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ご近所民主主義

米国の建国の父の一人にトマス・ジェファーソンという人がいる。独立宣言を起草して、後には第三代大統領にもなった。ハミルトンらの連邦主義者に抗して中央集権化に反対して、市民が直接政治に参加できるよう地方分権を説いた人でもある。「ご近所民主主義」とでもいうのだろうか。道路の修復とか学校の建設に関するような身近な事は、遠くにある中央政府ではなく地元の住民が自ら集まって決めるべきだということである。

大学の講義でこのジェファーソン式民主主義についてどう思うか学生に聞いてみると、自由を愛するはずのアメリカ人から意外な反応が返って来た。ほとんどの学生は、「皆自分のことで忙しくて、道路や学校のことなどでいちいち集まっていられない」と否定的だ。更に興味深かった答えは、「地元に政治を持ち込むと、仲良くしている住民の間で対立が起こる」というものだった。

政治とはお上との関係なのか

でも、住民間の対立を避けて、お上に全てを任せてしまうと都合の悪いことも起きる。政治的対立というのは個別の文脈において発生するが、これが国政のレベルで扱われるようになると、個別性が見失われてしまいがちである。本来は当事者の事情を考慮して解決すべき問題が、抽象的な概念で一括りにされ、画一的な解決が押し付けられる。

「年貢が高すぎて食っていけねぇから、皆で庄屋様に相談しにいこう。事情を話せばきっとわかってくださるにちげえねぇ」という問題が、「農民を搾取する地主階級を排除しろ」とか「日本国の屋台骨を蝕む国賊を征伐しろ」みたいなことになる。

実際、自由主義、保守主義、社会主義、民族主義など、いろいろなイズムが台頭した時期というのは、国家による中央集権化が完成した時期に一致する。イデオロギー政治というのは集権的な近代国家の産物でもあるようだ。

イデオロギーの利点は、複雑な現実を理解するレンズを与えてくれることである。広範で複雑に入り組んだ今日の社会をイデオロギーの助けなしに理解することは難しい。反面、イデオロギーは物事を単純化しすぎる。すべてが「進歩対伝統」、「階級対立」、または「民族間の衝突」などという一面的な視点で語られてしまう。結果として、当事者の見方が無視され、一方的な視点から問題と解決策が押し付けられる。

この単純な世界観は政治的対話を難しくする。同じ現実を語っているはずなのに、まるで接点がないような解釈が並立する。それで、イデオロギーを共有する者同士では馴れ合い、共有しない者の間では無意味な中傷合戦に陥る。

こうして考えると政治が対立を生むからお上に任そうというのは考えものである。その場の対立は回避できるかもしれないが、それが回り回ってよりイデオロギー的な対立になって地元に帰って来てしまう。

報道を読むかぎり、最近(2008年当時)ケニアで見られた民族対立の激化にも似たような構図が見られるようだ。多様な人々が曲がりなりにも共存していたところに、国政レベルでの権力闘争が下降していく。指導者の民族主義的レトリッックに、まず社会のマージナルなところにいる失業者、過激派、犯罪者などが呼応して民兵を組織し、相手方を襲撃する。これに対抗して相手も民兵を組織する。こうして暴力がスパイラル下降して、昨日まで一緒に暮らしていた人たちが互いに殺し合うようになる。

対立激化の歯止め

でも、政治を「ご近所」に持ち込んで同じようなイデオロギー対立が起きないという保証はあるのか。少なくとも、住民が直接顔を会わせて行う政治には、対立の暴走を妨げる装置が組み込まれているような気がする。

我々は誰ともわからない相手には強気になれるが、ご近所様に面と向かってお前はバカだの悪党だのというのはさすがに気が引ける。一応相手の話を聞いて共通点を探そうとする。それは、今後も毎日顔を合わせて暮らしていかなければならないからであるし、また生身の「人」と「人」の付き合いには抽象的で一面的なイデオロギーでは語りきれない濃密さと多元性があるからである。

そうは言っても、今日の社会では、ネットの双方向性のおかげで、ご近所とは挨拶を交わしたこともないような人でも「政治参加」ができるようになってる。多かれ少なかれ我々は直接顔を合わせることもない人たちと関係できるし、せざるを得ない。民主化にとっては朗報であるはずであったが、今のところのその恩恵よりは弊害の方が目立つようになっている。

自分が若い頃と違って、今の若い人は政治や社会問題に関心が高くてエラいなと思う反面、ネット上で見る議論の少なからぬ部分が頭でっかちなイデオロギー論争のようなことになっているような気がしている。自分は様々な意見を持つ人たちが議論を戦わすのを聞くのが好きな方であると思うが、当事者の視点を全く無視した無神経なコメントが溢れているのを見るとさすがにくらーい気持ちになってくる。

