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道徳に縛られてはいけない政治家の道徳性(マキャヴェリ『君主論』)

政治家の条件

『君主論』という小著は、後の政治思想に計り知れない影響力を及ぼした。別に哲学的なことは書いてない。権力のポルノグラフィーとしても、もっとどぎついものになれたぼくらには物足りない。だが、この今読むとなんてことないような小著によって、近代政治学は開始された。それまで従属させられていた道徳の領域から切り離されることによって。これを最初にやった天才がマキャヴェリである。それが今日の通説である。

どういうことかというと、政治は道徳とは別の領域であって、そこでは道徳上の要請は必ずしも当てはまらない。道徳的にふるまえればそれに越したことはないが、政治的な目的を達成するためには、反道徳的(immoral)なことも許される。というよりも、政治家は没道徳的(amoral)であらねばならない。つまり、道徳に反することを喜んでやれということではないが、要すればいつでも道徳を無視できる人間でなければならない。道徳的な外見を保ちながら反道徳的なことをやれれば、いちばんよろしい。

なぜなら、政治家は道徳家でも坊主でもない。法律家でさえない。まずは権力を維持するのが政治家たる条件である。道徳的にふるまおうとして、政治的な目的を達成できない政治家は、政治家としては無能である。そんな政治家に上に立たれると、統治される人びとも迷惑する。自分の権力を守れない権力者の国家は、内外からの攻撃に晒されて、外的な力の戯れに翻弄されるだけだからである。

こういう怪しからん思想を抱いた人であるから、マキャヴェリは政治に嘘や裏切りを赦す。暗殺や恐怖による支配も勧める。彼の『君主論』は、ときに「独裁者のハンドブック」と呼ばれるが、それも無理はない。不正な手段によって権力を獲得した新興の君主に、いかに権力を維持するかを助言する書なのである。

君主論というジャンルは当時確立されていたもので、一応この書もそのジャンルに属する。だが、普通の君主論はだいたい坊さんが書いたもので、君主に模範的なキリスト教徒、道徳の鏡となるように勧める内容であった。その同じ形式に、マキャヴェリはまったく正反対の内容を盛りこんだのである。

教会や一般社会の目を気にして、後進の政治哲学者たちは、彼の思想を悪魔的だとか犯罪的だとか、口では非難した。それで、権謀術数を厭わないような政治観は、彼の名を冠してマキャヴェリアンと形容され、その主義主張はマキャヴェリズムと呼ばれるようになる。だが、政治の自律性という彼の主張は、実質的には受け容れられることになった。政治を「こうあるべき」ではなく、あるがままの姿で捉え理解するような、術語を使っていえば、当為(あるべき)ではなく実在(ある)、意志ではなく認識の問題として政治を対象とするような政治学である。後の実証的な政治学者によって、この点が近代政治学の嚆矢として評価された。

道徳的目的と政治的手段

だが、同時に、政治には道徳は不要どころか邪魔であるというマキャヴェリズムに対する批判も、くり返し現われた。政治は道徳からは切り離せない。だから、道徳を切り離した政治学は政治の理解としては十全なものでありえない。そういう批判である。さらには、政治学自体の政治性、つまり、政治学者もまた政治の外に立っておらず、政治の渦中にいる以上、完全に客観的な政治学などというのはありえない、という批判が加わった。

マキャヴェリ後の近代政治学の古典(ホッブズ、ロック、ルソーなど)は、今日では規範的な理論として読まれるが、恐らく書いた当人はそうは思ってなかったし、当時の人びとにもそうは思われてなかった。政治の真理を科学的に解明しようとしたものと思われていた。それが実証的ではなく規範的な政治学であったというのは後知恵で、ひとつには政治学者もまた政治の外にいないということが広く認められた結果でもある。

しかし、政治は道徳と切り離せないということは、政治は道徳問題に還元されるということを意味しない。道徳が政治を左右するのと同時に、目的を達成する手段としての政治がまた、達成されるべき目的に影響せざるをえない。なんとなれば達成する手段がない目的は目的にならない。それは永遠に理想に留まる。これを認めたところにマキャヴェリの革新性があった。

マキャヴェリの政治

マキャヴェリが政治を(宗教)道徳から解放しようとしたのも、共和制の防衛という目的のためであった。彼は危機の時代のフィレンツェの外交官・軍事指導者であった。北イタリアの都市共和国は、外からはフランスやスペインなどの強大な王国、内からは独裁者の登場によって脅かされていた。ローマの教皇自身が一人の君主であり、他の君主たちと覇を競っていた。マキャヴェリは、こうした脅威から共和国の自治を守ろうとした。教皇自身が破るのを躊躇しないような道徳で自分の手を縛っていたら、この目的が達成できない。

この闘争に敗れたマキャヴェリは捕えられ、拷問を受け、政界から追放される。『君主論』は、自分を追放した独裁者のメディチ家に献上する書として書かれた。独裁者に取り入って、また政界に復帰しようとしたらしい。要するに、失業中の政治家浪人の就活という一面があった。だが、『ディスコルシ(ローマ史論)』で、マキャヴェリは独裁者へ行なったのと同じ助言を共和政支持者にも行なっている。だから、「没道徳たれ」という助言は、「非道徳でもいいんだよ」という単に独裁者に取り入るための方便とは考えにくい。

