見出し画像

国際政治経済学講義ノート 5(現実主義ーリアリズム)

今回は第二部の第三講になります。前回はリベラリズムでしたが、今回はリアリズム(現実主義)の話です。配布したギルピンのテキストでは(経済)ナショナリズムと呼ばれているものです。時代によって「重商主義(マーカンタリズム)」「ネオ重商主義(ネオマーカンタリズム)」などとも呼ばれたりしています。

実践知としての現実主義

リベラリズムは学者や知識人の思想でインテリ臭いですが、リアリズムはむしろ政治の実践に携る人々の伝統から生まれてきたものです。米国の建国の父の一人であるアレクサンダー・ハミルトンやドイツの宰相ビスマルクなどが代表的な例です。「政治屋(politician)」ではなく statesman と呼ばれるような人びとですね。人気取りに汲々とする政治家ではなく、国家指導者としての自覚をもつ政治家のことです。思想としてはフリードリヒ・リストというドイツ人の学者が書いたものが日本を含む世界中で読まれましたが、このリストもまた熱烈な愛国者であり政治的な生臭さをもつ人でした。

画像1

Alexander Hamilton (1757-1804)

画像2

Otto von Bismarck (1815-1898)

ですから、リアリズムというのは理論的というよりは実践的な性格の強いものです。少し反知性主義的な色合いさえ帯びています。リアリズムにはリベラリズムがもつ理論的な洗練さも高尚な理想もあまりない。

にもかかわらず、国際関係論においてはこれがリベラリズムを凌駕するほど影響力があるのは、政治の実践で鍛えられた知恵を含むものだからでしょう。国際政治経済学においても同様のことが言えます。

ここで学ぶリアリズムというのは、こうした政治家たちが経験から学んだ暗黙知みたいなものを、後に学者が後知恵で理論化したものです。その過程で、勢い余ってリベラル理論に似たような自然主義的科学理論に仕立てあげてしまいました。それで学者好みなものにはなったのですが、古典的なリアリズムが本来持っていた「凄み」が失われてしまったようなところがあります。この講義では、この「凄み」の部分を特に強調してお話することにしたいと思います。

一つ名称に関してですが、現実主義というのは、必ずしも「現実」を忠実に再現した理論という意味ではありません。理論はやはり現実の忠実な縮図ではありません。芸術や文学にもリアリズムと呼ばれる派があって「写実主義」などと訳されるのですが、やはり作品である以上写真とはちがう。

国際関係論の「神話」として学史上決定的な意味をもつ三回の論争があります。その第一回目は、第一次世界大戦後に「現実主義」と「理想主義」が衝突し、現実主義が勝利して国際政治学が生まれたとされます。このとき「理想主義」と呼ばれたのが前回お話したリベラリズムの国際秩序観です。「神話」であるというのは、どうもこれも勝者が書いた歴史の一つであって、自由主義者は必ずしも理想ばかりを述べていたのではなかったということが指摘されるようになっています。

つまり、現実主義も自由主義も現実と渉り合います。何を現実と捉えるかが異なるわけです。そういう意味では現実主義者の見る「現実」も、ある特定の世界観というフィルターを通して得られたものです。第3回目の「なぜイズムを学ぶか」という講義で議論したことを思い出してください。そして、現実主義にもある種の理想があります。ただその理想が自由主義ほど壮大ではないという意味で「現実的」なわけです。

現実主義の基本理念

リアリズムの理論は、自由主義やマルクス主義と比較しても、それほど複雑なものではありません。むしろ国家指導者としての政治家にとっては常識の部類に入るようなものです。しかし、この単純な理論で国際政治のかなりの部分が説明されてしまう。そういう意味では優れた理論なわけです。その基本理念を個別に検討してみましょう。

1.国際システムはアナーキーである

リアリズムの出発点は国際システム(複数の主権国家から構成される総体をこう呼びます)は本質的にアナーキーという考えです。アナーキーは「無政府状態」と訳せるんですが、国際関係論においては「無秩序」という意味はありません。それはただ政府の不在を意味するだけで、一種の秩序と捉えられています。この講義ではそれを区別するために、あえて訳さずにカタカナ表記にしておきましょう。

