見出し画像

根拠のない知の根拠(ヒトを知るための学問の)

部分を知るには、全体を知ってることが前提になる。だが、全体を知るには、部分を知っていないとならない。目的地が同時に出発点でもあるから、どっからも始めようがない。別の謂い方をすると、あることの根拠を提供すべきものが、すでに前提として先取りされてしまっている。

なぜここでこんなことを書いてるか

のっけからわけのわからん話で恐縮だが、自分が知っていると思っていることをどういう風に知ったのだろう、といろいろと考えていると、こういう問題に出くわすことが多い。一般の知もそうなんであるが、厳密な学問においてもそうである。とくに人文諸学(ヒューマニティーズ)と呼ばれる分野では、この問題が避けて通れなさそうである。

最初に種を明かしておくと、このテーマは人文科学の方法論という自分の研究の一つの核である。こんな問題を考える余裕のある人は、世の中には多くない。学術雑誌や専門書にでも書いておきゃいいような話なんであるが、案外専門家はこんな話に興味を示さない。大学の講座があって、本屋の書棚に場所が確保されていて、自分がそれで飯を食えている。だから、自分のやってることにも何らかの根拠があるんだろう、と油断している。

しかし、そうしているうちに、人文諸学というものに対する一般の人々の懐疑が拡がってしまった。本当に人文諸学は厳密な意味での学問(広い意味での科学)たりうるのだろうか。それとも個人の好き勝手な解釈にすぎないのか。専門家がこうした疑問を払拭しかねている。

自分などは、人文科学をやっていて飯が食えてない。だから余計に、「すきっ腹を抱えながら、なぜそんなことに人生を費やすか」というのが切実な問いである。何らかの答えを見出して、専門家にかぎらず一般の人々の理解を得ずんば、とても生きていけない。

であるから、ここで想定されている読者というのは、専門家にかぎらない。誰でもいいのだが、特に人文諸学に期待することがあって、自分でも学びたいと思いながら、何となく頼りないものも感じている。そういう人々に読んでほしいと思っている。

年齢差別をするわけじゃないけど、社会に一定の地歩を得てしまうとやはりひとは保守的になる。いつの時代でも、新しい運動は青年に期待を寄せないとならない。そういうわけで、自分なども、まだ柔軟な精神をもつ若い世代に話しかけるようなつもりで書いている。

だから、専門用語などはなるべく避けて、あまり論文調にならないようにしようと思う。

知ることの循環論法

さて、冒頭の問題である。循環論法として一般に知られているような誤謬が、ぼくらの知を支えている。そういう事実がどうもある。

循環論法とは、こういうことである。Aという命題なり言葉がある。このAの根拠や定義としてBを持ち出す。そのBの根拠・定義にCを持ち出す。しかし、このCを説明するのにまたAを持ち出す。そういう理由付けのことである。

    A→B→C→A→B→C→A→B・・・

と永遠にぐるぐるとまわってるだけで、どこまで行っても底に辿り着かない。

だが、多くの知は、まさにこの循環論法のようなものにもとづく。全体を知るために部分を根拠として使い、しかしその部分を根拠として全体が知られている。こんなのを解釈学的循環などとよんだりするのであるが、とりあえず名前などはどうでもよろしい。

抽象論では分りにくいだろうから、具体例を一つ挙げてみる。人体というものがある。目とか腕とか指、あるいは血液とか肺とか視神経とか、いろいろな部分(パーツ)が集まって一つの人体を構成している。

このパーツが何であるかを理解するには、まず人体を知らないとならない。切り取られた肺とか神経だけしか見たことない人が、それが何であるかを知ることはできない。それを人体という全体のなかに置いてみてはじめて、何であるかを知ることができる。

しかし、そもそも人体を構成する部分(目、腕、指、血管、肺、神経など)を見たことがなければ、人体もまた十全には知ることがない。もちろん、外から見て人体を識別できるかもしれないが、その認識は知らない部分を欠いた不十分なものである。たとえば、神経の存在を知らない人の人体の表象には神経は含まれてないから、人体について十全に知ることはできない。

つまり、人体について知るためには、人体のパーツを知らないとならない。だが、それが人体のパーツであると知るためには、人体を知ってないとならない。どちらの定義や命題にも、すでに定義されるべき言葉や証明されるべき命題がすでに前提されてしまっている。

「人間」を知るとは

しかし、知りたいと思えば、どっちからでもまず始めてみないとならない。「人体」という概念を勉強してから、個々のパーツを見出していく。もしくは、個々のパーツを理解してから、人体の概念を組み立てていく。

そうやって往ったり来たりしながら、全体としての人体がどういうものであるか理解が深まっていく。そのうちに全体と部分の知識が相互補完するようになって、最初は見当違いであったような知識が、次第に精確なものになっていく。それしか方法がなさそうだし、実際にそうやってぼくらは人体に関する知識を得ている。何もこむずかしいことを言わなくてもよろしい。

しかし、話はそう簡単にいかないかもしれない。別の例を挙げてみよう。「人間」を知るとはいかなることであるか。「人間」を知る学問もまた、こうした循環論法から免れることができない(人間を知る学問については、以下リンク参照)。

