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空の見えるところまで

私は兄妹たちとは違って美術のセンスが乏しくて、学生時代の美術の授業も平均点で、絵を描くことの好きな父親からも、自分の絵を褒められた記憶はありません。
でも中学の時一度だけ、美術の先生から絶賛されたことがあります。

それは社会啓発的な内容のポスターを描くという授業だったと思います。例えば「残さず食べよう」とか、「交通安全」とか、「街を綺麗にしよう」とか、そんな言葉を自分で考えて、そのテーマに沿った絵を描くというものでした。
当時は少しポエミーなところのあった私は(黒歴史!)、空に紙飛行機が飛んでいる絵を描いて、「空の見えるところまで」という言葉を入れたポスターを作成したのでした。
先生は授業中に私の描いたポスターをクラスの全員に見せて、それはそれは褒めて下さったのです。

でもその記憶はいい出来事として記憶しているのではありません。
何故ならその後先生は私に、「このポスターの足りないものが何かわかるか?」と聞いてきたからなのです。

クラスの前であれだけ絶賛してたのに足りない?? 
アゲアゲどすん?

そのポスターはほとんど悩む事なく、思い付きでぱぱっと描いたものだったので、足りないと言われたら、労力的には足りない気がします。
でも考えれば考えるほど陳腐な付け足ししか思い浮かばず、むしろどんどん悪い方に転がっていくように感じるのです。

先生曰く「言葉はこれ以上付け足す必要はない。」とのこと。
つまり絵の方に何かが足りないのです。
でも先生はそれ以上何も教えてくれず、結局私は自分の絵に何が足りないのかわからないままになってしまいました。

今となってはそのポスターを見る事が出来ないので、自分がどんなタッチで絵を描いていたのか、どれほど稚拙な絵だったのかはわかりません。
足りないのは単純に画力の話だったのかもしれませんが、でも技術的なことなら具体的に指導されていた気もするので、やっぱり表現の問題だったんじゃないかと思います。

先生の目には、一体何が足りないと感じたのでしょうか。
あれだけ絶賛してくれていたのに、先生の熱量がみるみる下がっていくのを肌で感じました。


この「足りないものがわからない」という経験は、極細の棘となって私の中に刺さったままになっていて、ごくたまーにその存在を思い出させます。
そして未だに足りないものがわからなくてモヤモヤしたあと、いつの間にか棘の存在を忘れてしまうのです。

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