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日本人の色彩感覚(古い日記から)

先日、吉本隆明の『全南島論』という本を読んでいたら、日本人の色彩感覚について触れられていた。自分もこれがずっと気になっていたので期待したのだが、吉本も調べ切れてないらしい。誰か調べた人がいたらぜひご教示願いたいということで、青臭い文章で恥ずかしいが、自分の古い日記をここに掲げておく。

抽象的な色と具体的な色

古い日本語には、色をあらわす固有の言葉が少なかったようだ。

そう言われると、「あかい」「あおい」「しろい」「くろい」は形容詞があるけど、「きいろい」「ちゃいろい」は「黄色」とか「茶色」という名詞に無理に「い」をくっ付けたようで、本来は「黄色の」「茶色の」が正しいような気がする。「紫色い」じゃなくて「紫色の」だし。それに「灰色の」「肌色の」なんていうのはちょっと不細工で、「グレーの」「ベージュの」って言った方が早い。

でも、色そのものを指し示す言葉が少なかったということは、色を表現する言葉が少なかったということではない。「源氏物語」のような古文を読むと、着物の色彩とかが事細かに書かれている。でも、「あかい」、「あおい」、「きいろい」なんて言う現代の色彩用語じゃなくて、「藤色」とか「茜色」とか具体的な物の色を連想させる形で表現されている(もっと面白いのもたくさんあるのだけど、忘れた)。「緑色」「茶色」「灰色」「肌色」「金色」「銀色」「鼠色」なんていうのも起源は具体的なモノだ。

つまり、抽象的な色彩(赤、青、白、黒等)ではなく自然界に存在するモノとの類推で色を表現していた。そのおかげで、中世文学だけじゃなくて、明治初期生まれの文人くらいまでは色に関する語彙が我々と比べて格段に豊富だ。

それにしても、「藍色」「藤色」「茜色」くらいだったらまだ現代でもなんとか通じるけど、今の人にはピンとこないものも多くて、どんな色なのか想像できない(「利休鼠色」ってどんな色よ?)。具体的な事物を色の名前に使っていたから、そうした事物が日常から姿を消すと、どんな色なのかわからなくなってしまう。

多分、今日われわれが国語などで習う「色」をあらわす言葉というものは、西洋起源のものを訳したものである。実際、初級会話でならう色の種類は英語でもフランス語でもドイツ語でもスペイン語でもみな同じだ。

いつから西洋人がこのような色彩感覚を身につけたのかわからないけど、考えてみると自然界にある様々な色を抽象・分類し、体系化するところがいかにも西洋っぽい。表象ではなくてその下にある「本質」を重んじる伝統だと思う。表象が変わっても本質はいつまでたっても変わらない。言ってみれば、多様な自然の根底にある統一した秩序を求める一神教につながる考え方だ。

でも、同じ「あお」でも、「海のあお」と「空のあお」と「あじさいのあお」と「信号のあお」は違う。しかも、昔の日本語では今日の「緑色」も「あお」と呼んだらしくて、森も「あおい」のだ。これをすべて「青」と言ってしまうと身もふたもない。

変わらない「本質」を求める近代知のおかげで、多くの言語が翻訳可能な程に体系化され収斂していったのだが、その代償というのは人類の文学的な表現が貧弱になったことなのかもしれない。昔の詩歌に見られるような繊細で微妙な色彩感覚というのが、今日のわれわれには想像することさえ難しくなっている。われわれの感性が鈍ったから言語が貧弱になったというより、言語が貧弱になったからわれわれの感性が鈍ったのだ。

日本語を話すのが日本人なんて言っておるうちに、我々もまた大分同じ神を奉る一神教信者になっているのである。それでもその神様が現役のうちはまあよいかと言えるのだけど、そのうち引退されてしまうやもしれん。そうなったときに後に残されるのは、妙に平準化された貧しい感性しか持たない人々の群なのかも。

(2009年10月16日)

紅白歌合戦はなぜに紅白なのか

気になったので、さらに色について調べてみた。

広辞苑によると、一説には仏教(陰陽道もか?)が伝わる以前の古代日本には固有の色名としてはアカ、クロ、シロ、アオしかなかったらしい。しかも、こうした抽象的な色というのも自然界に見られるものを分類したというより、一種のコスモロジーに基づくものであったらしい。

これも広辞苑の受売りだが、色というのは今日では「光波のスペクトラム組成の差異にによって区別される感覚」ということで、その本質が科学によって解明されている。でも、近代科学以前には色というのはいろいろな形而上学とむすびついている。

今日ではシロとクロが対義語で、アカとアオは対のような気がするのであるが、古代日本ではアカとクロ、シロとアオがそれぞれ対義語となる。アカとは「明」、つまり明るいことである。「明ける」とか「曙」といった言葉とつながっていく。「赤心」とか「赤裸裸」なんて言葉もただ「赤い」という色の意味だけでは理解しにくい。これに対して、クロとは「暗」、つまり暗いことだ。

シロというのは「顕」、つまりお天道様の下にさらすことである。そう言えば、「告白」「白状」「独白」といった漢語にもシロの漢字が入っているけど、どれも隠していることを外にさらすことである。「知る」の尊敬語である「シロス」や「シロシメス」という言葉とも関係があるのだろうか。

これに対してアオというのは「漠」、つまり底が見通せないようなぼんやりした様子、何かが隠されているような状態ことだ。そうすると、今日の「青」よりはもうちょっと暗い感じがするが、確かに深い海などにはあてはまる。果たして、昔の人が空を「アオ」と形容したか「空色」といったかは定かではないが、やっぱり底がしれない漠然とした感じがないとも言えない。

こんな形而上学はもはや廃れていると思いきや、意外にわれわれの日常にその残滓が残っていたりする。例えば、今日神社で使う幕が紅白なのは、この「アカ」と「シロ」の目出たい色を組み合せたものらしい。葬式の時でさえこの紅白を使うのが本来の神道式らしいが、今日では仏教の影響のせいかさすがに白黒の幕を使うことが多くなっている。

歌合戦や運動会でも「紅組」「白組」に別れるのもこのためかもしれない。男女を区別するにも西洋式のトイレでは女性のマークは「赤」、男性は「青」か「黒」だから、紅白である必然性はない。この紅白の根拠というのは古代日本の形而上学から来ている可能性が高い。男女別はその後にくっついた。

また、向こう側が見通せいないほど植物が生い茂っている様子を「青々」と表現する理由もこれでわかる。森が「アオイ」というのは色のことを指しているのではなくて、その見通しがきかない漠然とした様子をさすのである。

こうした形而上学がどのようなコスモロジーによるものなのかは定かではないのであるが、古代の日本人の心性というのは今日の日本人とはかなり違っていたことは容易に想像できる。日本には昔から変わらない日本文化とかヤマトな心があるなんて軽々しく言えないのである。

そうは言っても、紅白歌合戦のように、西洋の知識や言葉を吸収した今日の日本人には説明できないようなことが今日でもたくさんある。なんとなく昔からそうしてきたというだけで惰性で行っているのである。でも、放っておけば、そうしたものは遅かれ早かれ迷信とか因習として切り捨てられてしまう可能性が高い。そうでなければ、「それは日本の文化だ」なんて意味も知らない現代人によって祭り上げられてしまう。

明暗顕漠なんていう形而上学が今日において文学的な表現以外にどんな役に立つのかよくわからないけど、その意味を知ることなしになし崩しに忘却されたり神格化されたりしてしまうものの中にも、何らかの知恵が含まれているような気もする。

(2009年10月17日)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。