人体であれば直観的に知覚されるのであるが、「人間」とか「人類」のような抽象概念になってしまうと、そういうわけにもいかない。誰も「人間」とか「人類」そのものを見た者はいない。見ているのは、個々の人々である。

「人間」を知るには、まず個々の個人を知らないとならない。しかし、「人間」とは何かをまず知ってないと、個々の現象を人間的なものとして認識できない。そんなことがあるもんか、誰でも人間を直観的に識別できる。そう思うのだが、それぞれに個性をもつ人間の特徴や行動のうち、どれを人間共通のものとして選りだすか、という問題がある。

たとえば、二本足で歩行するのが人間であるとすると、そうしないのは人間ではないのか。動物と異なり理性的なのが人間であるとすると、理性より感情に動かされているような人はより人間的ではないのか。

楽観的な人もいれば、悲観的な人もいる。繊細な人もいれば、鈍感な人もいる。知性的な人もいれば、活動的な人もいる。怒りっぽい人もいれば、鷹揚な人もいる。

ある人は腹いっぱい食えるかぎりは、生きる価値があると思う。また別の人は学芸のない世界でいきるくらいなら、死んだほうがマシだと考えてる。

ぼくらは人食や生贄、姥捨てや間引きなどを非人間的な行為とみなす。だけど、ぼくらの親々は必ずしもそうとは考えなかった。セクハラもそうだし、パワハラなんて概念もちょっと前までなかった。

これほど多様な人間のあり方のなかから、どれを「人間的なもの」として取り出すべきであるか、何か基準がないとならない。そうでないと、「人間」というのは、観察されるありとあらゆる現象を放り込むだけの器になってしまう。そうであれば、「人間」などというものを知る必要はない。あるのは個々の現象だけである。

であるから、まずは「人間」とはなにかという概念を知ってから、実在する個々の人間を見ていった方がよさそうである。そうしないと、人間のいろいろな性格や行動から、真に人間的なものを見出す基準が得られない。

しかし、この「人間」という概念はどこから出てくるか。高名な哲学者とか人類学者の書いた本を読めば書いてあるじゃないか。あるいは、もっと手軽にグーグル先生に尋ねてみればいい。そういう人もいる。だが、このエライ先生方は、そもそもどうやって「人間」を知ったのか。やっぱり、個々の人間の観察から導き出したのである。

根拠のない知

しかし、人体と同じく、人間について知りたいと思わなければ、どこからでもいいから、まずは始めてみないとならない。しかし、循環論法のようなものに基づいていることが、人間に関するぼくらの知の探求を条件づけている。このことは何を含意するのであるか。

これを説明するために、二つの譬喩にもとづくモデルを考えてみよう。知の体系というものは、通常は建築物のように基礎となる土台があると考えられている。この動かない基礎の上に、さらに何かが置かれ、その上にまた何かが重ねられる。

たとえば、公理(誰もが直観的に真であると認められる原理)から論理や計算によってさまざまな定理を導き、その定理からさらに真であるものを推論していく。最初の公理が確実に真であれば、論理的操作や計算が間違っていないかぎり、そこから導き出される定理もまた真である。

この土台が、体系全体の探求のための確実な地盤を提供してくれる。だから、上部を取り除いても基礎は影響を受けずに、まだ立っていられる。このような学問であれば、基礎がしっかりしているがために空に向かってそそり立つ、重厚な建物のような景観を呈するだろう。

ところが、われわれの知の大部分は、そのように確固とした土台の上には築かれていない。小難しい哲学の話なんか聞くとわかるように、突き詰めていくと怪しい前提の上に築かれた砂上の楼閣であったりする。だが、それでも当面の用には足りるし、生きていくためそうせざるをえない。つねに物事の根底まで突きつめようなんて考えたら、みんなで哲学してるうちに死んでしまう。

この一見いい加減な知の方法のモデルとして、建築物ではなく有機体の譬喩を用いることができる。解釈学的循環の例に人体を用いたのは、偶然ではない。建築物とちがって、有機体には基礎と上部構造というはっきりした区分はない。それぞれの部分が、始まりも終りもない連鎖をなして相互に規定し合う。

だが、不思議なことに、すべてのパーツは一つの目的のために一致して働いている。一つの全体を構成し維持するという目的のために。その代わり、基礎と上部構造の区別がはっきりしないから、どこを抜き取っても全体が壊れてしまう。有機体であれば死んだり、病気になったりする。たとえ壊れなくても、小さな部分が変化すれば、全体が変化しかねない。

このような学問は、重力に逆らって空に向かってそそり立つカテドラルのような重厚感はない。そういう脆い体系である。絶対的な根拠を持たない知であり、ほんの小さな発見が、知の体系全体を破壊したり大幅な修正を要求したりしかねない

ぼくらの知のかなりの部分は、実はこの後者の有機体モデルの方に近い。とくに、人間に関する知はそうなのである。すべての人が真であると認める公理などほとんどない。この種の知の探究に際して、堅固で安全な足場、絶対に不動の大地などないのである。しかし、それにもかかわらず、われわれは人間について探究し、何かを知っていると考えている。

自分がこんな七面倒くさい問題に逢着したのは、実は柳田国男を研究しているときであった。柳田民俗学の方法論に、この循環論法みたいなものが見られるのである。今回の話は、この話のするための準備運動みたいなものであるが、長くなるので次回に譲ろう。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。