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帰りのない電車(『千と千尋の神隠し』に出てくるやつ)

ジブリ映画にはいわゆる教養小説的な要素があるものが多い。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』などのように、ナイーヴな若者が世間を遍歴し、葛藤しつつ、次第に人格を完成に近づけていく物語である。平たく言えば、子どもから大人に成長する物語である。

特に『千と千尋の神隠し』には、エンデの『はてしない物語』のようなファンタジーを形をとった教養小説的性格が濃厚にある。だが、その教訓が何であるのか今ひとつはっきりしない。

そもそも教養小説は、何が人格形成に役立つ教養であるかをはっきりさせない。「これさえ読めばあなたも教養人」とは帯に書いてない。それを考えさせるから教養になるというのが教養小説の教養小説たるゆえんなのかどうかはしらんが、千尋は確かに大きく成長した。だが、それが如何なる意味での成長であるか、どのようにして成長が可能になったのか、はっきり指し示されていない。

だが一つ自分が気づいたのは、この映画に行きばかりで帰りがない電車が出てくる。以前は帰りの電車もあったのだけど最近は行きばかりになってしまったらしい。それでも、主人公の千尋は愛する者を救うために、その帰れないかもしれない電車に乗る。

冥界への旅と帰還

命を犠牲にしてまで愛するものを救おうとするという意味では、テロリストもまたそうである。聖人となる殉教者とテロリストを分けるのは、後者は自分だけじゃなく他人の命も犠牲にしてしまうところである。

だが、両者とも自分の命を何よりも大切にする我々にとって不可解な存在だ。いきおい狂信的な宗教をもつ「他者」の異質性に答えを求めがちである。でも、導きだした答えは違うとは言え、ナショナリストとか宗教原理主義者と我々はある経験を共有しているような気もする。

『千と千尋の神隠し』を見てそんな感想を抱く奴もいないだろうが、たまたま考えていた「愛と死」の主題を自分はこの映画に見出した(もしくは読み込んだ)。

行ったきり帰れない一方通行の旅と言えば、死出の旅が想起される。実際、その電車の乗客は影のような人々で、大きな荷物を持ってどこからか新しい場所へ移っていく途中のように見える。

結局、千尋は迎えに来たハクの背中に乗って、線路の上をもと来た方向へ飛んでいく。その背中で、過去に川に落ちた自分を救ってくれたのがハクであることを思い出す。

死の淵から川の主である竜の背に乗って引き戻されたこの経験と、一方通行の路線の上をやはり竜の背に乗って逆方向に飛んでいく経験が重なって、千尋は自分の記憶を取り戻すのである。そうなると一方通行の電車はやはり死出の旅路の隠喩である。

つまり、こういうことである。千尋はハクを救うために冥界へ赴く。そして今度は、その救われたハクが千尋を冥界から連れ戻す。もしハクが死んでしまっていたら、千尋は元の世界にはもどれなかった。死の可能性を受け容れた者が、死を受け容れたがゆえに、生へと帰還するのである。そうすると、千尋とその家族が迷い込んだ世界は、どうもこの生と死のはざまにある辺獄(リンボー)である。

しかし、またその死から生への帰還の旅路を、二人はかつて共にしたことがあるという記憶が蘇る。いや、もしかすると何度も同じことが過去に繰り返されてきたかもしれないし、また未来にも繰り返されるかもしれない。二人は知りあう前にすでに知り合いであった。そうして別れた後にもつながりつづける。二人は生死の往来によってつながる永遠の共同体なのであった(『君の名は』の見えない絆でつながる「運命の恋人」に憧れた人なら、何となくわかるだろ)。

そうすると、千尋の成長は、まず死を受け容れることにより可能になった。愛に殉じたと言えるかもしれないが、むしろ死を受け容れることにより、愛がただの好き嫌いとは次元を異にするものになったとも解釈できる。死の受容が愛に先立つのである。この死の認識によって純化した愛が、時空を超えた共同体の発見を可能にした。その発見をもって生に立ち返ったときに、クソガキであった千尋はもう大人であった。ここに解くべき謎がないか。

