見出し画像

日本人のウラとオモテ

最近自分が関心を抱いていることの一つに裏地文化がある。裏地に凝る文化である。といっても趣味ではなく、前からやっていた近代的自我の研究の延長線上に出てきたものである。自我が弱いとされる日本人であるが、やはり自我みたいなものがある。裏地文化を通して見ると、その日本的自我みたいなものが見えてくるんじゃないか。そう考えてる。

裏地の文化

きっかけになったのが、数か月前に新聞で見た江戸時代の火消しの半纏の写真。表はいわゆる制服で一律なんだが、裏地には個性があって唐獅子や龍などの派手な図柄が描かれてる。火を消し止めた後にはこれを表にして意気揚々と帰った。どうやら、お上もこれを大目に見たらしい。

表向きは横並びの制服の裏に派手で個性的な裏地が隠れてる。江戸時代には身分によって服装や色が定められたから、制服文化は今の学校に始まったことじゃない。そこで自己主張のために裏地の文化も発達した。着物なんかでも今と違って地味な地のものが大半で、ちらっとしか見えないところに刺繍なんかしてあるのがお洒落だったらしい。

江戸時代には一般町人は絹を用いることが禁じられたのであるが、富裕な商人などは外から見えないところに絹を用いたりした。贅沢でもあるが、実力がありながら身分的には蔑まれる階級の自己主張でもあった。シンデレラのカボチャの馬車である。

裏地とは異なるけど、遠山の金さんの刺青なんかも似たような機能がある。表向きは一役人だけど、「やいやい、黙って聞いてりゃ」と啖呵を切ってぱっと肩をはだけると、そこに派手な桜吹雪が隠された真の自分(=自我)を主張してる。そこに人は大岡越前ではなく遠山の金さんを見る。この自我が開示されないと、一般原則の機械的な適用ではなく人情を酌量した主体的な大岡裁きは行われない。

どうやら日本のヤンキー文化も、この江戸時代の裏地文化の遺産らしい。自分の学生服なども裏地が他でもない紫のラメ(高貴な色、絹のような光沢のある生地)であった。外見はほぼ決まりに沿ってるんだが、ちらりと見える派手な裏地が自分はまだ飼い慣らされてないぞという反抗心を表してる。

そんなことを考えていたら、もう一つ現代の裏地文化の例である面白いツイートに出会った。しぬこさんというツイッターで幅広い支持を得ている方で、こういうツイートであった(本人に許可をいただいてないのだが、あまりに面白いのでそのまま引用させてもらおう)。

えっちな下着を着ながらまじめに仕事をしてると些細なトラブルが起きても「ええんか?こっちはえっちな下着を着とるんやぞ?(申し訳ございません、すぐに対応させていただきます。)」って心の中でマウント取れるのでおすすめです。

この「些細なトラブル」というのは、おそらくお客とか取引相手、我を折らなければならない人からのクレームである。我を折らないとならないのだけど、えっちな下着が完全な社会への同化から自我を守る堡塁の役割を果たしてる。本当の自分はオマエが思っているような人間じゃないぞということである。具体的には、「お客様は神様」とか「女は欲望するのでなく欲望される」といったような社会規範に抵抗する自我である。

日本型ヤンキーの奥床しさ

以前、エリック・ホブズボームという歴史家が書いた匪賊の歴史を読んで、世界のヤンキー・ファッションというものを調べたことがある。ここでヤンキーというのは山賊、盗賊など無頼の徒のことで、メキシコのバケーロ、南米のガウチョ 、ハンガリーのベトヤール 、スペインのマホ、バルカン半島のハイデュクなどである。画像をお見せしたいところだが、剽窃になるのが怖いので我慢しておく。

ひとことで言うと派手である。一目で他人と区別されるようになってる。「オレはまだ飼い慣らされてないぞ」という不服従の自己主張がビンビンに伝わってくる服装である。ホブズボームは扱ってないが、海賊のファッションもまた似たようなところがある。

