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ネコのいる天国(普及版)

天国についての自問自答

昇天しそうなほど暑い日が続きますが、みなさんは天国について考えたことなどありますか。ぼくは、今まではありませんでした。神も仏も信じてない人間ですから、天国などについてもふだんは意識していない。だから、そんなことを考えるのは時間の無駄だ。そう思っていました。
 
ところが、先日、実家に残っていた最後のネコが死んじゃったんです。実家は、ぼくがが生まれたときにはもうネコが住み着いていて、それ以来、ネコが途切れたことがない。だから、ネコがいない生活というものは未知の体験なんです。
 
もう自分がいつまで生きてられるかわからない身なので、20年も生きるような生きものはもう飼えない。そうなると、ネコのいる生活とは縁が切れたわけです。朝起きてみると、いつもは餌をもらいに出てくるネコの姿が見えない。それで「ああ、もういなんだな」と思うと、また悲しさがぶり返してくる。そういう毎日を過ごしています。
 
そんなときに、自然に(?)口に出てくるのは、「あいつはどこに行ったのかな」とか「きっといまごろは、涼しいところで親兄弟といっしょにいるかな」とかいうセリフです。霊魂の不滅も死後の世界もいっさい信じていないような人間がです。矛盾していますよね。
 
だから、まあふつうであればこの辺でやめとくわけですが、こちとら閑人の上に年とっていろいろと人生の悲哀を感じているところです。そこで、遊び半分ながら、ネコの天国について考えはじめてしまった、とこういうわけなんです。
 
まずは、そもそもネコも死んだら天国に行くんだろうか、ネコにも救われる魂なんてものがあるんだろうか、という基本的な問いがあります。心情的には、当然ネコだって天国にいてほしいと思う。ネコだけじゃなくて、犬だって、馬だって、牛だって、ウサギだって、モモンガだって、つらく苦しい一生を終えたら救われてしかるべきだ。そう思いたい。
 
だけども、そこで理性みたいなものが邪魔をしてくる。そんなこと言ったら、犬猫にくっついてるノミまで天国に行くことにならんか。ノミがいるんだったら、コロナ・ウイルスみたいのものだって天国にいるんじゃないか。そんな屁理屈をごねる。
 
いや、人間にとってよいものだけが天国への場所を与えられているんだ。そう反論すると、また理性の奴が応える。でも、ネコ嫌いの人にとってはネコも害獣じゃないか。そんな奴は地獄にでも落ちてしまえ、と心では思うんですが、たしかにそういう理屈になることは否めない。
 
そこで、こう言い返します。天国では、ネコ嫌いの人にはネコは見えないんだ。それぞれの人にとってそれぞれの天国があるってことでいいじゃないか。うるさいこと言うな。そうすると、理性の奴がまた意地悪な問いを発する。そうなると天国というのは一つではなくて、天国に行くものの数だけあることになるんじゃないか。
 
さらには、こういう問いも突きつけてきます。そもそも天国では飼いネコは飼い主のことを、親や子のことを覚えているのか。過去の自分の記憶を保持しているのか。だけどそんな記憶があったら、残してきた者たちのことが気がかりで、とてもじゃないが至福に浸っていられないんじゃないか。
 
それに、そもそも天国では人はどのような姿でいるのか。死んだときの姿であれば、天国人口の大半はじいさん、ばあさんになってしまう。それとも、人生の花盛りのときの姿なのか。いずれにしても、それじゃあ、親子も子も見分けがつかない。それとも見た人が見たいように見えるのか。

「こうあってほしい」と「こうでないとならない」

心情と理性のあいだでそういう果てしない問答が続いていくんですが、最後にはなんだが抽象的な天国理論みたいのができてくる。抽象的というのは、そこにはもう具体的なイメージがほとんどない。肉体をもたない(従って互いに区別がつかないし、生存競争の必要もないから互いに無害)魂みたいなふわふわしたものがいて、何をしてるのかわからないが、とにかく永遠の至福に浸っている。そういうわかりにくいものになってしまうんですね。

ちなみに、ダンテという人の『神曲』という作品があるんですが、『地獄篇』の描写がいちばんリアルで評価が高い。これが煉獄から天国に昇っていくにつれて、つまらなくなっていく。つまらないのは具体的なものから抽象的なもの、つまり直接経験できないイメージが多くなってくるからなんですね。

