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はじめの一歩

ラジオで米国の「婚前(性)交渉」事情に関する面白い話を聞いたことがある。といってもジョークじゃなくて、キリスト教の影響が強い米国の田舎では婚前交渉というのはまだまだ論議を呼んだりするのである。そこでの専門家の話を聞いていて、ふと思い出したことがある。

もう15年以上前になるが、日本に帰国したさいに、小さな子連れで電車に乗っていたときのことである。前の席に座ってわれらが子と戯れるのをじっと見ていた制服姿の女の子がいた。その娘が突然、「高校生が赤ちゃんを産むことをどう思いますか?」と聞いてきて面食らった。われわれ夫婦は歳よりも若く見えたし、服装も年相応とは言えないので、できちゃった婚の元ヤンキー・カップルかなにかだと思われたのかもしれない。

誰か知り合いが妊娠しているのときくと、彼女本人がそうであるとのこと。「その子の父親は?」と聞くと、やっぱり高校生で、もう別れたんだそうな。

他人事であるときは「最近の若いもんは盛りばっかりついて」とか「やるならしっかり避妊しろよ、サルじゃないんだから」なんて勝手なことを言っていればよいのであるが、当事者本人に直接感想を聞かれてそんなことを言うわけにもいかない。きっと本人も悩んでいて、一人で心細いのだろうななんて勝手に解釈して、いろいろ知ったかぶりの助言を与えたのである。

具体的に何を言ったのか忘れてしまったのだが、まずは父親である男の子としっかり話し合って、できれば親にも相談しなさいとか、高校も出ないでは仕事も見つからないし子連れじゃ結婚相手も限られるよとか、アメリカじゃ貧困の原因のひとつは十代の妊娠だよ、なんてもっともらしいことを言ったのだと思う。要するに、一人で産んでも育てられないだろうから、堕ろせるのなら堕ろした方がいいんじゃないと間接的に示唆したわけである。

でも、電車を降りた後で冷静に考えてみると、その落ち着いた口ぶりやちょっとこちらの反応を試すような態度からして、彼女が聞きたかったのはそんなことじゃなかったんじゃないかという気がして後悔したのを覚えている。見かけは娘っこだけど、自分も子を産み育てられるという可能性を自覚した一人の女としての誇りや自信みたいなものが感じられたのだ。

考えてみると、性のパートナーを得て、セックスの喜びを覚え、また子供を産み育てるということは、多くの人にとって人生の重要な部分を占めるわけである。思春期というのは、性に興味を抱いて、いろいろと実験していく時期であり、研修期間でもある。

セックスなんて本能さえあれば教えられなくても誰でも問題なく覚えると思うのであるが、ラジオ番組で専門家の話を聞いてると、意外とそうでもないらしい。性というのは共同体の再生産の根幹にあるものなだけに、いろいろな社会的統制があって我々の活動の中でももっとも自由にならない部分である。特に女性にとっては、自分の体の一部が社会に所有されているようなものであり、様々な制約の対象なのである。もっとも自然なものであるはずの性行為は、今日では自然からかくも遠ざけられ、念入りに統制されている。

そうかと思うと、現代ではセックスの主な目的は娯楽になりつつあり、商品化も進んでいる。あちこちに性に関する情報やそのシンボリズムが満ちあふれているし、性を売り買いするチャンネルもたくさんある。今日、性を知るというのは、こうした性の「横溢」と「抑圧」、最もプライベートなことに見えて実は社会的、という複雑で矛盾に満ちた二重構造の中で、自分なりに自分の性の意味を確立していくこと。この過程が、昔とは違った意味でかなりストレスに満ちて、精神的な困難を伴うものになっている。性生活における自己の確立というのは個人の自信、そして社会関係にも大きな影響を与えるものらしい。

ラジオでも言っていたけど、親というのは若者は皆セックスのことしか考えていないと思っているにもかかわらず、自分の子だけはまだまだ子供で例外だと思う傾向があるらしい。「うちの子に限って」ということである。でも、半人前扱いに嫌気がさしている若者にとっては、それだからこそ自分で性を探求していくことが自立の過程で重要な部分を占め、うまくいけば自信にもつながるし、下手をすると一生つきまとうトラウマにもなる。

言ってみれば、性を知るというのは、両親が隠していた秘密を暴くことである。そうして、自分がどうやって生まれたかも知る。さらに自分もその親の秘密の共犯者になることになって、親と対等の地位を得る。自分の性生活に関する決定権を親から取り戻すことがまずは自立の第一歩であり、そして最終的には自分が子を産み育てる可能性を自覚することにより、子は親の呪縛から解放されることになる(決して独身を通す生き方を否定するわけではないけど)。

そんな話を聞いて、電車の女の子にも、まずは「おめでとう」と言ってやるべきだったなと今になって思うのである。そのあと「しかし...」という話にならざるをえないのだけど、最初から否定していいようなことじゃない。自分もまたご多分にもれず、妊娠を「取り返しのつかない失敗」としか見れなかった。彼女は人生においてたしかに重要な何かを成し遂げたのであり、しかるべくして誇りを感じていたのである。そして、きっと誰でもいいからその事実を知ってもらって認めてもらいたかったのじゃないかと思ったりするのである。

十代にかぎらず、生活力の欠ける者の妊娠が増えると社会問題たりうる。昔から性教育、特に悪い男に騙されないように女に思慮分別をつけるということが、この問題への対処法であったが、同時に彼女たちだけに任すにはちと荷が重い責任であるということも知られていた。それで、女の身の振り方には何かと制約が多かった。

この制約の不均等が自由平等の世になって邪魔になった。女性は多くの束縛から解放されたが、同時に性行為の社会的影響への責任が彼女ら個人に負わされることにもなった。しかし、その重責を担う準備を手伝うような教育は与えられずに彼女たちは社会に放り出される。そうして、社会秩序の維持の少なからぬ部分は彼女たちの思慮分別にかかっているのに、それが個人の責任としてしかとらえられなくなった。ここに自分の感じたうしろめたさの理由がある。

あの娘ももういい年のおばさんのはずである。どこかで幸せになってるだろうか、子どもはどうしたろうか、などと考えると、ちと胸が痛む。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。