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十月のアジサイ(猫のつぶやき)

吾輩の散歩道にアジサイがたくさん植えられた丘がある。先日、散歩しながらひょいと脇を見ると、ピンク色のアジサイの花が一朶(と呼ぶのだろうか)だけきれいに咲いておる。

はて、十月にもアジサイが咲くのかしらん、と怪訝に思って帰って調べてみたら、9月頃まで花を咲かせるアジサイもあるらしい。だが、その丘一面を覆うアジサイの木のうち、咲いているのはひとつだけである。そういう働きものの品種でもなさそうである。

ははあ、十月になってもぬくいから、騙された奴がいるんだな、アジサイにもずいぶんぼんやりした奴がいるもんだ。そう思って、翌日はもう少し気をつけて観察してみたら、ほかにも騙された奴がいる。小さく蕾をつけてるものがいくつかある。咲き切らないうちに急に寒くなって、枯れてしまったようなものもある。寒暖目まぐるしく上下する天候に翻弄されたのは、どうやら猫や人間だけでないらしい。

季節外れの陽気や多雨に花が「騙された」とか「翻弄される」という言い方をしたくなるのであるが、実は花は暦などは知らぬから、騙されようがない。気温や雨量など客観的な条件さえ揃えば、六月だろうが十月だろうが花を咲かせようとするのがアジサイの本性である。

ぬくい土地ではアサガオも年に二度花を咲かす。それでアサガオがアサガオでなくなってしまうこともない。果たして南の方ではアジサイもそうであるかは寡聞にして知らぬが、このまま温暖化が進めば、ここらへんで十月にアジサイの花を見るのもそう珍しいとは思わなくなる日も来るのかもしれない。

アジサイといえば梅雨の季節の風物であり、体験するより先に言葉で物事を覚えがちな今日では、「十月に咲くアジサイ」などといっても、多くの人にとっては形容矛盾にしか聞こえない。昨年の今ごろに話をした「サクラの紅葉」と同じである。「十月」と「アジサイ」という現実にはつながらないものが、言葉の上だけで形式的につなげられただけであると考える人が多いだろう。

だが、「十月に咲くアジサイ」は不可能ではない。非現実的な幻想ではない。現実に存在しうるし、現に存在することを吾輩が確認した。ただ、客観的な条件が揃いにくいので、なかなかお目にかかれない。ひょっとすると地球の温暖化がここまで進んではじめて、普通に目にできるようになったのかもしれない。

だからといって、温暖化以前には「十月に咲くアジサイ」は「羽の生えたライオン」と同じくらいありえない幻想であったと言うのは正しくない。たとえ実際にお目にかかれなくても、可能性としてはずっと存在していた。なんとなれば、外的要因さえ整えばいつでも花を咲かせようという勢力がアジサイのなかに潜んでいて、これは温暖化前も後も変わりはない。温室でこの条件を整えてやれば、十月でもアジサイは咲いたであろう。

哲学者であれば、客観的可能性とか実在的可能性とでも呼んだであろうものが「十月に咲くアジサイ」である。「羽の生えたライオン」もそのうち人間の技術によって可能になるかもしれないが、それとはちと違う。こちらは人間が手を加えずとも、所与としての自然にそうしたものを産み出す力が備わっているのである。

この力は目には見えないが、頭のなかにしかないものという意味での「主観」とはちがう。神無月だろうが師走だろうが、オレが咲かせたいときに花は咲くんだ、という意味での意志はアジサイはもたない。植物には意識がないということになっているから、咲きたいと思って咲くわけではない。機械のように自動的に環境に反応しているだけである。

だが、盲目的にそうするわけではなく、気温や天候などを知覚するセンサーみたいなものを具えている。ということは、人間の知覚に相当するものがある。そうして花を咲かすか否かの判断がある。判断などというとあまりに擬人化しすぎかもしれないが、すべての株ではなく少数の株だけが花を咲かせたわけだから、咲こうか咲くまいかという決定がどこかで行なわれておる。

十月がまだ十分に温暖多雨でないからこの境界線をまたぐアジサイの株が少ない。だが、今後もどんどんと平均気温が上がっていけば、少数の勇気あるコロンブスだけではなく、みいちゃんもはあちゃんもみな花を咲かすようになる。それでも頑固に昔かたぎを守って花を咲かさぬものに、卵の立て方を教えてやろうとする者まで現われるにちがいない。

