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見えない世界・闇の力⑶――闇に覆われた社会

まだ読んでない人のために、前回までの日記のリンク。

あるアメリカの研究者の書いた柳田国男の本にThe Undiscovered Countryと題されたものがある。『未発見のクニ』、も少し厳密に訳せば『まだ覆いがとられていないクニ』ということになる(country は「国」だけではなく「田舎」も意味するから「クニ」とカナ書きにした。「おクニはどこ?」のクニである)。自分などはこの題名を見てうまいこと言ったなと思ったのである。柳田がやろうとしたことは、何か霧のようなもので覆われているクニを発見することであった。

などというと、コロンブスの新大陸発見の話のようであるが、もちろん柳田が発見しようとした国とは日本の地方や田舎のことである。そんなものならわざわざ発見しなくてもあることは先刻承知だ、という人もいるかもしれない。だが、そこに住む人々がどのように生きてきたかということは、文字としては記録に残っていないから知識化されていない。柳田自身の明らかに誇張した言い方によれば、当時の日本の地方などはアフリカの内陸以上に「暗黒」であった。そこには何か「覆い」がかかっていたのである。

だが、別に都会と田舎のあいだに物理的な敷居があるわけじゃない。この「覆い」はむしろ観察主体の方に属するものである。都会の人は、見ても仕方ないと思うのか、見たくないから見ないのか、見ようと思えば見えるものを、どういうわけか見ようとしなかった。柳田の仕事はこの覆いをとり除こうというものである。そうなると、研究の対象としての田舎とは別に、都会人の精神構造が彼の学問にとって重要な位置を占める。

もちろん、他人に見せようとする以上は、まず自分がその覆いをとり除かないとならない。柳田においては、「見えない世界」とか「闇の力」とったものに対するロマン主義的関心が、都会の文人たちには無視されていた世界に目を向けさせた。

『遠野物語』など、初期の柳田の文章においては、地方はまさに魑魅魍魎などが徘徊している世界として描き出されている。泉鏡花の幻想小説や水木しげるの妖怪マンガなどにも通じる、ちょっとおどろおどろしい世界である。『後狩詞記』や『石神問答』はそれほど幻想的でないが、未知の世界をのぞき込むというスリルがやはりある。そこには「未開」とか「野蛮」がもつ暗闇、文明の光によって照らされていない「深み」がもつ魅惑的な力がある。実証科学としての民俗学という枠からははみ出す何かがあるのである。民俗学の先駆的な研究であるというのは明らかに後知恵で無理がある。今日でも、『遠野物語』の読者の大半は、それを文学作品として読んでいるだろう。

柳田のように理知的なエリートが、なぜそんな世界に惹きつけられ、また今日も多くの聡明な読者(とあまり聡明でない自分)が柳田の仕事に惹きつけられるのか。そもそも近代文明を生きる人間が、その文明の外にあるものに好奇心を感じるのはなぜであるか。

実は、歴史において柳田のような存在は決して例外ではない。19世紀の西欧においては、「未開」「野蛮」などと形容されたの国内外の辺境の人々がメトロポリスで教育を受けた文人たちの好奇心をそそる対象となっている。民俗学や民族学・人類学といった学問が興隆し、そうした学問の最初の担い手は多くは文人たちでもあった。だから、柳田も民俗学・民族学という学問の輸入業者として、日本の「未開」に興味をもった文人の典型であるとすることができる。

だが、柳田の地方に対する関心は、恐らく民俗学・民族学との出会いに先立っている。それに、そもそも西欧の都会の文人たちが「未開」「野蛮」に魅せられたのはなぜであるのか。民俗学や民族学という学問はその結果であって原因ではない。

いろいろ調べてみると、「未開」「野蛮」への関心は18世紀のロマン主義にまで遡る。これはすでによく知られた事実である。人類学史では人類学の父祖としてルソーやヘルダーから始めるものもあるくらいで、何を今さらな話である。だが、自分が発見したのは、それは今まで認められている以上に屈折した関係であったということである。

ロマン主義というのは啓蒙思想に対する反動として18世紀末から19世紀にかけて興隆した。啓蒙思想は現代の合理主義の元祖みたいなものであり、ニュートンが発見したような普遍的な事物の本性というものが存在し、宇宙はそうした本性に従って統御されている機械のようなものであると考える。その本性は限られた数の原理の組み合わせによって余すことなく記述可能である。人間社会もそうした原理に従って統治されれば、貧困だろうが戦争だろうがすべての悪は消滅する。フランス革命とは、不自然なもの(王制、貴族、教会など)を取り除くことによって、国の制度を自然の摂理に則ったものにしようという試みであった。

具体例を一つ挙げれば、成文憲法というものがそうである。constitution という言葉は体格とか構成という意味である。これが政治的な意味に用いられると、今で言うところのレジーム、つまり階級構成などの社会構造を指す言葉であった。つまり、それは意識的に誰かに作られたものではなく、われわれの知らない力によって生成されてきたものであった。フランス革命の一つの革新は、この constitution を成文化することによって社会構造自体を意識的な操作の対象としたことである。いわゆる立憲主義というのは、この啓蒙思想の賜物なのでもある。

ロマン主義はこの合理主義的世界観に反発する。ロマン主義に特徴的な考えは「深み」というものである。事物は目に見える表面下に底知れぬ奥行きをもっている。宇宙の秘密は人間の知性が認識できる範囲を超えたところにある。それはまさに暗闇であり無意識であり、いかなる意味においても記述可能ではない。ただ象徴によって間接的かつ不完全に表現できるだけである。それは科学ではなく芸術の仕事である。

だから、社会においても、われわれの認識を超えたところにある暗い力がわれわれの運命を左右する。いくら悪を除去しようとしても悪はいくらでも奥深いところから蘇ってくる。いくら科学が進歩しようが、貧困も戦争もなくならない。むしろ科学を盲信するが故に、人間の生活がさらに悲惨なものになる。実際に、フランス革命は啓蒙思想家が予想したような社会を生み出しはしなかった。

「野蛮」「未開」に対する関心は、ここから生まれてくる。表面的に近代化した都市文明の基底に「野蛮」「未開」が残っている。開明的な人間の無意識の領域に処女を人身御供を捧げた未開人のようなおどろおどろしいものが潜んでいる。こうした闇の世界や民衆の無意識を理解することなしには、近代文明や近代人も理解できない。われわれの知る近代社会は氷山の一角であり、残りの10分の9は水面下の見えないところにあり、無意識の領域なのである。

今回でケリをつけようと思ったがまた長くなった。続きは次回にしよう。

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