすませ、外界から様々な情報をキャッチし、それを脳で処理して結論を出しているのだ。

つまり、彼の助言は「よく見ろ」ということなのだが、視覚だけではなく要すれば聴覚、嗅覚、味覚、触覚もすべて活用している。この研ぎすまされた感性があるので、インディアンは白人の子供たちと同じ場に居合わせながらも、より多くのことが「体験」できるわけである。「目を凝らせ」というのは「すべての感性を研ぎすませ」ということなわけだ。

我々のご先祖様も恐らく我々よりも鋭い感性を持っていたのだと思うが、近代社会での生活というのはどうもこうした感性を鈍らせるようである。その理由のひとつは、近代人は視覚に頼りがちという点がある。以前に近代における視覚の特権的な地位について書いたが、近代人は目に見えるものだけを現実だと思いがちなところがある。他の四感を否定してしまったわけではないけど、それぞれの感覚は特定の行為に結びつけられて(例えば、聴覚であれば音楽を聞く、味覚であれば料理を堪能する)、体全体を使って体験するということが少なくなっている。

じゃあ、視覚だけはご先祖様に負けないくらい発達しているかというと、これもまた怪しい。我々、特に都会人の観察眼はかなり頼りないものになっている。これにも恐らく理由があって、我々の住んでいる空間は人間の都合に従ってきれいに整頓されすぎているのである。

近代都市では、家でも町並みでも幾何学的な原理を使って空間が直線やきれいな曲線で秩序だてられていて、ヒトやモノや情報もそうした空間的秩序にそって流れている。インディアンのように一見無秩序の自然から秩序を見いだす苦労が少ないし、予想しないような事態に遭遇することもあまりない。近代の空間的秩序というのは見えないものをなくすという発想で作られるし、人々に見てほしいものは看板や標識がそれを教えてくれる。スーパーで買い物をする時に、山で山菜を探すほどの努力は必要ないのである。

たいして感性を研ぎすまさなくても見なくてはならないものは見えるようにしてあるのが近代空間であり、ありがたいといえばありがたいのであるが、その代償は見えにくいものを見る訓練がおろそかになることである。特に、近代社会では人々の視野に入ろうとする競争が激しいから、誰かが見せたいものだけ見ていると、自分の身の回りのことさえ見えにくくなってしまう

いくら観察眼が衰えても眼前にあるものがみえないわけがないと思う人もいるかもしれないが、実はそうでもないらしい。バスケットコートで違う色のユニフォームをきた人々がボールをパスしているビデオを見せる有名な心理学の実験がある。被験者は片方のチームの間で何本パスが行われるかを数えるよう指示されているのであるが、実はそのゲームの最中にゴリラの着ぐるみを着た人がコートを横切って行く。でも、パスの数を数えるのに集中している被験者の多くはこのゴリラが見えないのであった。なぜなら、バスケットコートという空間にゴリラが現れることは普通はないからだ。

近代空間に住み慣れた我々にとっては、その秩序は意識されず自然の一部と見なされるようになってている。時々はあってはならないようなことが眼前に展開されることもあるわけだが、そう思っている故にそれには気づかずに通り過ぎてしまう人もたくさんいるということになる。しかも、空間というのは決して客観的なものではなく、何かを見えやすくし、また何かを見えにくくするために誰かに作られたものであったりする。一見すると見やすい近代空間だからこそ、余計に見えにくいものを目を凝らして見る必要がある。

腹をすかした白人の少年たちはうさぎを捕まえようと躍起になるのだが、いかんせんうさぎというのは何の脈絡もなく現れては消えるように見えるので、なかなか捕まえることができない。でも、インディアンに教えてもらって、次第にうさぎの行動にもパターンがあることを学んで行く。でも、それはやはり自分の感性を研ぎすませることによってしか達成できない。

秩序だった我々の社会にも、うさぎのように突然現れては消えていくようなことがあってびっくりさせられることがある。異常な事態だということになるわけだが、でも、うさぎが突然空から湧いて出るわけではないように、そうした異常も実は我々の眼前にあるのに我々が見えていない通常の一部であることも多々あるのだと思う。

複雑怪奇な自然という空間を幾何学的に秩序立ててきたのがいわゆる進歩の歴史とも言えるわけで、近代人が複雑なものを目で見て単純明快なものに整理しようとするのもそれなりの理由がある。でも、そうやって頭だけで作られた秩序にまったりしすぎていると、ちょっとしたことでも動転させられてパニックに陥りやすくもなる。時々は、そうした秩序の下に隠れている複雑なものを体全体を使って感じてみるような経験も大事なのだと思う。

(2010年12月30日)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。