まだ殺し合いにまではなってないけど、エリートの権力闘争に用いられるイデオロギー的な呼びかけに最初に呼応するのが社会ではマージナルなところにいる人であるという点では共通している。ネットに常駐している人にはそういう人の比率が高いから、過激な方の声が実勢以上に大きく反映される。

だから、ネットでのやりとりでもご近所民主主義みたいなものから学べることがたくさんありそうだ。ネットが不特定多数の人に開かれた公の場である以上、たとえ顔が見えない相手でも、ご近所様に面と向かって言えないようなことを発言するのは慎む。そうすることによって、ほとんどの無用な対立は避けられるし、本質的な対立点がよりはっきりしてくる。

といっても、逆の弊害に陥ってもならない。日本のご近所づきあいは、表面的にはにこにこ挨拶しあって、陰で悪口を言うというふうになりがちである。他人に遠慮して言いたいことを我慢するというよりは、形式的に礼儀は守ってるふりをしながら、お互いに言いたいことを言えるという意味での「コミュニケーション力」を培う必要がある。

自らを治める能力

具体的には、次のような心がけであろう。

1.説明を求められたら丁寧に説明するつもりで発言する。自分でもうまく説明できないことは言わない。

誤解があるとまずいから言っておくが、これは公の場での発言の話である。プライベートなら説明できないようなことだって、相手が耳をかしてくれるかぎりどんどん言ってもいい。それが親密圏の役割である。そうではなくて、公の場で誰かが聞きとがめるようなことを、「個人の意見だ。説明は控えさせていただく」みたいな態度で放言しないようにするということである。

2.自分の気に入らない発言でも、第一印象で決めつけない。まずは相手に説明を求める。説明をよく聞く。

説明する人だけが多くても、説明を聞く人がいなければ意味がない。説明を前提として発言する文化を育てるためには、聞き上手の人も増えなければならない。ありていに言って、日本の今の教育は説明をするのもされるのも苦手な人を大量に生みだしてるから、よほど厳しく自分を反省しないと改善しないと思う。

3.批判はなるべく私情を見せずに誠実にやる。だがこれが通用しなさそうなときは、反語や比喩などを使って婉曲していう工夫をする。

下手に「わからんのはオマエがバカだからだ」といってしまうと、相手だってもう後に引けない。最低限の礼儀を守りながら、あの手この手で相手を揺さぶる。分かる人は同じく反語や比喩で返すだろうから罵倒合戦にならずに、知性の戦いになる。分からない人はとりあえず放っておいていい。少しでも恥を感じるくらい賢ければ、その場では認めなくとも自分自身で考えざるをえなくなる。それに第三者で道理の分かる人が見ててくれるかもしれない。その場で相手を説き伏せなくても無駄にはならない。だが、そのためには自分が「品位」を失ってはならない。

学問共同体という「ご近所」における社交マナーなどはこういう慇懃無礼なやりとりである。陰湿なんだが、ぜんぜん面識のない人でも罵倒合戦にまでは発展しにくい。悪意や憎しみをそのままぶつけるのは反則で、いったん知性を介して翻訳しないとならない。

そうなると、高度な言葉を扱う訓練をうけた高学歴保有者の方が有利になってしまう。それで

4.人より優れた知性を持つと自負する人たちが、特に謙虚に振舞う。

謙虚というのは自分の能力を過小評価することじゃない。能力に自負があるから、余裕をもって劣った人たちの過失を大目に見るということである。その人たちの能力を引き出してやるために自ら汗を流すということである。そして、かれらの意見をできるかぎりかれらの立場から理解するように努める。要するに、世論を形成をひっぱる政治的リーダーとしての自覚をもつということである。こうした地域レベルのリーダーの中からまた、国政に参加する政治家が育っていく。学校で本を通じてしか政治を学んだことのない人に欠けてるのは、往々にしてこういう能力である。

(ちなみに、ジェファーソンは学者ではないが、学識豊かな学者政治家であった。そういう人がかえって実践の知を強調したのである。しかし、そうした知性と権力の結合にヨーロッパの階級社会の影を見て不審の念を抱く伝統が米国にはある。それがアメリカ的な反知性主義である。アメリカでなくとも、学歴資本が富や権力に換金され、そのために学歴が求められるのが近代社会である。自分には金も権力も縁がないから当てはまらないと思っていても、スモモの木の下で冠はたださないのが賢いのである。)

ジェファーソンが地方自治を「民主主義の学校」とみたのは、一つにはこうした政治能力の養成のためである。政治が分権化されているから政治能力もまた多くの人に普及するのである。いくら政治に不満を鳴らしたところで、つまるところが「私たちのためによろしく統治してください」というお上丸投げであるかぎりは、自らを統治する能力を身につける機会になるわけがない。「人民の人民による人民のための統治」がデモクラシーであるならば、「ご近所民主主義」はデモクラシーにとって不可欠の基礎である。

(2008年03月02日初出。一部改稿し、最後の節を加えた)

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