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愛される自信のない国(日韓関係考)

韓国の木浦という街の近代歴史館を訪れたことがある。展示の内容は大方忘れてしまったのだが、建物の方はまだ印象に残っている。一つは東洋拓殖会社木浦支店、もう一つは日本領事館の建物であったものである。どちらも横浜にでも見られそうな洋風建築である。

「木浦近代歴史館1館」 https://www.mokpo.go.kr/tourjp/attraction/museum/historymuseum_hall1

「木浦近代歴史館2館」 https://www.mokpo.go.kr/tourjp/attraction/museum/historymuseum_hall2

自分の怪しい記憶だと蓄音機などレトロな品々も置いてあったんだが、韓国において「近代歴史」というのは「植民地時代」の符合らしく、中には日本の朝鮮支配の非道な行為を示す展示がある。日本人にとってはちょっと非難されているような気になって居心地が悪いかもしれない。

だが、自分はここを訪れたとき、あることに気づいた。韓国人にとっての「日本」というのは、われわれ日本人や欧米人の「日本」と違う。それはサムライでも芸者でも相撲でも和の心でもない。何よりもこの洋風建築や蓄音機、近代的都市などが「日本」を象徴する。要するに、日本人であれば「西洋」と結びつける「近代」の文化表象が、韓国では「日本」に結びつけられている。

そして、それが植民地支配としてやってきた以上、われわれが「西洋」とか「近代」に抱く愛憎に似たものをまた、韓国人も「日本」がもたらした「近代」に対して抱いている。確かに合理的で便利で立派でもあるから自分たちの文化にも組み込まれているのだが、同時に他者に押しつけられたものであるという気持もある。

旧宗主国への愛と憎しみ

自分は前から思っているのだが、韓国人ほど日本を憎む国民もないかもしれんが、台湾人と並んで韓国人ほどまた日本を愛する外国人もいない(親日的な台湾人にも愛憎があるんだが、多くの日本人は憎しみの方には気づいてない)。日本好きの外国人を呼んできて接待づけにし、「日本(人)って素晴らしい」って言ってもらって喜ぶ情けない番組があったが、そんな遠くから連れてこなくてもお隣にはいくらでもそういう人がいる。ただ、より多く日本について知っているので、何でもうまいうまいといって食うような客ではないのである。

このような愛憎関係は珍しいものではない。欧米の旧宗主国と旧植民地のあいだにはそうした関係がある。かつて自分たちを劣った民族として支配した旧宗主国に対して恨みがある。しかし、同時にその旧宗主国がもたらした文明に対する愛着もある。いわゆる教養ある文化エリートであればあるほどそうである。だから、旧植民地の文化エリートはだいたい旧宗主国に留学して、旧宗主国で知識や技能を身につけるのである。

日韓関係についてもこれが当てはまるのであるが、欧米とその旧植民地と比較すると、その関係は非常にぎくしゃくしている。それにはいろいろな行きがかりがあるのだが、一つあまり気づかれてない点があると、自分だけは考えている。それは、日本人は愛される自信があまりない国民であるという点である。

日本に対する愛

自分自身に不安があるがゆえに、日本人は自分に向けられた憎しみには過敏であるが、愛情には非常に鈍感な国民になっている。

木浦の近代歴史館を訪れる日本人の関心は展示の方に向く。そうして日本人はこんな非道なことをした、あんな悪行をしたという話に眉を顰める。良心的な人でも、われらはそんなに憎まれているのかと嘆息する。だが、韓国人が旧植民地の建築物を大事に保存しているという事実の方には目が向かない。西洋列強の横暴や不正はともかく、日本が古い「洋風」建築物を愛し保存するようにである。だが、これが韓国人の日本に対する愛であるとは考えられない。

それだったら、そんな意地悪な展示なしで建物だけ保存すればいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし、これは自分の推測であるが、韓国側にも複雑な心理がある。日本によってもたらされた近代に一定の評価を与えながらも、やはり植民地支配は許せない。日本の所業を公衆に知らしめる場所とするから、保存する口実になるのである。