山賊、海賊、盗賊などというと今日では犯罪者集団というイメージしかわかないのであるが、政治権力の正統性がまだ怪しい頃には、こうした無頼の徒こそが「自由人」であった。権威に護ってもらう代わりに服従する。そうして不自由ながら無難な生活を送る。これを嫌って権威の手の届かない山や海へ逃げ込んだ人たちが山賊、海賊たちである。であるから、権力を打倒しようという革命運動においてその軍事力を供給したのはこういう匪賊でもあった。ロビン・フッドは中世イングランドには限られなかったらしい。

ブラジル北東部では、20世紀になってもそうした匪賊と革命運動(宗教とに結びついている場合が多い)の関係があった。有名なグラウベル・ロシャの『黒い神と白い悪魔』とか『アントニオ・ダス・モルテス』といった映画ではこうしたエクセントリックな匪賊の没落が悲哀をもって描かれてる。

奇妙なことに、日本近世・近代にはこうした匪賊にあたるような者がいない。地理的には山賊や海賊がもっといてもいいような気がするんだが、やはり島国なので逃げ場がなくなったのかもしれない。バクロウ(馬喰・博労)と呼ばれる運送業者が無頼の徒に近い。旅ができて世知に長けた彼らはやはり自由人に近いものとして捉えられたらしい。女にももてた。

それより戦国時代に「悪党」と呼ばれた人たちが匪賊に近いかもしれない。中世には異形の人が多かったらしいので、ヤンキー・ファッションみたいなものもあったかもしれないのだが、まだよくわからない。織田信長の奇抜なファッションもそういう系統かもしれない。しかし、江戸の幕藩体制以降は、表立ってお上に反抗する集団は見あたらないようだ。

ということは、古代から日本のヤンキーのファッションが奥床しいものであったかどうかはわからない。裏地文化が発達したのは江戸時代以降であり、ヤンキー・ファッションの奥床しさもどうも身分制の確立と関係している。

本音と建て前

日本には裏表がある人が多いのも、この裏地文化と関係ありそうである。正面からの権威の否定ではなく、面従腹背というのが民衆の政治権力に対する抵抗の基本形態であった。表向きは従ってるように見せかけながら、心の底では服従していないところがある。お上の方も、露骨に反抗を表出しないかぎりは、これを大目に見るところがあった。

タテマエとホンネというものも関係していそうである。身分社会では身分が人格に優先される。身分の「分」とは、社会全体の中に与えられた自分の地位であり分け前である。この「分」に忠実であるために要求されるのがタテマエである。火消しの半纏の表側である。社員の制服である。これに対して、身分ではなく人格に属するのがホンネ。半纏の裏地であり、えっちな下着である。

普段は服従に耐え忍びつつ、ときどきホンネをちらっと見せる。たまには金さんのように「キレる」こともあるが、それ相当の理由が要求される。通常は露骨にホンネを表にするのは忌まれる。そうではなくて、耐え忍びつつちらっと心情を見せるのが奥床しいとして尊ばれる。だからツイッターなどで弱音を吐くのは同情の対象たりうるが、デモなんかで自己主張するのは嫌われる。自分でスカートめくって下着を見せるような行為に思われるのである。

「キレる」とは啖呵を切ることである。これが個の主張じゃなくて人情の吐露という形で行われる。興味深いことに、最近は「コワレル」という表現も用いられる。普段はあまり感情を表にしない人が、酒などが入ると突如として怒りとか悲しみを吐露する。能面のように無感情の日本人と傷つきやすく怒りっぽい日本人というベネディクトが指摘した二面性にも通ずる。建前上期待される役割を演じてた人が突然内面を露骨に表現することを、人格の崩壊に見立てている。だが、多分壊れているのは公的な「人格」(社会に期待された役割としての自分)の方で、裏に隠されていた真の人格が露出されているのである。

義理と人情

ベネディクトは日本文化の鍵概念として「義理」を取り出してきたが、義理人情というのもこの裏地文化に無関係でない。

人情は人間性のことなんであるが、理性よりは感情の動物としての人間に重点がある。しかし、欧米式の普遍的な感情形式とはどうもちがう。一律の掟にはない個別の文脈を考慮するというニュアンスがあるようなのである。このニュアンスがわかる人間を「人情がある」という。