このアナーキーという性質が国際政治を国内政治から分ける本質的差異です。国家には集権化された中央政府があり、一定の領土に均一の主権を有している。国際システムにはそうした中央政府が存在しない。であるから、同じ政治でも質的にちがう。

ここで前回のリベラリズムの話を思い出してください。社会・市場を中心に考えるリベラルにとっては、国内政治と国際政治には本質的な差異がありません。だからナショナルとインターナショナルの境界を相対化する傾向があります。それゆえにグローバル市場とか世界政府などという考えが容易に可能なわけです。

これに対して、リアリズムは国内政治と国際政治のあいだに本質的で越えがたい差異を見いだします。国際政治はどこまでいってもアナーキーであり、これは古代から現代まで変わらない本質であると見るわけです。より正確にいうと、いつの時代でもアナーキックな国際政治と呼べるような領域が必ずあるということです。いわば人類の宿命ですね。

ここで最初の講義でした国家の「領土性」という概念を思い出していただければと思います。グローバル市場や世界国家へのリベラルとリアリストの対照的な態度は、この領土性と関係しています。リアリストはこの領土性こそが国家の現実的な基礎、実質であると考えます。リベラルの方は、この領土性を権力の基盤としてはあまり重視しない。そういう違いが反映されています。

ちなみに、米国の国際政治学というのはリアリストの学問として生まれましたが、国際政治学とか国際政治経済学という分野が国内を対象とする政治学や政治経済学とは別に必要とされる、という主張の根拠もここにあります。第二回目の講義で国際政治経済学の「国際」の意味についてお話しましたが、あれも実はリアリスト的な「国際」観です。

2.自助が国際関係の原理である

それでは、国際システムには政府が無いのに、いったいどのようにして秩序が形成され維持されるんでしょうか。リアリストによれば、国際システムは自助のシステムです。国際政治には困ったときに助けに来てくれるおまわりさんがいない。悪い人を裁いてくれる司法制度がない。第一部でお話したように、おまわりさんとか司法官というのは国家のエージェントですから、国家ではない国際システムにそんなものがあるわけがないですね。

そうすると、各国は自衛しなければならない。他人に頼らずに自分で武装して警戒しないとならない。もしこれを怠るとどうなるか。より力の強い国に攻められたり脅されたりして服従を強要されるのは自己責任ですが、それにとどまりません。呑気に平和主義など唱えて警戒を怠る国があると、かえって戦争が起りやすくなる。弱い国を併呑してどんどん強くなる国が出現しますから、残りの国もまた脅威にさらされる。

それではアナーキーにおける平和とはどんな状態なんでしょう。それは国々の間で同盟関係が結ばれて、その同盟間のあいだで力の均衡が保たれているような状況です。どちらも大きな被害なしには攻撃できない。だから敢えて戦端を開かない。そのような状態のことです。リベラリズムのときにお話しした「均衡(equilibrium)」状態に近いもので、日本語では「勢力均衡( balance of power)」と呼ばれています。

このバランスが崩れると戦争が起りやすくなる。であるから、国々の指導者この均衡が保たれるように各国の動きを注視して慎重に敵味方を判別しないとならない。昨日の敵が今日の友になることを厭うてはならない。そういうことになります。

こうなると、国際システムにおける平和というのは恒常的な戦争状態における束の間の休戦みたいなものですね。リアリストはこれを避けがたい現実として受け入れるわけです。

であるから、アナーキックな国際政治では、軍事力を増強して戦争に備えるのは、むしろ義務となります。国民に対しても国際社会に対してもです。無能な政治家、時の世論におもねるような弱い政治家には任せておけないのが国際政治です。そういう意味では、平和主義(必ずしも平和自体ではないことに注意)というのは、かえって戦争を引き起こしかねない無責任なものとして忌まれることになります。

