見出し画像

親から子に語り継がれる話

母の曾祖母はおハツさんといって二本松の貧乏藩士の娘である。若い頃は器量よしで評判だったらしい。で、あるときトジョウという家の惣領息子に見初められた。それで二本松藩の郡山開拓民の頭領であったらしいタテイリさんという人を通じて嫁入りの話があった。明治初期の話である。

しかし、あまり年の離れてない叔母が一緒に住んでいて、タテイリのじいさんはてっきりこの叔母の方に申し込みがあったと思ったらしい。ひょっとすると、叔母より姪が先に嫁いでは具合が悪いという確信犯的な勘違いであったのかもしれない。

ともかく婚礼が終って、化粧を落として顔を見るとお目当てのおハツさんでない。当時は見合い写真なども普及してないだろうから、当日まで本人たちが顔を合わせない結婚がいくらでもあった。それで「話がちがう」と大騒ぎになった。タテイリのじいさんは「この上は、腹を切ってお詫びを」なんて言い出すし、結局トジョウの方では勘違いで結んだ契りを受け入れざるを得なかった。

それでも人情は人情である。ときどき嫁を責める。それで叔母はちょくちょく東京から郡山の実家に帰ってくる。なんだか磐長姫の話みたいだが、幸いなことに人類の寿命はそれで短くはならなかった。そのたびにおハツさんが付き添って東京の家に連れ戻し、おじさんを諭す。これにはトジョウのおじさんも参ったらしく、嫁と仲直りする。そんなことが何回も何回もあったらしい。結局、トジョウのおじさんはおハツさんをかわいがり続けて、その孫である母の代まで東京では何かと世話してくれたそうだ。

このトジョウのおじさんにも妹がいて、おハマさんといった。ハイカラな人だったらしくて、御前でバイオリンの演奏をしたとか、相馬黒光・愛蔵夫妻の中村屋のサロンに出入りして油絵などを描いてたという話が伝わっている。戦争中は、どういう経緯かこの油絵が大量に郡山の母の実家に疎開してきたそうだ。

トジョウのばあちゃんは姪のおハツさんより長生きした。戦争中は郡山に疎開し、母の実家の近所に女中と一緒に住んでいた。そうして戦後まで生きていたが、それがよかったかどうかはよくわからない。農地改革でトジョウの土地を接収されて、「これじゃ、ご先祖にあわせる顔がない」と言いながら死んでいったそうだ。幕末の混乱から文明開化、震災や疫病、空襲、そして占領まで経験した、ちょっと想像できないくらいの変化に富んだ時代を生きた人であった。

おハツさんには叔父さんもいて、やはり二本松出身のタマキという家に養子に入ったのでタマキのじいちゃんと呼ばれていた。タマキは藩にとって大事な家であったが、後継ぎがいなくなって家が断絶しそうになった。それで、二本松の殿様の斡旋で、格下であった母の家から養子を出したのだった。だが、おハツさんの父である兄は戊辰戦争で戦死しまう。だから、郡山の開墾に入ったときに養家だけでなく生家まで含めて二軒分奮闘した人である。

そのじいちゃんも長生きしたらしくて、1940年に『二本松少年隊』という松竹映画が公開されたときに、どうしても見に行きたいと言ってきかない。もう九十歳近い。そこで姪のおハツさんが映画館に連れて行った。

だが、スクリーンに二本松の殿様の奥方の姿が映ると、「奥方様!」と座席から土間に飛び降りて「だっぴらに」平伏する。観客も何ごとかとびっくりして見てる。姪が慌てて「じいちゃん、あれは奥方様じゃないのよ。女優さんよ」といっても、「それでもそっくりでございます」と頭をあげようとしない。

このタマキのじいちゃんは、実はかつては奥方のお世話をするお小姓を勤めた人であった。年齢的には少年隊に入ってもおかしくなかったらしいが、この役目のために戦死を免れたのである。武士の子であるが、本人はいたって臆病な人で、「いやあ、怖かったよ。刀なんてそう振り回せるもんじゃない」と戊辰戦争を振り返っていたそうだ。そして齢九十にして、映画のスクリーンでかつての同輩と奥方様に再会したのである。感慨深いなんて言葉じゃ言い足りないくらいの感慨があったろう。

時代的に言って、この映画は戦意高揚のために作られたものらしい。おクニのために散るのが美しい死に方であるという観念を兵隊にとられる若い人なんかに教え込もうとしたのだろう。賊軍がいつのまにか大和魂の模範とされたんである。

会津白虎隊と違って、この映画が上映される以前は、二本松少年隊はあまり世間に知られてなかった。白虎隊はたいして活躍もせず追いつめられて自決してしまうが、少年隊の方は最後まで戦いぬいて戦死した人が多かった。まだ中学生か高校生くらいの紅顔の少年たちであったが、それ故に純粋で無鉄砲でもあった。これがプロパガンダに利用された。