何故そんなことが言えるかといぶかる向きもあろうが、アウシュヴィッツと比べてみると、そのちがいがわかる。アウシュヴィッツには見るべき文明の遺産は何もない。ただ非道と残虐の証拠しかない。近代歴史博物館は明らかに文明の遺産としての意味も持たされている。これは木浦だけではない。韓国の至るところで日本の建築物が保護を受けておる。何の価値も見出さなければ、そんなものはとっくの昔に撤去されているはずだ。おそらく、共産革命と文化大革命を経た中国ではもっと徹底的に日本の遺物は破壊されているんじゃないだろうか(と言ったからとて、中国に日本への愛が全く欠けているというわけでもない)。

愛される自信のない日本人

日本人がこの愛に鈍感なのは、自分に愛される自信があまりないからである。英仏米などは、日本に劣らないくらい非道なことをその植民地に行なったのであるが、だからといって自分たちが愛されているという自信を失わない。そりゃ多少の間違いはあったかもしれないが、われわれの文化(=文明)を持ちこんでやったのは感謝されてしかるべきだと今でも思っている。自分たちが愛されることを当然視している。

ヨーロッパの後進国であり敗戦国ともなったドイツは、さすがに自国文化に劣等感があって、日本に似たところがある(よく知らないのであるが、たぶんイタリアも)。だが、ドイツもイタリアも自分たちの文化に世界から愛されるべきものがあるという信念は揺らがない。何となればドイツにはゲーテやカントやベートーベンがいる。イタリアにはローマ帝国の栄光やルネッサンスの遺産がある。

日本だけは、自分たちの文化が世界から愛されるものを含んでいるかどうか自信がない。だから、日本のよさは日本人にしかわからんよ、とうそぶいてみたり、そうかと思う自分が日本のよさと考えるところを国内外で押し売りしたがる。だが、いくら強がりをいったところで、次のことは確かである。われらが腹の底から信じられないのは、世界のどこかに自分たちを心の底から愛している国民がいるということである。

これが韓国人の屈折した愛に日本が鈍感な理由である。そして、この鈍感さがまた韓国人を苛立たせる。多分、教養ある韓国人の多くはこう考えている。ゆずるところさえゆずってもらえば、自分たちは大いに日本を評価する準備がある。現実に、多くの韓国人が日本に憧れ、さまざまな面で日本をモデルとして韓国近代文化をつくり上げてきた。今日の韓国の芸能界なんてのもそうであると思う。それなのに、日本人はちょっとでも批判されると逆ギレして、まったく理性的な反応を見せてくれない。

となると、日本という国の外交を狭量なものにしているのは、個人としての日本人を苛み狭量にしている例の不安と同じである。自分が愛せないから他人の愛を感じられない。で、他人が愛してくれないと思ってるから自分も愛せないという、という悪循環である(この心理については以下リンク参照)。

つまり、われわれ自身がネットなどでよく出会ってはうんざりさせられる、愛に飢えながら、他人を愛することができないあの情けない連中のパーソナリティが、そのまま国の外交に反映されてしまっている。最近はやりのことばを借りれば、自己肯定感が足らんのである。こんな者たちだけに日本の国民性を代表させることだけは、何としても許しがたい。この点は、欧米の厚顔無恥とはいわずとも、その静かな自信から学んでもよいかもしれない。

どうしたら国を愛することができるか

しかし、そもそも日本の良いところは、洋風建築とか蓄音機みたいに西洋の模倣に過ぎず、本来はわが国ではなく欧米へ帰するべきものではないか。純粋に日本的なものは天皇制とか軍国主義とか封建社会の遺物で、すべて悪いものなんじゃないか。どうやら日本の「リベラル」な知識人の立場は突き詰めるとこれに近い。日本の歴史や文化自体に他国民に愛されるものなどないかのような物言いが目立つ。

だが、自分はあると思っている。戦前の日本にさえあると思う。百歩譲っても、近代化を最初に成し遂げた非西洋国として、日本は他国の人にとって興味ある物語を語れる。それは単なる成功談ではない。苦悩と過ちに満ちた物語である。過ちを犯して罰せられたがゆえに、欧米にはできない近代批判がわれわれにはできる。そうした過ちを語り反省できるようになったときに、日本は自らを愛し、また他国からも愛される国になる。だが、そのためには、まずわれわれはわれわれ自身を知る必要がある。知りたくないところも含めて(以下リンク参照)。

そうであるならば、どうもわれわれは標語を誤っておる。「美しい国、日本」ではなく「美しいところばかりではないが、それでも愛される国、日本」というのが正しくわれわれの求める姿でなければならぬ。

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