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墓 その二

前回は私自身のイエの没落の歴史のついでに、訪れる者のいそうにない墓が増え続けることについて話した。イエの歴史はそれぞれだが、墓については同じような問題を抱えている人がたくさんいるはずだ。まだ読んでない人のためにリンクを貼っておく。

今回はちょっと抽象的になるが、墓というものに込められた死生観についての話をしようと思う。

文明と死

人類の進化史上、人間が動物から分化した証拠としてあげられるは、火や道具の使用に加えて埋葬がある。死んだ同胞を埋葬するということは、「死」を物質界における新陳代謝以上のものとして捉えるということである。全ての人が自分もいずれは死ぬということを自覚している以上、それは死んだ人だけではなく自分自身の存在が自覚的に問題化されている(=死から逃れられない自分を外から見つめる自分がいる)証拠でもある。ここに、自然の一部でありながら、自分も含む自然を対象化して考える人間の起源があるとも言える。

我々が「文化」とか「文明」と呼ぶものの始まりに「死」というものがあるということは示唆的である。考えてみると、死があるから生があるのであって、生の意味を考えるには死についても考えないとならないのだから、人間の生命力の表現である文化や文明が死に対する自覚に関連しているのは当然と言えば当然である。

人間は「自分はなぜ存在しているのだろう」と問う能力を持っているのであるが、それに対する確固たる答えを持ち合わせていない。物質界においては、人間も何らかの物質により構成されている以上、自然の新陳代謝に流されるだけ存在である。生物界においては、人間も他の生物同様、生まれて死んでいくだけの存在である。そんな人間にゴキブリや犬のウンコ以上の存在理由があるとは思えない。「土に帰る」という言い方があるけど、死というのは物質界や生物界では「存在しなくなる」ことに他ならない。死は絶対避けられないから、人間が人生において見いだす意味は「存在しなくなる」までの一時しのぎにしか過ぎなくなってしまう。

でも、脳死を死とするかどうかの論争に見られるように、人間は死を物質的、生物学的な視点からしか見ているわけではない。文化を有して以来、人類は死(そして生)の問題について悩み、非常に複雑な世界観を発展させてきたのだ。でも、近代の知というのは、こうした複雑な世界観を切り捨てる傾向がある。先の日記で紹介した、日本の家制度の崩壊と墓の意味の喪失というのもそのひとつの例である。結果として、死を直視することを避ける傾向が現われ、それゆえ生の意味についても語る言葉を失っているようなところがある。

日本人の生き甲斐だったもの

では、日本の伝統的共同体ではどのように生と死の問題はどのように捉えられていたのか。一概には言えないのだけど、昔の日本人の民間信仰では、人が死ぬとその霊魂はあの世に行ってしまうのではなく、そこらの山や森などに自然の一部となって潜んでいて、子孫を見守っていると考えたようだ。いわば守り神なわけだが、キリスト教の神様のように絶対的な善というわけではなく、しっかり奉ってやらないとへそを曲げて害ももたらす。それで、墓を家の近くに立ててお参りし、年の節目節目にはそうした先祖の魂を迎えてそのご機嫌をとったわけだ。仏教行事のようになってしまった「お盆」に、今でもこの感覚は生きているが、本来はこれが「まつり」の意味であるようだ(柳田国男の説である。ただし異論もある)。

これも柳田国男から学んだのであるが、この死生観が共同体における生の倫理とも深く結びついている。今生きている人たちは、ご先祖様が残した遺産の継承者であり、その遺産を子孫代々に伝えていく義務がある。すなわち、今生きている人だけじゃなくて、死んだ人たちそしてまだ生まれない人たちにも義務を負っていたのである。その見返りとして、自分も死後はそうしたご先祖様の仲間入りできるのである。

だから義務であると同時に、イエの永続のために働くことが人々の生き甲斐でもあった。こうした倫理から見ると、自分の生まれた土地や自分の先祖の墓を捨てたりするのは「家殺し=昔生きていた人とこれから生まれる人を殺すこと」であり、今生きている人間を殺すよりも重罪なのである。

口減らしのための幼時殺しとか姥捨て山とか現代の倫理観だと非人道的なものも、イエやムラなどの共同体の維持を至上と目的とする倫理から見ると、より道徳的なものと見なされるのである。こうした意味でのイエというのは、核家族と違って、物質的な世界のエコノミー以上の意味を有する制度だったのである。

今日ぼくらの知るあの石墓というのはあまり古いものではないのだが、このイエの制度が無くなれば、あんなものを遺していく意味はあまりなくなる。直接顔を知ってる子孫が無くなれば、訪れる人などいなくなる。人に思い出されることのない人生を送った者が墓など持ったところで仕方がないのである。昔のように偉人や英雄など、その業績が思い出される人の墓だけあればよいはずである。平等に生きた人々は死後には不平等に扱われるんである。

文明の中の野蛮

伝統的な共同体の倫理を捨ててしまった現代社会では、死とは取り返しのつかない終焉であり、道徳は抽象的な個人の間の権利義務にしか過ぎない。そこでは「私は何のために存在するのか」という問いは個人の好みの問題に帰することになり、その悩みは心理学上の問題に過ぎなくなる。何のために生きているのかわからないのにもかかわらず、前向きに生きることを強いられるのが現代社会なのである。

「死」に対する自覚から始まった文明というものが行き着いた先が、「死」の意味を矮小化する文化であったというのは皮肉ではあるが、示唆的でもある。近代文明にしばしば見られる野蛮性(例えば、ホロコーストや核兵器)にも通ずるところがあるのかもしれない。だからといって、昔の農村社会の方が現代社会よりマシだったと言いたいわけではない。でも、我々の生きる現代社会の時代性を自覚するためには、現代社会が切り捨てたものが何であったのかも意識する必要があると思う。

墓というものが象徴していたような世界観や倫理観を失った我々が、それに代わるようなものを生み出せているのか。もしくは、そのような幻想無しで個人として生きて死んでいけるような強さを身につけることができるのか。なんてことを考え始めると、人類の進化というのは単線的でもないし、人類の歴史はまだまだ終わっちゃいないんだなと思ったりする。

(2009年7月1日)

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