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デモ暮らし(ぼくらが忘れてるデモクラシーの意味)

「デモクラシー」の語源

民主主義(デモクラシー)という言葉は、「人民(デモス)」による「支配(クラティア)」というギリシャ語が語源になっている。

この「人民」というのは、何を隠そう「下々のもの」、つまり我々が今日「大衆」などと呼んでバカにしているような人たちである。彼らは先ず貧乏であり、金持ちをねたんでいる。そして、理性ではなく情動や欲望に突き動かされる。だけど、数だけはやたら多い。

つまり民主主義は、もともとは一つの階級による支配を意味したわけである。金持ちと貧乏人というのは昔からいるわけだし、前者は少数で後者は多数であるのも新しい現象ではない。カネと権力というのは結びつきやすいから、放っておくとどうしても少数支配になりやすい。それをカネと権力のどちらも持たない下々の人々が、数にまかせて政権を奪取したり主導権を握ったりするのが民主主義のもともとの意味であった。「デモクラシーとはデモをして暮らすことだと思っていた」と冗談を言った政治学者がいたけど、当たらずとも遠からずなのである。

デモクラシーを抑制する安全装置

そういうわけで、昔のエリートや政治思想家には民主主義はすこぶる評判が悪い。それは一種の暴徒支配であり、最悪の政体と考えられていたのだ。むしろ一人の徳ある君主による王制、もしくは少数精鋭による貴族制においての方が正義が実現されやすいと思われていたわけである。今日のように民主主義が肯定的な意味で使われるようになるのはなんと19世紀に入ってからであり、米国がそのモデルとなっている。だが、その米国においてでさえ当初は「デモクラシー」という言葉を避けて、「共和制」と呼ばれていた。

今日では民主主義という言葉を聞いて想起するのは「選挙」「代議制」「三権分立」「憲法」「人権」「話し合い」なんてものだが、実はこうした制度はむしろ民主主義の行き過ぎを抑える為に導入された反民主主義的な側面もある。過半数を占める下層民に政治参加を認めながらも、おバカな大衆による専制を防止する安全装置をあちこちにつけたわけである。

民主主義という言葉が次第に受け入れられるようになったのは、こうした安全装置のおかげで階級支配という意味が薄れてきたからである。みんなで仲良く自由で平等になれる社会なんていう曖昧なものになってしまったわけだ。だから、みんなが多かれ少なかれ民主主義者になった代わりに、民主主義という理念の意味がはっきりしなくなっている。

「国民」って誰のこと?

その一つの症状として、いわゆる総中流意識というのがある。最近は貧富の格差の拡大から意識が変わりつつあるが、ちょっと前までは世論調査などで自分が上流、中流、下流のいずれに属するかと尋ねると、ほぼ9割方が中流と答えたものだった。これは日本だけじゃなく米国でも同じである。

この結果、「人民 people」という言葉も昔の階級性が消えてしまって、漠然と平等な個人の集まりを指すようになってしまった。日本の場合は「人民」という言葉を嫌ってpeopleを「国民」と訳したので、余計に階級性が曖昧になっている。だから、何かあるとすぐに「政府は国民の声に耳を傾けるべき」なんて言うわけだけど、その国民とは一体誰のことで、どこに行けばその声が聞こえるのかよくわからんのである。

もともとはカネと権力を持たない人々がそれを持つ人々に目を光らせ制御するのが民主主義だったのであるが、今ではこの対立軸が曖昧になったかわりに、様々なマイノリティや外国人が民衆の不満のはけ口にされてしまうようになっている。ナショナリズムというのは中産階級特有の現象であるから、中産階級(と思う人)が増えるとナショナリズムも台頭したりする(例えば、大正から昭和初期の日本や今の中国)。国内の階級闘争が差別や国の間の闘争に転化されてしまうわけだ。

でも、カネと権力というのは、ちょっと油断するといつでも簡単に結びついて、公の利益を騙って少数者の利益を優先するような政治が生まれる。民主的な制度が憲法で確立されたといって、人民は安心していられないのだ。民主主義を維持するためには制度だけじゃなくて、常に監視の目を光らせてこうした動きを未然に抑える人民が存在が不可欠である。民主的な憲法、選挙による指導者の選出、人権の保証なんていう制度も、民主主義の担い手がいなければあまり意味がないのである。

デモスとモブのちがい

「プロ市民」なんて言葉があるけど、残念ながら、本来なら市民全体が行うべきようなことを少数の有志が引き受けて、後は冷やかし半分にこれを眺めているのが今日の民主主義の実態である。しかし、歴史的にはこれが米国の建国の父などが想定した「民主主義」であって、人民の役割は指導者を選挙で選ぶことだけに限られていた。徒党を組んだりデモを繰り出すところまでは想定外であった。それは衆愚政治となると恐れられたのである。

語源的には「人民(デモス)」と「暴徒(モブ)」「大衆(マス)」のあいだに大きなちがいはない。だが、近代国家という強大な暴力装置の扱いについて民衆の政治参加が制度的に保証された今日においては、デモスかモブであるかが結果に大きなちがいをもたらす。民主主義が衆愚政治に堕さないためには、民衆自身が数の力を行使しながらも、同時にその力を抑制する自覚を持たないとならない。この矛盾した態度が民主的な市民教育に求められるものであるが、果たして今の教育がその要請に応えられているか心もとない。

近年は原発事故や貧富の格差の拡大から、多くの人、特に若い層が、デモを組織したり参加したりしはじめている。若い頃は政治的には無関心であった自分などは恥ずかしく思うとともに、これを頼もしく思っている。

だが、広範な層の政治参加への関心の高まりは、同時に民族対立や人種憎悪を煽る「政治的に正しくない」言葉が声高に唱えられることにもつながっている。排外主義は必ずしも「右翼」の専売特許ではなく、しばしば「民主派」の中にも見られる。残念ながら、これもまたデモクラシーの別の側面である。そういうわけで、デモクラシーの暴走をとめる安全装置に意味についても、若い諸君に考えてほしいと自分は思っている。

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