恐らくマキャヴェリは、政治家としての自分の苦い経験から、次のように考えるにいたったのである。政治には政治の目的と手段がある。政治の可能性を解き放つためには、道徳から政治を解放しなければならない。結果的には、これが権力闘争という自立的な政治的領域の独立宣言と見なされるようになった。しかし、マキャヴェリにおいては、権力闘争はまた自治という大きな目的に従属させられている。権力闘争自体は目的にはならないのである。だから『君主論』は、何か大きな大義のために、独裁者の権力を利用しようした不誠実な書としても読める。

では、この政治の領域における究極の目的とは何であるか。文字通りに読めば、フィレンツェのような都市国家の独立と自治であったが、領域国家、そして後の国民国家との競争に敗れて、都市国家は今日ではもはや存在していないし、われわれはそれを大して惜しいとも思っていない。マキャヴェリに外国人によるイタリア支配をくつがえそうとするナショナリズムを読み込む解釈もあるが、さすがにちと時代錯誤的である。

では、いわゆるマキャヴェリズム以外には、政治について今日われわれが彼から学ぶようなことはとは、何もないのであろうか。

マキャヴェリは実際的な人であったので、彼自身は政治の究極目的などという抽象論には携わっていない。だが、彼の生きた時代に自らを置いてみると、次のような解釈が可能になってくる。共和国というのは政治共同体である。人びとが自らを治めているという意味で、自由である。そして、古代ギリシア以来、政治と自由は切り離せない。後に大帝国の勃興により、政治はより行政に近くなり、この政治と自由のつながりが見失われたが、ルネサンス期には、再び古代への関心が高まった。マキャヴェリもまた、ルネサンス期に生きた文人の一人であった。つまり、彼にとっては、共和国を守ることが自由を守ることであった。そういう解釈もできる。

マキャヴェリから何を学べるか

自由のために政治というものがある。であるから、政治において道徳は自由のために犠牲にされなければならないことがある。これがわれわれの耳には意外に響く。今日では、政治はかえって、自由を束縛するものに感じられる。以前にどこかで書いたが、マキャヴェリにとっての自由は、現代人が理解する個人の自由とはかなり異なるからである。だがおそらく、政治と道徳の関係に関する相違も、この違和感に一役買っている。

人が共に生きるためには、きちんと定められたルールがいる。共同生活がもたらす恩恵のために、個人の自由は犠牲にされなければならない。政治共同体とはそういうものである。そして、道徳とはこの共同生活の要請から出てくるものであるから、自由を排して政治と道徳が同盟を結ぶ。そうわれわれは思いがちである。だから、マキャヴェリの「没道徳的たれ」という助言が、かえって反政治的に聞こえる。

だがしかし、政治が人間的な現象であるかぎり、政治に携わる人々もまた道徳的な動機(狭い意味での倫理的というのみならず、自然的ではなく精神的・文化的なものという意味で)をもつ。それを外から観察する者もまた、道徳的な動機からそうする。われわれとちがって、古代の人はそこに自由を見出した。そしてこの古代の自由観が、マキャヴェリからアーレントといった近現代思想家の政治観にも受け継がれている。

そうであれば、「政治がこうあるべきなのにそうなってない」ように見えるのは、必ずしも政治的なものと道徳的なものがぶつかってるからではない。二つの道徳的なものがぶつかってる。道徳的であるから、利害の政治とちがって妥協が成立しにくい。この道徳的な差異が社会を友と敵に二分しかねないから、カール・シュミット的な意味での政治に近くなる。

しかし、われわれはまだそうした二重の反省のずっと手前にいる。かえってマキャヴェリズムを無批判に受け容れてしまったがために、政治というものが反・没道徳的なものとして見られるようになった。その反動として、政治をまた道徳に還元しようという運動が生じる。だが、マキャヴェリを精読すれば、マキャヴェリズムとはちがうマキャヴェリの解釈も可能だ。そういう解釈のし直しは学者の仕事だが、彼らがそうするのも時代の政治の外に立っているからではないはずだ。

政治学には「平時の政治学」と「非常時の政治学」がある、といわれることがある。マキャヴェリは典型的に後者の例で、危機の時代に生まれた政治学である。平和な時代には目だたない政治の本質が、危機に際してこそ浮上してきて、人びとに問いを突きつける。であるから、マキャヴェリの思想もまた、危機の時代に何度でも引っぱり出されてきた。それがこの小著を古典にした。

こんな話も、大学の政治思想入門講座かなんかでするような類のものである(実際に、自分がアメリカでやってた講義を短くしたものである)。教室の外ではなんの役に立ちそうもない。ふつうは古典などというものは本棚に並べといて適当に褒めてればいいんだが、これが読書人サークルの外に持ち出されるときは、ほぼ必ず何か政治的な動機が絡んでいる。自分が今こんなところでこんなマキャヴェリ解釈を紹介するのも、突き詰めれば政治的な動機からである。どんな動機かはみなさんの読解力にお任せしたほうがよいだろうが、ひとことだけ付け加えておく。日本でも『君主論』が古典として広く読まれているにもかかわらず、われわれの目前に展開される政治について語るときに、その教養がほとんど生かされてない。マキャヴェリにかぎった話ではないが、それがもったいないなとつね日頃感じてる。

ヘッダー画像: Portrait of Machiavelli by Santi di Tito - Cropped and enhanced from a book cover found on Google Images., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9578897

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。