アジサイには、条件さえ整えば花を咲かせようとする潜勢力がある。そう書いたが、それは生命力とでも呼べるものである。花は植物の生殖器官であるから、生命を再生産するという必要と関連している。当然のことながら、人間にもこれがある。植物などとちがうのは、人間はそれを多かれ少なかれ意識しているという点である。これが人間の主張であるが、われら猫族から見るとちょっと怪しい。

意識された生命力の必要は「欲求」とか「願望」と呼ばれるようになる。この意味で人間は欲求や願望の動物である。欲求のほうは生理学的、本能的なものから心理学的なものまでたくさんあるが、願望のほうはもう少し文学的な処理、つまり意識における複雑な反省を経ておる。酒池肉林のハーレムをもちたいとか白馬の王子さまが求婚者として現われてほしいとか、下衆なものや俗っぽいものでさえ、ちょっと詩的である。こんなのが人間にとって花を咲かせる力の現われである。

願望はひとそれぞれであるが、昔から多くの人が抱いている願望もある。何もせずに食って寝るだけで楽に暮らしていけるような世界を望む者もいるにはいたが、これはいくら何でも「羽の生えたライオン」に近いと思う者が多かった。だが、真面目に生きようとする者が食うものにも着るものにも住むところにも困らないような世界というのは、必ずしも幻想とは言えない。それは今ここにはまだないかもしれないが、条件さえ揃えば可能であるかもしれない。

古今東西の伝承なんかを読み解いてみると、そういう希望を多くの人は抱いていたらしい。このユートピア願望については、吾輩の調べたところがマガジンにまとめられておる。


人間は客観的条件が揃わなくとも、意志の力で花を咲かそうと無茶をする。主観の力で客観を乗り越えようとする。それを妄想にとらわれてるとか理想主義とかいって笑う者が大多数なのだが、人間が植物や動物と異なって「物」でないのも、この点であるということになっておる。季節外れの花を咲かして枯らしてしまうのが大多数だが、主観的条件に見合った客観的条件が整うにしたがって成功率も上がる。そうやって、人間は客観的条件に適応する以上の歴史を刻むことになった。そう人間は威張っておる。

つまり、動植物とちがって、人間は自然環境に適応するだけではない。その環境を自分の意志によって作り変えるだけの力を有している、と主張しておる。

だが、そのようには己惚れていても人間もやはり動物である。自分の意志を明晰に意識し、しかもそれを貫徹できる者の数はそうは多くない。意識が高かろうが低かろうが、平均すればやっぱり意志が客観的条件に左右される点では、動植物と大差はない。人間の行動をビッグ・データにして人工知能に解析させてみれば、計ったように規則正しく正規分布する。人間が己惚れるほど、人間さま固有の思考という奴は実際の行動に影響を与えておらぬ。頭を使ってるつもりで、実はあまり役に立ってもおらぬ。

だからといって、人間もまた時と場所を越えた普遍的人間性に基づいて生きておるとは言われない。われら猫族は、自らに忠実であることによって類としての本質にも忠実たることができる。人間の場合はこれが怪しい。みんなが同じような行動をとるのは、本性のせいではなく群れの力であるところが大きい。周囲を見回してみて、みんながやっているようにやらないと気がすまない。われら猫族にはいかにも珍妙な習性である。

であるから、群れが悪くなれば、ひとはどこまでも堕ちる。堕ちたあげくに「心の欲するところに従えども矩を踰えず」などと気取って見せてるが、要するに歳をとるまではそういう境地には到達できないのが人間である。猫などは生後一年もすれば猫としての道理をみな弁えてる。自分自身に忠実でありながら、かつ猫としての矩からも外れないのだから、それ以上よくもなれないかもしれないが悪くもなれない。どっちがえらいんだかわかりゃしない。

だからひとをよくするためには、ひとりふたりが修養を積んだところでおぼつかない。群れ自体をよくする方策を立てねばならない。正規分布の山の頂きごと引き上げてやらないとならない。人間が教育などという事業のために人生に一度しかない青春を無駄にするのも、このためであろう。ところが、この教育という奴も群の平均を引き上げるよりは、群の平均に上にいる奴を引きずり下ろす効果の方がまるで大きい。人目が何より気になる人間にとって、群れの力とはさほどに強い。

要するに、少数の尊敬すべき模範よりは多数の凡庸な同類に同化したいと願うのが人間である。これがゆえに、人間性というのは猫性とかアジサイ性とかいうものよりも、ずっと頼りにならない。そのときどきに大勢の心をつかんだ気まぐれに引きずられて右往左往する。それを歴史と呼んで得意がっておる。