あの世との往来

この映画の電車が昔は行きも帰りもあったように、近代以前でもこの世と死後の世界は一方通行ではなかった。この二つの世界は繋がっていて、頻繁に行き来があった。

日本だと神棚があって祖先が奉られたりしていて、毎日お供えをするし、お盆には死者の魂が帰ってくることになっていた。ギリシャ神話や日本の民話や落語にも死者の世界から戻ってくる話がいくらでもある。

あの世を遠いところにしようという坊主たちの意図にもかかわらず、肉体は滅びてしまっても精神はどこかで生きていて、時々我々が生きている世界に戻ってくると信じたい人が世界中に多かったのである。

これが近代になると、唯物論的な考え方が主流になる。精神というのは脳や神経などの物質の作用であり、肉体が滅びれば精神もまた潰える。死者の魂が乗り移るイタコさんみたいなのはナンセンスだということになる。

この唯物論というのは、あの世ではなくこの世に生きる生身の人間を重視するという人間主義の流れも汲んでいる。でも、結果として、「死」というものが医学的状態という以上の意味を失ってしまう。

それで、我々近代人というのは「死」の問題に関して語る言葉をあまり持たない。以前読んだ本によると、昔の英国には「死」を語る言説が沢山あったらしい。これが19世紀になると、「死」というのは公の場からは閉め出されて、故人の親類や友人の間のプライベートな問題になる。愛する人を失った悲しみは言葉では表せなくなって、それぞれの個人が独りぼっちで乗り越える問題になり、心理学上の問題になってしまったのだ。

日本でも、例えば死を「成仏」と婉曲に言うのであるが、それがどうも仏教のいう「成仏」とは違う。この世への縁が切れない「成仏」である。誰かがが死んでも、「きっと神様のところに行ったんだよ」とか「あの世で待っててくれるよ」と、嘘をつく罪悪感なしに言えた。

これが、今日では、大事な人を亡くした人たちに対して我々は言うべきことを知らない。「御愁傷様」という言葉が皮肉な意味をおびるようにさえなった。

死を語る言葉

言葉がないのは、肉体が滅びてしまえば精神も滅びることを「知って」しまったからである。精神が滅びてしまえば、その人の存在というのは永遠に失われる。現代社会には死後の世界というのは存在しないことになっている。そして、存在しないものはこの世に生きる者にとって意味がない。

忌引きの人には2、3日の間は気遣いがあるけど、死んだ人のことなんかできるだけ早く忘れて普通の生活に復帰してくれ、というのが実は周囲の人たちの本音である。

そういうわけで、今日の社会では、「死」というものが取り返しのつかない終焉として現代人の前に立ちはだかる。冥土へ続く路線は単線となった。

この論理をさらに追求すれば、この世に生を受けた瞬間から、我々は「死」に向かって帰り道のない旅を続けていることにもなる。この宇宙には彼岸も此岸もない。あるのは辺獄だけである。

でも、その事実を直視してそれを語る言葉を我々は知らない。語れないということは、それを理解して乗り越える術を知らないということでもある。

もちろん、乗り越えるといっても、不死を手に入れる(科学的手段か呪術的手段かにかかわらず)という方向とはちがう。言葉による乗り越えである。

我々はただ「死」の問題をできるだけ人目のつかないところに押し込めて、自分の死が巡ってくるまで目を逸らそうとする。でも、「死」というものが「生」と表裏一体の存在である以上、「死」の意味を考えること無しにはこの世に生きるという意味も考えることができない。

だから、「死」を語る言葉を持たないということは「生きる」ということも語ることができないということでもある。「死」を語る言葉を知らないことと「生」に積極的な意味を見いだせないことは恐らく対の現象である。

