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言論の正味の力

ここ数年間、自分の生活はあまり変わり映えしないんですが、昨年ひとつ変わったことといえば、SNS 活動への自分の興味は低下の一途を辿っていて、よほどのことがないともう覗く気がなくなっていることです。以前からほとんど一方的に発信するだけの状態だったんですが、今では発信もすっかり億劫になってしまいました。

noteも始めた頃は毎日、その後はあんまり多すぎても読者がついてこれないかなと思って三日に一回くらいにしたんですが、ともかく毎日のように考えてた。昨年は年間33記事という勘定らしいですから、一週間に一回も書けてません。しかも、なんの準備もせずに書くことが多くなったし、書いたとしても書きっぱなしで、どんな風に受けとられたかをあまり気にしなくなってしまいました。

このまま放っておくとますます足が遠のきそうですから、年も明けたことだし、何か執筆における今年の抱負みたいなものを述べておこうと思ったのですが、なにせすでに半分隠遁を強いられた身です。すぼんでいくしかない人生の尻でありますから、悪いことでなければ大きな変化を期待することができません。

だけども、そんなことばかり言ってても仕方ないので、一つ希望のある話を無理にでもでっち上げてみようかと思います。

無理もない話ですが、自分のするような話に喜んで耳を貸してくれるような人は多くありません。ですが、note ではおかげさまで数百人のフォロワー数があります(とは言っても、たぶん幽霊アカウントなどで水増しされてるんですが)。年末に note から送っていただいた「まとめ」によりますと、閲覧数総数は2.2万回(昨年だけではなくて今までに書かれた記事を含むんですが)、スキされた数は359回だそうです。分母も比較の対象も不明ですから、この数字をどう評価すべきなのかはわからんのですが、まあ無名の書き手としては恵まれた方ではないかと思います。

閲覧数に対してスキの数が少ないんですが(0.2%以下)、観察していると、一般に批評系の文章にはあまりスキはつかないようですから、自分だけの不幸ではないようです。それが必ずしも無視ではないことは、毎回三、四百、多いときは千以上の閲覧があることからも知れます。すべてが一見さんではないでしょうから、スキをしてくれないまでも定期的に読んでくれる読者がかなりおられるんじゃないかと思います。

だけども、そうであるなら、ある疑問が生じてきます。自分の書いた文章を読み続けてくれる人は、いったいどのような理由で読んでくれているのでしょうか。

ひとがわざわざ面倒な長文を読む理由はいろいろあるでしょうが、私の場合には、ないものづくしです。自分ように無名の者が書くものが話題になることはないですから、流行を追う役には立たない。美貌も名声も欠いた人間ですから、お近づきになりたいとも思われない。金も権力もないから、おだてたって何も出てこない。読んで得するような情報もないし、生活をより快適で便利にするような小知恵も含まれてない。それでも読んで気持がよくなるなら赦されるかもしれませんが、そもそも不快な気分にさせられるものが少なくない。

そうやって無いものを差し引いていくと、何が残るか。それは、正味の言論の力とでも言えるようなものでないかと思います。別に読んで得をするわけではない、かえって耳を貸すと面倒なことになりかねない、それでも何か無視しえない、否定しえない力がある。別に受けいれることを他人に強いられるわけではないんですが、自分の理性なり知性がそこに力を感じとってしまう。ハーバーマスが謂うところの「強制されない力 unforced force」のようなものです。

まあ言論と言っても、私の場合は人に読まれたいがために文章にも色気を出そうといろいろ工夫してるつもりなんですが、なにせ客に頭を下げたことのない武士の商法ですから、あまり効果が上がっているようには見えません。ですから、読んでくださる方々は、私の下手な修辞や小細工なんかよりも言論の力を感じておられるんではないか。希望的観測に過ぎないんですが、そういうことを考えております。

ということは、まったく無名の人物が書き散らす、個人としては何の得にもならないような文章を、そこに何らかの真なるものが隠れてるかもと判断して、それだけの理由で読んでくださる理性的、知性的な人びとが、この世の中には欠けてはいないということになります。

まああてにならない話なんですが、仮にそういうことであれば、じゃあ、そういう人びとはどれくらいおられるのか。そういう話になるかと思います。この点に関してはおそらく note は少し特殊で、初期にプロモートして頂いて閾値を超えたという以外に、長い文章を愛する人たちの比率が大きいんではないかと思います。

他に自分が定期的にやっている SNS (ツイッターと読書メーター)と比較しますと、そこではフォロワーは90人前後です。偶然かもしれませんが、どういうわけか何年続けてもそれ以上にも増えませんが、それ以下にもなりません。これも分母の数が不明だから大きいのか小さいのか言えないんですが、ネットにおいて言論の正味の力で勝負しようと思ったら、まあこれくらいから始めないとならない。そういう目途にはなるのかななどと感じています。

こんなものはみな希望的観測でして大した根拠はないんですが、昨年一つ自分が気づいたのはこういうことです。自分のツイッター(今はXって呼ぶようですが、なんだかわかりにくいのでツイッターにしときます)のタイムラインには、どういうわけか性犯罪に関するツイート、リツイートが多い。なんでなんだろうと思っていたんですが、調べてみると、相互にフォローしている方々のなかに性犯罪を憎む方々が多いんですね。

犯罪を憎むことにかけては私も人後に落ちないつもりなんですが、性の問題に関しては、そういう方々の神経を逆なでするようなことを言い続けています。それにもかかわらず、フォローを続けけて下さる方々が結構おられる。

多くはフォローしたままそのままになっているだけかもしれませんし、あるいはこいつは要注意人物だとマークされているんですが、小物だから見逃していただいてるのかもしれません。だけども、ひとつには、こいつの言うことは気に入らないが、何か聞くべきものが含まれてる。そういう風に受けとってもらえているのかもしれないな、と自惚れる誘惑を感じなくもない。

実は、自分にとって性の問題は、かつては軽くあしらうか、あるいは見てみぬふりをすべきものでしたが、性を重視する方々にとっては、そういう態度こそがいちばん赦せない。自分もツイッターなどでそういう話を繰り返し聞かされて、うんざりもしたんですが、少し自分を反省させられました。それであのような文章を書くに至ったわけです。言ってみれば、自分の苦手な性の問題に、逃げずに真面目にとり組んだわけであります。そこが評価されているんではないかな、と希望的な観測を抱いているわけであります。

と言っても、自分の発言が巷で行われてる議論に一石を投じた様子はありませんから、どこまで自分の言論が力を発揮しているかは怪しい話であります。ただ、こういう種を蒔いておくと、自分が知らないところでいつかは芽を吹いたりするんではないか。そういう希望を抱かせてもらっても、お叱りを受けることはないんではないかと思います。

むろん、そのためにはまずは自分の言論をもっと磨かなくてはなりません。だけども、そういう努力を惜しまず行うためには、「いかに絶望的に見えても、言論はまったく無力なのではない」ということが信じられなければなりません。

この信仰を支えるために、たとえ100人足らずであっても、そういう人びとがいるという事実はたいへん心強いものであります。そして、もう知り合った人びと以外にも、目にとめてさえいただければ言論の力を認められる人びとがもっといる。これを信じられるかぎり信じて、話を聞いてくれる人を少しでも増やし、そしてゆくゆくは互いに気兼ねをしないで会話や対話ができる友が一人でも持てるように、今年もまたやっていこうかなと、そのように考えてみたわけでございます。

#note書き初め

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。