だが、ここに吾輩が理解に苦しむ一点がある。人間は自然環境に対して強大な支配力を獲得した。それにも関わらず、自分の願望をかなえるための客観的条件を変える自信を失って悩んでおる。もし宝くじが当たったらこうするのになあ、ヨ党とヤ党を取り換えればすべてよくなるのになあ、などというけちくさい希望的観測で自分をごまかすことくらいしかしない。

山があれば削って平らにして住宅地にしてしまう。川があれば橋をかけて、堤防で囲って溢れないようにしてしまう。病気が蔓延すれば薬を開発して治してしまう。海があれば船やら飛行機やらを作って、向うの大陸に渡ってしまう。これは意図されたのでも望ましい結果でもないが、十月を初夏のように暖かくしてしまうこともできる。ちょっとアジサイの諸君にはまねできない芸当である。

そうやって人間は多くの願望を満足させてきた。それなのに、一個人の目から眺めると、花を咲かせることがますます難しくなっているように思える。(自分らしく)生きたいのに生きれない、などと猫には意味不明のことを抜かすひとが増えておる。意志の力では変えられないほどの鞏固な客観的条件が、主観的条件自体を無に帰してしまうようである。何を望もうとも、それが得られるか否かは環境に適応する能力以外には頼れるものがない。そういうふうに感じられているらしい。

要するに、人類の強力とその構成員たる個人の無力という逆説である。これが最近の吾輩の頭脳を悩ましておる。余計なお世話ながら卑見を述べさせてもらうと、ひとは自分の願望を語るときにひとつ忘れがちなことがある。今日において、ひとの願望の壁になるのは自然環境ではなく社会である。人間関係である。

自然に対する支配力を高めるためには、科学技術だけでは足りない。それを社会の実用に供するための社会組織が必要である。iPhoneでも原発でも、ひとりやふたりの天才だけでは産み出せない。大学から官僚国家や近代的市場、株式会社までよほどの社会組織を必要とする。そして、そうした組織を維持するためにまた別の組織も必要になる。そのうちに社会全体が一塊のまとまった組織と化していって、逃げたくても逃げ場がなくなる。

組織である以上、それは個人を縛る。多くの願望を満たすために科学技術を動員すれば、その分個人の選択肢は減じる。安価で質の良いものを多くもとう、世の中をもっと便利で快適なものにしようと欲すれば、その分面倒な組織が必要になって、組織が強力になった分だけひとが不自由になる。

ひとが季節外れの花を咲かそうと決意したときにぶち当たる「客観的条件」とは、気温や天候といった自然条件ではなく、たいがいはこの社会組織である。新しく生れた者を社会に統合していく人間関係である。しかし、人間はこれを人と人との関係というより、こちらの訴えに沈黙で応える壁、つまり第二の自然として捉えている。

この壁に慣れてしまったひとは、「十月に咲くアジサイ」を幻想として笑う。アジサイは六月にしか咲かないもので、「しかたない」とか「これ以外にどうしようもない」という決まり文句で他の可能性を葬り去ろうとする。そこにはまだないけれども、条件さえ整えばありうる可能的存在をみな「羽の生えたライオン」にしてしまう。皮肉なことに、人類がその気になれば、羽の生えたライオンを作り出す力を得ているにもかかわらずである。

こんな勘違いが起こるのは、ひとは自分の願望の実現を邪魔する社会について不満を言うときに、他人にとっては自分自身がその壁の一部であることを忘れるからである。他人からの呼び掛けに耳を閉ざすその姿勢が、お互いを動かしがたい客観的条件、つまりあらゆる対話の試みをくじく壁というものにするということを、なるべく真面目に受けとらないように日々用心しておるからである(この対話というのも、われら猫族には無用な苦労である)。

それで自然環境よりも、人工的な環境の方が強固な壁として人間たちの前に立ちはだかる。それがかつての四季の移り変りのように安定した生の枠組みを提供してくれるならまだしも、この環境は最近の気候のように目まぐるしく変わる。みなが勝手に動いて他人を巻き込んでいくから、じっとしていても周囲が変わっていく。だから、ひともまたそれに適応することを強いられる。適応しえたものはきれいな花を咲かせるかもしれないが、また気候が変われば枯れ凋んでいく。

アジサイとちがって、こちらの場合は「騙された」とか「翻弄されてる」という言い方が不適当ではない。人間は妙なところには眼が開いておるくせに、肝心なところ、とくに自分たちでやっていることについては、植物よりも盲目であったりする動物である。

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