こんな危うさが、現代社会においても「宗教」がなくならない理由でもあるような気がする。

以前読んだナショナリズムの本にこんな話が載っていた。

死の床にある友人がこう言う。

「俺はもうすぐ存在しなくなる。でも、このイギリスという国はなくならない。それで俺は安心して死んでいける」

自分のはかない存在の意味を、自分の短い生を超えて過去から未来にまたがって存在している「ネーション」というものの中に見出すのがナショナリズム。いわば「神」とか「自然」に代わって「ネーション」というのが神聖化されている。

日本の場合は、「イエ」というものがこのネーションの役割を果した。「俺はもうすぐ死ぬ。だけど、このイエはなくならない。それで俺は安心して死んでいける」と言って死んでいく人が多かった。ネーションが永遠の共同体として主に都市住民のなかに受け入れられていくのは、イエ制度が解体する時期である。

感情的な排他主義、存在しない過去に対するノスタルジー、近代国家を正当化するイデオロギーという意味を越えた「現代の宗教」としてのナショナリズムの意義がここにある。

投げ返された問い

ここで冒頭の話にようやくつながる。宗教のために自分の命を犠牲にする「原理主義者」の人たちにも、単なる伝統的価値観への盲目的信仰ではなく、現代的な虚無主義とか実存哲学の影を感じる。

こういうことである。冥土への旅が一方通行になることによって、死を語れなくなった人々がいる。そのような人々はまた「生きる」とは何かという問いに対しても、「生物学的に死んでない状態」という以上の答えを有してない。だが、ヒトはただ死なないだけの生に満足できない。

逃れられない死から目を逸らして、その場その場の勢いに従って生きるのではなく、絶対的な愛のために命を犠牲にすることによって受動的な「生」を能動的なものにしようとする。いな、むしろ命を犠牲にすることにより愛を絶対化しようと試みる。そういう人が出てきてもおかしくないし、フィクションではむしろ陳腐なくらい我々が慣れ親しんだテーマである。

これがフィクションの世界に閉じこめられるようになったのは、死者と生者の共同体が想像できなくなったためである。だが、死者と生者のあいだの交感が可能であると考えれば、生死の境目は相対化される。死への恐怖は和らぐ。むしろ、死を通じてしか繋がれない人々が生者にも死者にもいる。死はもはや個人を共同体から引き離すことはない。逆であって、死によってヒトは共同体と分かちがたく結びつくことになる。

そう考えれば、不可解な人たちの行動も意味のあるものに見えてくる。

だからといってテロ行為が許されるべきではないし、こんなえせ社会心理学でテロリズムが全て説明できるとも思わない。でも、ナショナリズムや原理主義というものを異文化間の衝突や伝統と近代の相克とだけ考えてしまうと、見落としてしまうことがあると思う。そしてその見落とされることは、「生とは何か」という問いに悩まされるぼくらとも深いかかわりがある。

ということで、冥界行きの電車が一方通行になった近代という時代がある。その時代を生きる人たちの悩みを反映していると考えることが、ナショナリズムや宗教過激派という近代社会が生んだ病理を理解する第一歩なのかもしれない、なんて自分は考えた。

だから、クソガキであった千尋が急にすべてを達観する大人になれたのは物語の都合であり、人格形成の過程として文字通り受け取ってしまっては無理がある。千尋は聖人になったかもしれないが、テロリストになったかもしれないのである。

『ナウシカ』や『もののけ姫』同様、謎に答えを見つけるという作業は物語中では行われていない。主人公は投げかけられた問いに対する何らかの答えを見つけたが、その答えは観客には隠されている。問いがそのまま見た者に投げ返されている。だから、見ただけじゃ大人に成長しない。ぼくらはまだリンボーにいる。

とんだジブリ映画評もあったものだが、まあ精神の栄養になる物語とはこういう読まれ方も可能な物語なんじゃないかということにしとこう。

(2008年11月30日に書いたものに加筆した)

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