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自分でついた嘘を信じるということ

レトリックと呪術

イギリスの人類学者フレーザーは、『金枝篇』のなかで呪術の原則として「類似の原則」と「接触の原則」を挙げている。類似の原則とは、似たものは似たものを生むということである。例えば、雨を降らせたいときに、水を撒き散らす呪術がある。後者が前者と似た状態であることから、後者を実現すれば前者の状態を生み出すことができると推論するのである。

これに対して「接触の原則」とは、長いこと一緒にあったものは、互いに離れた後にもその関係が続くという考えである。だから、人の髪の毛や衣服の切れ端を焼いたり刻んだりすることにより、その持ち主に危害を加えることができると考える。

フレーザーは明言していないが、この二つの原理は、隠喩と換喩と呼ばれる修辞法からヒントを得たもののようだ。フレーザーの育った時代は修辞学が必須の教養科目であったらしいから、その原則についても知っていたにちがいない。

隠喩というのはAというものに言及するのにわざとBという言葉を用いる。たとえば、「あいつは狸だ」などという場合である。ずるい人間を狸という言葉を使って表わすのであるが、これで意味が通るのは「ずるさ」という類似性が両者にあるためである(本当に狸が「ずるい」のかどうかはさておいて)。換喩のほうは、いつも赤い頭巾を被っている女の子を「赤頭巾ちゃん」などと呼ぶことである。この場合、女の子と頭巾の間に類似性はない。あるのは接触、近接性である。大統領を「ホワイトハウス」と呼んだり政府を「ワシントン」と呼んだりするのも換喩である。

正しくない言い方

修辞というのは、言論の効果を高めるために、あえて言葉の「あや」を用いることである。真実ではないから「うそ」と言えば「うそ」だが、この修辞がない言論は平板になりがちである。せっかく伝えたいことも相手に興味をもってもらえなければ、いくら正しく言われたところで意味がない。

「正しい」言語というのは、それが表わそうとする現実と正確に一致していることを意味する。修辞はこの現実からあえて外れることである。修辞というからには、われわれはそれが「正しい」もの言いではないことを承知しているはずだ。赤い頭巾をかぶった女の子はかぶりものではないし、ずるいおやじは狸ではない。

しかし、呪術や儀式では、これを行う者はそれを信じているからこれを行うのである。だから、今日では呪術や儀式を迷信であるとして笑う者が増えた。まるで「赤頭巾ちゃん」を本当の頭巾のように頭にかぶろうとするかのようだ、というわけである。

しかし、最新技術を駆使したビデオ・ゲームなどのヴァーチャル・リアリティも一種の隠喩である。現実には指と目の運動にしかすぎないものが、大陸の征服とか、プロ野球チームの試合とか、戦車や飛行機の操縦という意味を持つ。「この間、中国大陸を統一したぜ」とか「読売ジャイアンツと対戦して勝っちゃったよ」と誰かが言ったときに、それは「うそ」でもあり「本当」でもありうる。本人も、それが本当のことではないと知りながらも、遊んでいる時には本気で統一や試合をしているつもりなっている。そうでなければ、遊んでいても面白くない。そして、勝ったり負けたりすれば、心の底から喜んだりくやしがったりする。

この点では呪術とゲームの距離はそう遠くない。現実に類似するイメージなどを現実の代用品として用い、あたかもそれが現実であるかのように振る舞う。そうすることによって生れる興奮や期待などの心的作用は現実のものである。つまり、「うそ」から「まこと」が生じる。

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