地獄で火あぶりになったり釜ゆでになったりして、それが未来永劫続く。そういう苦しみは誰でもわかる。火やお湯でやけどしたことのある人なら、経験から想像できる。のどが渇いているのに、眼前の水を飲むことができない。こんな苦しさも想像できます。無駄になるとわかってる作業を延々と繰り返させられる。こんなのは、もうぼくらの現実の生に近い。極端なことを言えば、死という救済なしで未来永劫この世に生かされることが地獄です。

ところが、未来永劫続く幸福という奴は、ちょっと想像がつかない。というのも、幸福という奴は手に入れると、とたんにつまらなくなる。今度は、なにか別のもの、「まだないもの」が欲しくなる。であるから、至福の状態というのは、つねに、いつまでも「まだない」というものなんですね。

ここで妙なことになります。「こういう天国があるといいな」という希望から始まった思索が、終ってみると、「天国というのがあるとするならば、こうであるにちがいない」で終ってる。で、その「こうでないとならない」というのが、もうわれわれの経験からは想像しがたい、したがってあまり心に響かないものに転化しちゃってる。なんとなれば、そこにはもうあのネコがいるのかどうかさえわからない。
 
この思考の往ったり来たりを短く要約すると、こういうことかと思います。こういう世界があったらいいなという願望から、ぼくは自分の詩的な想像力(とかつて目にした天国の描写の記憶と)を駆使して、天国を作りあげた。だけども、そういう世界が本当にあってほしいと強く思うがゆえに、その想像された世界をできるだけ現実的なものにしようとした。たとえ目に見えなくても、こうであるなら現実にありうる。そういうものにしたいと考えたんですね。それで理性が働きはじめた。もとは詩的な想像力の産物であったものを、論理でもって修正していくから、天国はよりつじつまが合ったものなるんですが、もうあまり魅力がないものになってしまう。
 
まあ、そんな思索をするような人は多くないと思いますが、ファンタジーとか SF などで異世界を創造した経験のある人ならわかると思います。想像の世界であるから、どんなものにしようと自分の自由勝手です。だけども、できるだけ現実的なものにしたい。この「現実的」というのは「いまここにある」という意味ではなくて、「あるかどうかわからないけど、これならありうる(あるいは、いつかどこかにあったかもしれないし、未来にあるかもしれない)」と考えられるという意味ですね。完全な空想とか夢想・妄想の類からは区別をつけたいんですね。

神官の天国と民衆のユートピア

これはぼく個人の頭のなかでおこった思考の経過なんですが、歴史でもこのようなことが起きてるんじゃないかと思うんです。まずは、こうであったらいいのにな、という人々の願望がある。それが詩などのかたちをとって表現される。願望はあくまでも願望でけっして実現しないと思ってるうちはそれで終りなんですが、遊び心からか心理的な必要からか、人間はこれに現実性を与えたいという衝動をもつ。そこで、想像の産物を、「そもそも」と理詰めで徹底的に検証するような酔狂なことを始める。
 
そういう「そもそも」を突きつめて考えていく連中が、社会分業のなかで神官となり神学者となって、詩人から分離していく。ところが、この神官たちによって現実的にされた想像の世界は、もう人びとが望むものとはちがうもの、わかりにくいものになってしまう。つまり、天国は人びとからどんどんと遠ざかっていく。
 
だから、人びとは遠くなり過ぎた天国に背を向けて、地上の楽園みたいなものに目を向ける。たとえば、キリスト教圏で農民が抱いていたと思われるユートピア観です。ユートピアというのは天国ではなくて地上で実現する楽園のことですが、やはり民衆の「こうであったらいいな」という願望が投射されている。坊主連中によって遠くに引き離された天国にかわって、この地上の楽園こそが農民の願望をより忠実に表現している。そう考えられる。
 
これをキリスト教の教義と較べてみると、ぜんぜんちがう。イスラムの経典であるコーランにおける天国描写に近いんです。コーランでは、天国には川に乳や蜜や葡萄酒が無尽蔵に流れてて、汲めども汲めども尽きない富が溢れている。そこで男たちは、美しい娘たちに囲まれて毎日酒飲んで寝てればよい。少なくとも、そういうコーラン観がキリスト教圏でも知られていた。これを、十六世紀に流布した民衆向けの小冊子に出てくるユートピアと比較してみましょう。

粉チーズで出来し山、
平原に見えし唯一のもの、これなり。
頂上には大鍋ひとつ置かれ……
険しき峡谷より乳の流れは発し、
そはこの国全土を流る。
家々の囲いは白チーズにて作られり。
この地の王の名はブガロッソ、
最も臆病者なりしがゆえに王にされり。
最大の石臼のごとく、大きくかつ肥え、
その尻より、パンはあふれ出、
口から吐き出すはアーモンド菓子、
虱のかわりに、頭には魚どもたかれり。