3.国家は富よりも権力を追求する(べきである)

国家は自衛しなければならない。ハリネズミのように武装しなければならない。何となれば、そうしなければアナーキックな国際システムでは生き残ることができない。となれば、国家のもっとも重要な目的は「権力」をできるかぎり自分の手中に収めることです。

ちなみにこの「権力」は power の訳語で、国際政治では「勢力」とか「力」と訳し分けることが多いのですが、ここでは国内政治との類推を容易にするためにあえて「権力」と訳しておきます。

第一回目の講義でお話したように、「他人・他国にそうでなければやらないようなことを強制する力」です。そんな国家権力の究極の拠り所は暴力でしたね。国際政治でもやはり軍事力というのが決定的な意味をもちます。もちろん軍事力以外の源泉もあるのですが、まずはこれがないと始まらない。リアリズムでは軍事力というものが重要な意味をもちます。

となると、国家の最重要の仕事とは軍事力の増強です。しかし、それには金がかかります。であるから、経済を振興しなければならない。

「銃かバターか」という言い方が英語にはあります。限られた資源を事力増強に用いるか経済成長のためにに用いるかというトレードオフの関係を意味する言いまわしです。リベラルの場合は躊躇なく「バター」と答えます。リアリストのばあいはどうでしょうか。おそらく答えは「銃もバターも」です。

だからといって、リアリストが軍事力と同じくらい国民(=消費者)の生活を重視するわけではありません。リアリストにとっては経済成長はあくまでも軍事的な目的を達成する手段です。であるからして、「銃かバターか」という二択自体がリアリストにはナンセンスな問いです。経済成長もまた国家の生き残り戦略の一環であり、権力追求に欠かせないものです。リアリズムにおいては経済と軍事、平時と有事のちがいは相対的なものにすぎません。

そうなると、市場というものはあくまでも国家の必要に服従しなければなりません。経済と政治は分離されませんが、経済より政治が優先されます。何よりも国家の存続というのが最優先の目的であって、個人や企業の自由というのはこの存続に資するかぎり、あるいは少なくとも害にならない限りにおいてしか許されません。

明治日本における「富国強兵」というスローガンが、おそらくこのリアリストのメンタリティをよく表している。兵を強くするために国を富ますわけです。

現実主義の経済政策

このような基本理念から、リアリスト特有の経済政策が出てきます。これをリベラリズムと比較しながら検討していきましょう。

1.国益が経済的効率を負かす

リベラルは限られた資源を配分するのに市場が最も効率的であるという理由で、自由貿易を擁護しました。しかし、リアリストはこれに反対します。国家にとっては世界全体の生産が最大になるかどうかは二の次です。大事なのは、自分の国の権力が他の国の権力と比較して増大するのか減少するのかです。

であるから、リアリストは自由貿易が最適な資源配分を行うか否かとは問いません。それが国益(=国家(国民ではない)の利益=権力の増強)にかなうか否かです。国益にかなうのであれば市場を自由化するかもしれませんが、そうでなければ行わないでしょう。

2.経済的協力より安全保障上の競争

そうなると、国家の意思決定が合理化されれば国際協力が進むというリベラルの想定は誤っています。国際システムがアナーキーであるかぎり、国家の最大の関心は富の増大ではなく「生き残り」です。生き残りをかけて互いにしのぎを削るわけです。

以下の写真は第一次世界大戦前の諷刺画ですが、このリアリストの国際政治観をうまく捉えています。

グラフィックス1

Source: http://theriskyshift.com/2012/06/geopolitics-future-world-stability/

リアリストの世界では、経済政策というのは政治と次元を異にする目的を追求するものではありません。言ってみれば、それは軍事力とは別の手段による戦争の継続です。

3.経済協力は稀で長続きしない

リアリストは、自由貿易においてはすべての国が裨益するのであるから、経済協力は合理的であるというリベラルの主張を批判します。国家にとって重要なのは絶対的な富の量ではなく相対的な権力の量です。つまり、他の国と比較して自分たちの権力がどれほどであるかという点です。ですからたとえ経済協力によって自分たちの得る富が絶対的に増えるとしても、それが他国により大きな富を与えるのであれば、協力を拒むでしょう(「銃とバター」のように、リアリストにとって富は軍事力に転換可能なものです)。

