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「あんたと出かけてもつらまらんわ」と言われてしまう政治

結果と過程

私にはちょっとせっかちなところがあって、自分が好きなことにはいくらでも時間を費やすが、それ以外はなるべく手を抜きたがる。で、私が好きでないものの一つが買い物。

私が買い物に出かける時は、必要なものがあらかじめあって、それが売っているところに速足で直行し、それが終わればすぐ帰宅する質である。それで、ウィンドウ・ショッピングを楽しみたい女の子からは嫌われたものだ。例外は本やCDや楽器で、これだけは何時間でも眺めておる。元かみさんと付き合っていたときの最初の大ゲンカの原因はこれで、場所はシカゴのタワーレコードであった。

私にとって買い物とは必要なものを入手するという「結果」のための「手段」にしかすぎない。女の子にとっては、実際に何を買うかというより、買い物という「過程」を楽しむことが目的なのである。

政治にも「過程」と「結果」がある。今、米国では大統領選挙の予備選の真っ最中。11月の決戦に向けて選挙戦が本格化している。当然、議論はどちらが勝つかというところに集まるのであるが、そんな競馬の下馬評みたいな報道に対して批判的な人たちもいる。選挙というのはどちらが勝つかという「結果」よりも、投票に至るまでの「過程」においていろいろな議論が候補者や市民の間で行われるところに意義があるというのだ。

政治の意義が「結果」ではなくて「過程」にあるという見方は現代人の目にはちょっと奇異に映る。通常、国民が政治に期待するのは安心とか安全なんかを与えてくれる指導者を選ぶことである。ウィンドウ・ショッピングなんかと違って、政治なんていうものは過程を楽しむものではなくて、必要な結果をもたらすために仕方なく関わるものだと考えられている。

「過程」としての政治を重視する人たちは、実はこうした現代の政治観を批判している。政治がもたらす「結果」ではなく政治それ自体を「過程」として楽しもう、というのはえらく楽観的な感じがするのであるが、実はわれわれが普段は抑圧している悲観的な人間観に基づいていたりする。

結果は二の次の政治

政治にとって「結果」は二の次ということは、逆に言えば政治に大した「結果」は期待できないということでもある。こうした政治観を唱えた現代思想家の一人にハンナ・アレントという人がいる。

彼女の政治観には、市民の積極的な参加に支えられた古代ギリシャ政治への憧れが反映されている。でも、それは近代社会に対する深い不信の裏返しでもある。

極論すると、我々の不毛な人生において政治以外に生きる意味などないという見方がアレントの政治観の根底にある。人生が不毛というのは、我々人間の存在ははかないものであるということである。我々は死なないために生きるけど、そうした人生は常に危険に満ちているし、うまくいっても単調で退屈なものである。しかも、結局は皆死んでしまう。これは生きるという行為には避けられない事実なのである。いくら政治に期待しても、究極の安全や安心を与えてはくれない。

要するに、政治に「結果」を期待しても無駄なのである。もちろん、それでも失業してのたれ死にするのと天命を全うして畳の上で愛する人たちに囲まれて死ぬのではちがうと言えるのであるが、いかに優れた政治でもこんなささやかな願いを全ての人に保証してやることさえできない。

こうした解決不可能の問題を政治に持ち込むと、政治の意義が失われてしまうというのがアレントの懸念である。「結果」を重視する人たちにとって「過程」というのは「手段」にしか過ぎないからである。

例えば、貧困や失業を軽減するためには、素人の国民が口を挟むのではなく、経済学を学んだ専門家や官僚に任せた方がより効率的ということになる。結果として、市民が参加する「政治」が専門家や官僚がトップダウンで国を運営する「行政」にとって代わられてしまう。それが行き着くところに、アレントは国家が個人の生活をくまなく管理する全体主義を見る。

それで、アレントはこんな解決不可能な「社会」問題と切り離して、「政治」を人々が自由で平等な市民として活動する場として保存しようとする。でも、大した結果も期待できない政治をどうして我々は楽しむことができるのか。

アレントにとって、権力やカネを目的に生きるのは不毛な試みである。死んでしまえば、そんなものは何の役にも立たない。我々が自分の存在のはかなさを乗り越える唯一の方法は、生きている間に他の同胞に自分の価値を認めてもらって、死後も人々の記憶の中に伝説となって生き続けることである。

アレントにとっても政治というのは闘争なのであるが、それは権力やカネではなく同胞からの賞賛を巡っての争いなのだ。そこでは経済成長、安全保障、社会保障なんていった「結果」は二の次で、皆が名誉や評判をかけて競い合う「過程」が重要なのだ。

