本当は断るのに理由はいらない

先日友達3人でおしゃべりしてて、その時に言われたことを私は気にしていた。
ああ、明らかにサバイバル意識の強い関与があるなぁと思いつつも、もうそのことはいいんだよとも思っていた。

もうそのことはいいんだよと思っているのに、脳内で繰り返される彼女のアドバイスと、それに繰り返し反論し説得しようとする意識がある。これを数日やっていた。本当にもういいと思っているなら、こんなに繰り返し問答をするのはおかしい。自分の中で反芻する意識を数日眺めていた。

間違いなくサバイバル意識だよなぁと思いつつ、あまり積極的に掘らなかった。

サバイバル意識は言う。

「誘いや約束を断るには理由がいるじゃん。なぜ断るのかもっともらしい理由が必要じゃん。どう考えたってそうでしょうよ。」

いやーーーーーーー?ほんとはそんなの要らないって知ってるよねぇ?

「理屈ではそうかもしれないけど、相手だって理由が知りたいわけじゃん。」


もうこれは手放そうかなと思った。

明日、と言うか今日約束がある。
乗りかかった船的な、ちょっと責任も感じるところのあるやつ。

行けば行ったでそれなりに楽しいことも知ってる。
でもその一方で面倒だなとも感じている。
それは小さなものだけど、積もり積もったらそれなりに圧迫感のあるやつだ。

すごく嫌と言うわけでもない。
体の不調がなかったらほいほい行くやつだ。


これだよなぁと思った。


理由なく断ることを許可するか。
もうその時だよな。

観念しろ。私のサバイバル意識よ。


私は断るには相応の理由がいると思い込んでいた。相手が納得するだけの正当な理由が不可欠だと。じゃないと断り切ることができないと思っていたのだ。そう思った理由は簡単だ。母がそういう人だった。やりたくないというのは理由にならないと教わった。そして私の主張はいとも簡単に却下され、嫌だと言う私の気持ちもスルーされた。例えば骨折をして動けないなどの理由でない限り正当な理由にはならないくらいのゴリ押しだった。

母が悪いと言うわけではない。母はそういう人だっただけのことだ。

実際体の不調は断るための一番の理由になって、母のお願いを突っぱねるには非常に効果的だった。というか、そのくらいでなければ引き下がらない。もちろん私は、私の不調の原因はあんただからね、くらいの気持ちを持っていた。だからその被害を被るのは当然の結果だ、とも。自業自得というやつだ。

そりゃ治らんわ。

母が納得しようがしまいが、気が向かなければ断ればいい。それで母が暴れようが喚き散らそうが泣いて誰彼構わず愚痴を言おうが知ったこっちゃない。

というか、もともと私が持っていた意識に母が共鳴しただけのことだ。


解放。



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