だが、映画の原作を書いた人は二本松の神主の息子であり、少年隊の悲劇を多くの人に知ってもらいたいという動機が主であったようだ。この人の妹が母の大叔母の養子の嫁になってる。

この大叔母はオクダのばあちゃんといって、やはり近所に一人で住んでいた。母の曽祖父の妹で、イェール大学教授で日米開戦の回避に尽力した朝河貫一のいとこに当たる。戦時中も母の家では朝河さんはどうしたかねえなどと噂をしていたらしいが、どうもこのオクダのばあちゃんが情報源らしい。

母の小学校(当時「国民学校」と改称された。母は国民学校に入学し卒業した唯一の世代に属する)の通学路の途中に家があったので、学校帰りに様子を見てくるように言い使っていた。ばあちゃんの方も母が来るのを楽しみにして、味ご飯なんかを炊いて待ってる。

この人は亭主を早く亡くして、子どももみな死んでしまったので、養子をとっていた。あまり優秀でないことが怨みであったらしくて、安積中学(旧制中学、現県立安積高校の前身。朝河貫一、高山樗牛などの母校)入試のときも「八十八番はオレだけだぞ」とえばっていたのが笑い話になって残っている。合格者数が90人くらいだからビリから数えた方が早いということをこう言ったのである。

それでも東北大学の医学部に行って、医者になって、名古屋に住んでいた。夏休みにはオクダのばあちゃんのところに孫を連れて帰省してくるのだが、日中戦争が深まり、日米の対立がのっぴきならなくなっていた1940年、突然ばあちゃんが名古屋に行きたいから連れてってくれ、と言い出した。「もう会えないような気がする」というのがその理由であった。虫の知らせである。

自分の姪に頼んでいるのかと思ったら、そうではなくその亭主、つまり母の祖父に連れてってもらいたいという。なんとなく不安であったらしい。祖父は仕方なしに同意するんだが、ばあさんと二人旅ではつまらないからとまだ幼い母(当時五歳)をいっしょに連れていくことにする。

母はおじいちゃん子であったらしいし、子どもにとっては初めての大旅行であったから、この旅のことはよほど強く印象に残っているようだ。当時は日中戦争が泥沼化していて、もう物資が不足はじめていた。砂糖が手に入らなくなって、東京でも菓子が売ってないのだが、名古屋にはまだ菓子があって大喜びしたとか、駅弁も品薄で、電車が停車すると祖父が急いで弁当を買いに走ってやっと手に入れた、そうして弁当を開けてみると、白いお米ではなくソバみたいなものが混じっていたとか、いろいろ細かいところまで覚えている。空襲で焼ける前の名古屋城にも上って、車が下の方に小さく見えたことも忘れがたい思い出らしい。

そしてばあさんを名古屋に残して、大阪と京都まで足を延ばした。大阪では宝塚に連れて行ってもらう約束であったが、行ってみたら休みであった。それでじいさんの趣味で人形浄瑠璃を見にいったのだが、これも休みであった。京都で泊まった旅館もまだ記憶に残っていて、それから何十年もたった後、京都を訪れたときに行ってみたらまだちゃんと建っていたという。

オクダのばあちゃんの「もう会えないかも」は、まさに虫の知らせであった。太平洋戦争が始まって帰省どころじゃなくなった。そしてばあさんは敗戦の年に郡山で息を引き取った。まだ郡山で空襲が始まる前で、まあ、空から爆弾が降って来る前でよかったね、などと家では言って慰め合ったらしい。

親が子に語り伝えてきた話とういのはこんなものらしい。たぶん、歪曲もあるし、えらい人も英雄も出てこないが、これも立派な日本の歴史である。とりとめのない文章だが、そろそろ母の記憶が怪しくなってきたので、今のうちに家の歴史を聴き取って書きのこしておかないと、と思って書いた。

ちょっと前まで人々は、子どもがその言葉遣いまで覚えてしまうくらいにこんな話を繰り返し、繰り返し語っていたのである。本とテレビに子どもの歴史教育を任せてしまったぼくらの世代とはだいぶん修養がちがう。どこかの本から抜き出したような話ばかりが増えたのと、ぼくらの世代には歴史がだいぶん遠い世界の話になったのは、きっとこれが一因でもある。そういう自分にも、もう語り継ぐ子がいない。こんなところにでも書き付けておくしかない。

(追記:母もうろ覚えなのだが、1940年にはもうおハツさんもタマキのじいちゃんもこの世にない。どうやら松竹映画以前にも二本松少年隊の映画が作られて、二人で見に行ったのはこれらしい。いろいろ調べたが何年の話だかはっきりしない。日本で映画が一般的になるのは1930年代だから、そう遠くない話だと思う。2020年6月15日)

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。