人は安全のために生きるにあらず

一見古臭いアレントの政治論というのは、マルクスとウェーバーという近代批判の巨人の思想の流れを受け継いでもいる。近代社会の非人間性を批判しつつ技術革新による人間の解放を期待したマルクス。マルクスを否定し終わりない官僚化の時代の到来を予見しつつ嘆いたウェーバー。

アレントはウェーバーの悲観論を共有しながら、合理化・官僚化する社会のカウンターバランスを古典の中の政治観に見いだそうとしたと言える。だけど、政治というのが逃れられない人生の不毛さを紛らわすために興じるゲームみたいなものになってしまっていて、アリストテレスの政治=人間性の実現という見方とは異質の暗さがつきまとう。

アレントの『人間の条件』という本は自分の世界観を大きく変えた一冊なのであるが、二度、三度と読み返しているうちにえらく落ち込んで、立ち直るまでしばらくかかった。だが、最近、ドイツ思想を学んでいくうちに、政治思想の古典として読んだときには気づかなかった側面が見えてきた。その一つは人間が「歴史」をもつことの意味である。

ある結果を生むためだけに歴史はあると考え、その目的に向かってどれだけ近づけるかという視点から行為の価値を評価するのがリベラルやマルクス主義者たちの進歩史観。彼らにとって物事の善悪は進歩の究極の目的に対する貢献によって決まる。買い物とは何かを手に入れることであり、その過程は短ければ短いほどよいと考える自分に似てる。

アレントのように過程の方を重視する人々の考えはそうではなくて、結果的に購入された物は二の次であり、それを手に入れるウィンドウ・ショッピングにこそ実があると考える。結果は不確実であっても、とにかくいろいろと試行錯誤してみる。いや、不確実であるからこそ、試してみないとならない。その結果が意図せぬものであっても、まあよしとする。当然のことながら、危険がある。無責任な行為が増えること、そしてそうした行為が連なって、誰にも責任を取れないような意図せぬ結果が生まれるかもしれないこと。

だが、アレントはこの危険を承知で過程の政治を承認する。これがなければ、人間の自由は失われ、近未来のディストピアのような全体主義的な社会が形成される。ここに人間は「安全・安心」のためだけに生きるのでないというドイツ思想の系譜が見られる。

興味深いことに、合理化・官僚化した今日の社会において、アレントがこうした人間的自由の担い手と考えるのは、政治家や企業家ではなく、地球に縛られた存在である人類を解放しようとする科学者たちである。科学者はその解放がどのような結果をもたらすかなどということに頓着せず、可能性に賭けてどんどんと冒険を行なっていく。それが核兵器にもなれば原子力発電にもなり、宇宙開発にもなれば地球の破壊にもなり、人命を救う医療技術も産めば生命の尊厳を脅かす傲慢な生体実験にもなる。

危険がなければ自由はない

結果に無責任な科学者の冒険は一歩まちがえば、われわれの「安全・安心」を脅かす脅威となる。アレントはこの危険から人類を救うためにいくつかの安全装置を付ける。その一つは公私の厳密な区別である。「公」というのは政治の場であり、人々が仮面をかぶって演じる場である。人間が行為を通じて自由を実現するのはこの「公」の場である。

他方で、「私」の場は生命を育む場である。アレントはこの「私」の領域を生物学的過程と呼んだため、「公」と比べてより動物的で価値の低いものであるとしたと解されることが多い。しかし、彼女はこの「私」の領域に対する「公」の浸蝕を断固として拒んだのでもある。自分の聞いた話だと、公衆トイレの囲いにすき間があるのはこの種の侵害であるとして、ひどく憤慨していたそうだ。

この「公」と「私」の区別は、自分が以前に母性原理、父性原理と呼んだものに対応しているように見える。

この公私の領域の隔離に加えて、もう一つの安全装置は「赦し」である。行為の連鎖が誰にも責任のとれない結果を生み出したとき、関係をリセットするのである。これについても以前に日記にしてある。

こうした安全装置を取り付けても、やはり政治は危険なものである。ここに、政治を専門家集団の「行政」に変えてしまいたい誘惑が生じる。しかし、この危険がなければ自由も非合理なものにしかなりえない。自由のある社会とは不可知ものを認め、責任に絡めとられて多くの人が主体性を放棄してしまわないような社会である。行政とは区別される政治はそうした社会にしかない。今日の社会に支配的な安全・安心の政治とは異質のものであることがわかっていただけただろうか。

調子に乗って大分風呂敷を拡げてしまったが、結果よりも過程を重視するということには、選挙にかぎられない、思ったより深い意味があるという話であった。

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