『大洋のなかで見出された新世界の存在、またそのすばらしき事物についての詳細に語れる書』。カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』(杉山光信訳)に引用。

「粉チーズ」とか「アーモンド」とか具体的なイメージで充満していますね。ユートピアでは人はまだ肉体をもっているから仕方がないんですが、やけに食い意地が張ってる。コーランの天国描写は、キリスト教の神官階級にとっては卑俗なものとして嘲笑の対象になったんですが、むしろそっちに近い。食い気だけではない。色気もある。

この地にてはスカートもズボンも要らず、
なんどきもシャツも下穿きも要なし、
少女、少年も、みな裸なり。
いずれの季節も、暑からず、寒からず、
欲する時に各人は会し、触れるなり。
すばらしき生活よ、すばらしき時よ……、
この地にては子供の多きに悔むことなし、
この育つはわれらがもとと同じなりしが、
雨降るときは麵類の雨なるが故なり、
わが娘を娶ることなど意に介さざりしが
娘らはすべて皆のものの娘なるが故なり。
各人は各々の欲するところに満足せり。

同上

ユートピアでは、富だけではなくて、美しい娘たちも共有されている。子どもは生れるが、空からパンが降ってきて勝手に育つから放っておいてもいい。だから親の義務なんて考えなくてもいい。純粋な娯楽としてのセックスが可能になる。果たしてこの娘たちは乳や蜜の川同様に天国の一部であるのか、それとも地上での奉仕を終えたのちに天上でも男に奉仕を強いられている女の魂であるのか。そんなツッコミをいれると、また楽園が遠ざかる。そんな理屈は坊主連中に任せといて、男には天国はこう見えるが、女にはまた別のように見えるとでもしとけ。そういうどんぶり勘定なところがないと、とうてい受け入れられないような楽園像ですね。
 
だけども、そういう場所であるなら、ネコが死に分かれた親兄弟とともに涼んでおっても、ぜんぜんおかしくない。そして、そこで自分がやってくるの待っている。そうなれば、もう自分には疎遠でよそよそしくなりつつある現世などに、未練を感じる理由などない。この世が穴だらけになる分、あの世が充実してる。そうやって俗世の悲哀を受け容れて、さらに死に対する怖れも和らげられる。

だから、天国とか地上の楽園というのは、あんまりつきつめて考えない方がいい。そう思われるんですが、歴史を振り返ってみると、どうもそう話が簡単にはいかないんです。というのは、想像力ばかりがあまり自由奔放に飛びまわると、なんでもありになる。そうなると、あまりにも荒唐無稽なイメージになって、だれも本気にしなくなってしまう。現実性というものをまったく顧慮せずに、著者の想像力だけに任された SF とかファンタジー小説みたいなものを想像してみてください。おそらく「吉四六さん」か「ほら男爵」みたいに、笑い話の方に近いものになるんじゃないでしょうか。そうすると、これまた生きる希望を与えてくれるようなものではなくなってしまう。

であるから、今度は想像力を理性によって統御する必要が感じられる。そうやって想像力と理性のあいだを往ったり来たりしているうちに、天国とかユートピアの像がだんだんと洗練されたものになってくる。そういうことが考えられるんですね。

願望と社会思想

ここらで話を終えるとわかりやすくてよいんでしょうが、もう少しみなさんの忍耐を試してみたいと思います。自分もまだ調べてる途中なんですが、この天国観とかユートピア観というのは、社会思想と呼ばれるようなものの源泉のひとつでもあるんですね。言ってみれば、天国やユートピアの像が洗練されていった先に、社会思想が出てくる。たとえば、マルクスの共産主義思想などというものが社会思想の代表例ですなんですが、リベラル経済学(日本語でいわゆる近代経済学)もまた、そのような性格を有しています。
 
というのも、社会思想というのは「社会とはこうである」と描写する面があるんですが、それに加えて「社会とはこうあるべきである」という一面もある。いな、そもそも(そもそも!)いまここにある社会に対する不満がなければ、社会などというものについて考えたりしないから、まず「こうあるべき」という願望なり理想が先にあって、次にようやく「こうである」という分析が来る。つまり、まだ見ぬ楽園への予感なり憧れというものがあって、それを鏡にしていまここにある社会を映し出してみる。それが社会思想というものであるんじゃないか。そう思われるところがあるんですね。
 