例えば、「人情の機微」という言い方がある。普遍的原理や一般的な法則で割り切れないような具体的状況に置かれた個別の人間の主観を言い表わす言い方である。

これに対して、義理の方は「理」の字が入っているように、理性的なものと関係がある。もとは儒教概念であって、何か普遍的な原理が想定されている。天理とか道と呼ばれるようなものがあって、これは個人の好みと独立した存在、判断の客観的基準と見なされている。日本に受容される過程で土着化し、もっと情緒的なものになったのであるが、やはり人情とは重ならない部分がある。時には「義理人情」と一緒くたにされるけど、「義理と人情の板挟み」にもなるから、完全に同一のものではない。

たぶん、義理固い日本人が一般的原理としてのタテマエにこだわる一方で、ホンネをぽろりと見せられると、同じく義理に縛られる身として共感を感じる。露骨にタテマエを否定されると怒るが、耐え忍びつつポロリと弱さを見せられるとほろりとする。これが人情ではないか。だから、耐え忍ぶジェスチャーが日本人のコミュニケーションでは重要な役割を果たしている。自己開示のほとんどは、自分がどれほど耐え忍んでいるかを訴えるものである。これなしで自己主張だけする者は、どんなに筋が通っていようがまず信用されない。

ぼくらが怒りを感じたり涙を流したりするのは一般原則についてではない。つねに具体的状況であり、ある人格であり、特定の判断や行動である。個が尊重されない日本においても、掟の権威に対抗する人情という形で、個別の人格が社会的にも表現され認知されてきたと言えそうなんである。

言いたいことを言おうというときにまで理屈をごねる奴は信用がならなくて、怒りながらまたは涙ながらに心情を吐露するのが人間的っていう感覚がぼくらにはある。これは欧米人にはかなりショッキングな行為で、よほど親しい人が例外的にしかやらない。かつて女性差別の一つの根拠は女は感情を抑制できないということであったが、男でこれをする奴は「女々しい」とされた。日本でも同様なんであるが、男でも抑制された真情の吐露が期待される面があったのである。

理と情の比較心理学

仮説の段階なんで、まだ欧米との比較は時期尚早なのだが、あくまでも研究ノートという前提で、いま自分が考えてることの概略だけを示しておく。

欧米においても、理性対感情という意味では、裏表がある。そして公の場では理性が感情をコントロールすることが期待される。日本でも理で情を抑制することが期待されたわけだから、この点では欧米とかわりはない。ただ、忍苦のうちにポロリと意図せずに露出した人間的な弱みを蔑まずに共感するという相反する心情があった。

いつか話したが、親子の情愛も抑圧して一生を閻魔顔で過ごす旧家の家父長の本音を垣間見せられて、ついほろりとさせられるような心情である。

これもツイッターで聞いた話だけど、大坂なおみがデビューしたときインタビューで泣きだしたりすると初々しいとか言って喜んでたのは日本人。アメリカ人は子どもっぽいと思った。それよりも黒人として自分の意見をはっきり述べたことを高く評価するのがアメリカ人。日本人は出過ぎた真似として叩く人が多かった。まったく対照的な反応である。

少し前だけど、トヨタの社長が米国議会でブレーキの不備によるとされる事故について追及を受けて悔し涙を浮べたときも、似たような反応だった。米国人は同情がなくもないけど負け犬って見なした。日本人は言いたいことを言わずに耐え忍ぶ武士の心情を慮った。

もう少し身近な例として自分が前から気づいていたのは、日本人との関係においては弱みを共有しないと気を置けない仲になれないようなところがある。自分などはどういうわけかこれが何より苦手で、日本人より外国人の友の方がずっと多い。帰国して以来、心から語りあえる友が一人もできない。遠巻きに遠慮して眺められてるのか、敬して遠ざけられているのか、文字通り互いに「気を置く」関係にしかならない。

これは SNS のような仮想空間の関係でも同じであって、いくら立派でもタテマエばかりいうような人は、有名人でもないかぎりあまり人気がない。自分と同じような弱みをもつ者との交流を求める親密圏として利用する人が多い。心情の吐露系の文章が流行るのもこれであろうと思う。

