神様はいるのか?について考えた元日。

2024年元日、石川県の能登を地震が襲った。
震度7、
私は地震をはっきりと体感した事がないので
《震度7》がどれほどか、目から入る情報でしかわからないけれど、
建物の崩壊、普段目にする《震度4》の数字から想像すると、きっと発生時からいまなおずっと、
不安や絶望を感じている人がたくさんいることだろう。

「よりによって元日に、、、」
色んなコミュニティの複数の友人とのメールのやり取りでは毎回この言葉が出て来る。

365日の中のどの日でも《地震があって良い日》
「今日は地震日和ですね」なんて日は無いのだけど、その中でも、どうしても

【新年】【元日】【年明け】と、明るく希望に満ちたイメージの名前を持つ
【1月1日】と言う日には事件や事故、ネガティヴな事柄に起こって欲しくないのだ。

それはきっと、年末に差し迫った12月から
「お正月はお休み?」「お正月はどこに行く?」
「お正月までに掃除しないと」と、
お正月がひとつのゴールのようになっていたり、

「新年からは〇〇をするぞ!」
「来年は〇〇を始めよう!」などの明るい未来を期待する
《リセットの日》だからだと思う。

例えて言うなら、マラソンで
スタートと同時に転んでしまい出遅れる。
そんなイメージ。
どこで転んだって「よし!よくやった!」なんてことはないのだけど、
「頑張るぞ!」ってやる気を持ってたメンタルだからこそ、折れた気持ちが痛いのだと思う。
もちろん、ゴール付近で転ぼうが、折り返し地点で転ぼうが、「ラッキー✌️」なんてことはないのだけど、でも、スタートダッシュは
《よりによって、、、》と、心を折る。

ゴール手前ならば
「今まで走ってきて疲れてたから」
「あと少しだから頑張って走りきろう!」と
気持ちの折り合いがつくが、
新年はそうはいかないのだ。

スタートしたばかりの今、ゴールが見えないのだ。
ここから続く日々、時間が、とてつもなく長い絶望に感じてしまうのだ。

幸先が良い、幸先が悪い、と言う言葉がある。
始まる前に、始まったばかりなのに
出足を挫かれる。って《幸先の悪さ》を

「もしかしたら、今年一年、良くない一年になるんじゃないか?」って不安感やネガティヴが襲う。

ましてや、日本人の文化として《初詣》を済ませたばかりの人にとっては
「神様はひどい」と、神様に結びつけてしまう。

ここにきてようやくタイトルの
【神様】って言葉にたどり着くのだけど、
私の身近な人は3.11以来神社に行かなくなった人で、
「あの被害に遭った人たちは毎日仏壇に手を合わせたり、初詣にも行って神様や仏様、先祖を大切にしてきた人もいるはず。それなのにこんなことになって、【神も仏もいない!】」と
一切の信仰心を無くしてしまった人だ。

それまでも別段信仰心が強い人では無く、
年に一回の初詣にだけ行く。
くらいの人だったが、
あれ以来、一度も行かないし、
「神様なんていない」と、断言するようになった。

私はそんな彼を「この人は優しい人だなぁ」と
感じている。
傷ついて欲しくなかったのだ、見知らぬ誰かに。
だれか知人が亡くなったわけでもないし、なんなら東北に知り合いがいたわけでもないが、
きっと、毎日を仏壇や、身近にある神社と共に営んでいたであろう人々が悲しい目にあった、と想像し、心に刻んでしまったのだろう。

私自身は「八百万、何処にでも神様はいる」
と、思っている人なので
全くの真逆の考え方だけど、私はこの考え方の違いが嫌いじゃないのだ。

どちらかといえば、私はタイミングさえ合えば
「今日はどこの神社に寄ろうかなぁ〜」って
馴染みの神社がいくつもあって、週に2回くらいの頻度で神社に立ち寄る人。

昨年は年始早々に
「今年はうさぎ年!うさぎと言ったら出雲大社でしょ!今年は初の出雲大社に行ってみようかな!」と、思い立ち、
実際に「行くなら神々が集まってる神有月だな!」って、11月に行ってきたくらい、
身近に神社を取り入れている人。

私を知る人々は「宗教の人?」と勘違いをしている人もいるだろう、最初に登場したコミュニティの人たちも「これは神様からのおつげ?」や
「神様からの試練かねぇ?」みたいな会話が多かった。

その度に「いやいや、神様も「管轄外だわ、勘弁してよ」って言ってるだろう」と答えたが、
皆、「え?」って反応だった。

私が陰陽五行や、四柱推命などで《時期を読む》ってことを取り入れているからだろう。
満月や、新月、暦の読み方の話を普段からするから【占いの人】ってイメージがあるのかも知れない。

ただ、私自身は地震については《地学》の分野だし、プレートがあるのだから「日本には地震が起こる。いや、地球のメカニズムだから仕方がない」と、思ってるし、
台風や異常気象についても《気象学》や環境によるもので《神様の試練》などでは無いと思っている。
だから、神様のせいにされては、神様が不憫だと思ってしまう。

そりゃあ、《貧乏神》や《死神》がいるならば
《地震神》や《台風神》もいても不思議じゃ無いけど、同列に【神】なら人間社会と同じで
思い通りにはならないのかも知れないし、
とにかく、神様を頼りにし、責任を押し付けるのは可哀想な気がする。

自然の力や、災害の脅威は別物で、
起こる時には起こってしまう。

神様はきっと、その先の、もっと身近な
《暮らし》の部分の心のあり方、
《心のよりどころ》を担当しているのだと思う。

助け合ったり、思いやったり、
誰かのために頑張ったり。
「ありがとう」を伝えたり。
最悪の中にあって、
それでも「良かった」と思えるように、
神様に役割があるとするならば、
その《思考》を手助けしているように思う。

《よりによって元日に》も、
元日だから里帰りしていて良かった。
年老いた親を助けれて良かった。ってタイミングの人もいただろうし、
休日だからすぐに駆けつけられた。って人もいるだろう。

物事なんて良くも悪くも、受け取り方で変わって来る。きっと、その受け取り方を
《不幸中のさいわい》と受け止める気持ちが
神様たちとの良好な付き合い方で、
過剰な期待をせず、自分のことは自分で。って備える事が必要なんだと思う。

年が明けて2日目、神様に頼らず自力で出来ることを増やす。人の手を煩わす事なく、
人を手助け出来るだけの余力を持つことを
真剣に考えている。

年を重ね、出来ないことも増えていく。
身体にだってガタはくる。
だからこそ、ケアをし、いつでも自力を目指す。
その自力や自立を守るためにも《無理はしない》
頼るべきところは頼り、頼れる人間関係を作っていく。それが目指すべき生き方。

神様はいるよ。ただ、全能な権力者じゃない。
寄り添って、応援して、導いてくれる。
そんな《味方》で《応援団》

震災によって今不安な人たちの元に
少しでもパワーが宿りますように。
心から願いを捧げます。

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