もしそうであるならば、リベラルが考える以上に、国際政治においては経済協力は困難であるし、たとえ実現しても長続きしません。各国が相手を出し抜こうとしてズルをするインセンティブが高いですし、権力構造が変化すると容易に崩壊してしまうものです。

4.特化するな、自給自足を追求せよ

もし自由貿易が大国に富を簒奪されることであるならば、各国はある産品に特化せずに、なるべく自給自足を目指すことが国益にかなうことになります。特にリアリストは工業を重視しました。なぜならば軍事力は鉄鋼などの工業製品が不可欠です。鉄を他国からの輸入に頼っていては、いざ戦争になったときに銃弾や戦車が作れなくなってしまうかもしれません。

通常大国は競争力のある工業を有していて、工業製品を輸出し、原料を輸入します。これに付き合っていると、弱小国は安価な工業製品の流入によって国内の工業発展の基盤が崩されてしまいます。そうなれば、いつまでたっても原料を輸出して、加工品を輸入するという不利な立場から脱却できません。であるから、たとえ安価な工業製品に高い関税をかけてでも、国内産業を保護育成することが国益であるということになります。質の悪い製品を高い値段で買わされる国民(=消費者)は損をしますが、国家の存続のためにはそれは二次的な問題だとリアリストは考えます。

もちろん、今日の世界では現実には完全な自給自足は不可能です。しかし、工業、今日ではハイテク産業など戦略的に重要な産業をいかに自国で育成するかというのがリアリストにとって非常な関心事でありつづけています。今日の国際的な経済競争の一つは、この戦略的産業の配置に関わるものです。

リベラル国際経済秩序批判

しかし国家が自国の利益だけを追求するなかで、いかにしてリベラルな国際経済秩序が出来上がったんでしょう。リアリズムはこの点をどのように説明するんでしょう。

リアリズムにおいて経済政策は権力追求の手段です。自由貿易を促進する政策もまたそうです。一般的に自由貿易体制は経済的にもっとも発展した国にとって有利である。だから、経済先進国は自由貿易を促進することによって、富を他国から自国に移転することができる。それが19世紀の英国、20世紀の米国がやったことである。これがリアリズムのリベラルな国際経済秩序批判です。リベラリズムが英国という工業化先発国、リアリズムがドイツやかつて米国など後発国から芽生えてきたのは偶然ではないんですね。日本や中国でもリアリズムの方がリベラリズムより影響が大きい。

もうお気づきかと思いますが、リアリズムの国際経済秩序観は第二回目の講義で紹介した覇権安定論と密接な関係があります。覇権国というのはほぼ例外なく経済大国でもある。大国が自由貿易を促進するのは、何を隠そう自分たちの国益のためであって、人類の福利厚生のためではない。であるから、覇権国の優位が揺らいだときにリベラルな国際経済秩序が見捨てられるのも当然である。その意味では、トランプ政権の誕生もリベラリズムよりリアリズムの方がうまく説明できるかもしれません。

ですから、リベラルとちがって、リアリストは国際貿易とかグローバル市場が自生的であるとは考えません。それは大国の権力によって創造され、他の国の強制されるものです。グローバル化というのは、自由な諸国家の合意ではなく覇権国の権力による強制の産物と考えるわけですから、この国家間の権力配分の変化しだいで、グローバル化が促進されたり停滞したりします。

*****

これがリアリズムの国際経済観の概要です。同じ現象を対象としても、リベラリズムとリアリズムではこんなにも見えるものがちがう。であるから、そこから導き出される政策提言も正反対のものになる。私たちの認識におけるイズムの影響力の大きさを感じとっていただけたんではないでしょうか。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。