欧米式の考えだと、個人が国家社会の視点を理性として取りこんで国家社会の利益を自己責任として引き受ける。平たく言うと、自分が社会の一員であり、その福利厚生に責任をもつという自覚を理性によって強いられる。だから葛藤は理性と情念のあいだという内面的な形式になる。

日本式だと理は外的原理にとどまって内面化しきれていない。だから、内的原理の人情と衝突する。理性対情念ではなく義理対人情、建前対本音の葛藤になって完全に内面化されない。社会的側面が露わになってる。言いかえると、欧米みたいに理性が内面化しきれてない。

例を一つ挙げると、酔っ払いに対する態度である。欧米で社会的にある程度の地位にある人が酔っぱらって粗相をしたらもうアウトである。病気でなければ人格に問題があると決めつけられる。日本は酔っ払いには寛容である。普段耐え忍んでるのだから、酔っぱらったときくらいは人間らしくさせてやろうという配慮が働いている。

言い換えると、欧米人のようには日本人の自我は理性という鎧をかぶってない。だから社会的矛盾が内的葛藤としては現れない。葛藤は非人格的な社会的権威と人格的な心情の対立という形で直接現われる。自我ではなく社会的地位を代弁する建前が鎧であって、鎧を脱ぐと本音としての人情が現われる。自我はもっぱら後者の領域にあるという構図である。むしろフーコーなんかの考え方に近い。

(注:しかしながら、源了圓という社会学者によると、義理と人情が明確に分離してくるのは江戸中期以降のことで、近松門左衛門あたりが分水嶺らしい。井原西鶴あたりにおいては、義理も人情も内面原理として働いている。どちらも外から強制されたものとは感じられていなかった。しかし、江戸の幕藩体制が定着して組織が個人を縛るようになると、義理が「冷たい義理」と「温かい義理」に分裂した。もし源の言うことが正しければ、自分が語っている日本的自我は近世以降の産物であり、古来からの伝統ではない。裏地文化の発達のタイミングにも対応する。)

そうであるから、日本では欧米のように理性の人と情熱の人が分化されずに一人の人間の中に同居している。日本には匪賊という集団はいない。その代わり一人一人の裏面に匪賊が隠れてる。冷たい理性にも秘められた情熱が見え隠れしていることが期待される。だから、酔っぱらってもタテマエしか言わない人、仲良くなっても心情を漏らさない人が人情に欠けるようにに見える。日本人一般に見られる反知性主義的な傾向もおそらくここに根ざしている。しかし、この情熱は外的な原理である理によってつねに抑制されていなければならないのである。

政治に対する無関心もまた面従腹背とに関連してそうである。政治は外的原理に支配されたタテマエの世界であり、自己を同一化する対象になりにくい。できるだけ避けて避けられない場合に仕方なく関わるというのが多くの人にとっての政治の位置づけである。理性が内面化されなければ理性的自由の場としての政治という欧米風の考えは異質である。政治とは自由が束縛される領域としてしか現われない。自由は政治の外で実現されるべきものなのである。

刺青のない金さんたち

蛇足であるが付け足しておく。近代的諸制度との適合性という観点からは裏地文化はいろいろな不整合な面があるのだが、それ自体は一貫した倫理体系を構成している。とくに他人への共感力が養われる。それがただ衰退するだけだと、まず目につくのは問題点でありそうである。というのも、日本のいびつなポリチカル・コレクトネスや自己責任論も裏地文化の衰退と関係がありそうだからである。

本音と建て前、裏表の乖離を不誠実だと嫌う人が増えた。平たく言うと、「人情を解さない(解したくない?)人」が増えた。それで、無理に本音を建前と一致させようとして内的原理としての人情が否定される。欧米式の理性と情念の内面的葛藤が認められないから、一方的に非人格的な権威の代弁をすることになる。「決まりだから守るべき、例外は認めない」である。

それも個の権利の名の下にこれをするのだから、妙に非人間的な人権論になる。刺青をもたない金さんはただのお堅い役人にすぎないから、忠臣蔵などを見ても涙を流さんのである。えっちな下着など着て仕事に行くのはけしからんと思うんである。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。