そして、社会思想にもやっぱり、ぼくがネコの天国でやったような心と頭のあいだの問答みたいなものがある。ちょっと気どっていうと、ユートピア性と現実性の駆け引きがある。一方では、人びとの「社会」があって、他方では、今日の神官・神学者階級たる思想家、理論家たちの「社会」がある。ここでも、あまりに理知的になりすぎた「社会」が神官階級から奪回されるかと思うと、あまりに荒唐無稽でだれにも本気にされなくなった「社会」が理性によって現実性を回復させられる。そういうことが交互に起きている。

ネコの天国について「そもそも」を突き詰めて考えるのはよほどの閑人だけでしょうが、そうした人ではないと考えないことがたくさんあって、西洋で哲学や科学といったものが異常に(?)発展したのも、そういう神官や神学者の存在と深い関係があります。たとえかれら自身はかえってそうしたものの発展の障害となっていたとしても、かれらに対抗する必要が厳密な学問や科学の発展を促したんですね。だから、「そもそも」を問う閑人が少なくなると、学問や科学が停滞する社会になる。いくら世のなかが忙しくなっても、閑人は少数でも養っておかんとな(理想としては、できるだけ多くの人にできるだけ暇を残しておく方がよいかもしれない)。そんなことを言ってみたくて、こんな話をしてみたわけです。

もう一つは、言葉のニュアンスに敏感な方ならあれっと思ったかもしれませんが、ぼくらはふつう現実に理想、客観に主観、「こうである」に「こうあるべき」を対置することに慣れてますね。自分たちの外にあるものが「現実」で、頭の中にしかないのが「理想」。だから「現実を見ろよ」とか、「理想論ばかり言ってても仕方ないだろ」というような言い方をします。

だけども、ここでの話では、想像の産物である天国やユートピアが「現実的」たりうるものとされてる。「こうである」と「こうあるべき」が対置されるのではなくて、後者が「こうあってほしい」と「こうでないとならない(こうである必然性がある)」に分割されている。「現実」も頭の中にあって、理想と同じく「こうあるべき」に属している。別の言い方をすれば、現実も主観の外にはない。それは現在はここにないかも知れないけども、ありうる(過去か未来において)という意味で「現実的」。「理想」とのちがいは、想像力が理性によって統御されてるか否かのちがいにすぎない。

何をいい加減なこと言ってやがる、主観が現実であるわけがないじゃないか、と思われるかもしれませんが、これが自分ばかりの妄想とは必ずしも言えないんです。その証拠として、ひとつ権威ある大家の発言を引いておきましょう。「あらゆる理性的なものは現実的であり、あらゆる現実的なものは理性的である」。ヘーゲルというたいへんエライおっさん、もとい哲学者の言葉であります。これもまたいつかみなさんと考えてみたい問題なんですが、あまり欲張ると一兎も得ないことになるんで、今回は指摘するにとどめておきます。

いずれにしても、哲学とか思想なんて呼ばれるものは、偉大な思想家とされる人々の名や見慣れない術語を挙げ連ねていかないと語れない。一般にはそう思われています。だけども、思想史が人間の考えたことの歴史であるならば、それは水面上に頭を出した氷山の一角を点としてつないだだけのもので、水面下にはその何十倍、何百倍もの氷塊がある。そのような歴史は、むしろこんな一見「非哲学的な」話からしか接近しえない。

そのような歴史叙述にもまた想像力と理性の駆け引きがあるんですが、専門家のしかつめらしい顔ではかえって掘り起こせない思想史がありうる。そういうことをみなさんにも知ってもらいたい。なぜ知ってもらいたいかというと、そうすることによって、因習的な考えに遮られていた精神の視界がぱっと開ける。自分たちの意識している世界の周りには、まだ広大な処女地が広がっていることに気づく。つまり精神が無意識的な束縛からひとつ解放されて、より自由になるからです。

こんな話は、一方では、エライ大家の名前も大仰な術語もカタカナの流行語も出てこないから、専門家や専門家好きの方からは、「それってあなたというエラくない人の感想ですよね」と無視される。他方では、「ネコはいるけどコロナはいない天国があってもいいじゃん!」以上に踏み出す必要を感じない方々からは、どうして簡単な話をこうもややこしくするかなと首をひねられる。二極化した読者層のはざまに落ち込んでしまう。そういう損な道をあえて進もうとするのは、前段の理由があるからで、天国にいるネコはちっとも悪くないんです。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。