理由
結局私は、早退届を出し家に帰ることになった。
帰路に着く途中、私はふわふわと地に足が付いていないような感覚だった。
玄関の鍵を開け、私は真っ先にCUTのグッズを集めている6畳の部屋に向かった。
そこには職場に掛けていたカレンダーと同じものが飾ってある。
まだ3月のミンスとシヒョクとユジョンとテヤンのユニットの写真がそこには飾ってあった。
私はカレンダーを壁から離し、傷つけないように丁寧に一枚捲った。
さっき、跡形もなく破かれたミンスの顔がそこにはある。
職場での出来事を思い出し、堪えていた涙がとめどなく溢れ出す。
全ての人から好かれる人間なんて居ないと分かっているつもりだった。
けれど、自分の好きな人が無下に扱われるのは、どうにも耐えられないものである。
私はSNSで『踏んだり蹴ったり』と投稿していたが、その後セリちゃんや他の親しい人からの反応はなかった。
寂しいけれど、平日の真昼間だから仕方がない。
私は体育座りをしてティッシュで鼻をかみながら、ずっとカレンダーを眺めていた。
しばらくして、テヤンからメッセージが届いた。
なんだよ、"일없소요(用事がない)"じゃなかったのか?
『누나,보고싶어요』
私に"会いたい"だと?
この男は何を考えているんだ。
でも、今日の不満を誰かにぶち撒けたい気持ちもある。
誰かにとってはたかが紙切れでも、私にとっては芸術作品のように何時間でも見れるこの人のことを。
どうしてミンスなのかと問われると、全く分からない。
きっとテヤンやジュノの方が一般的な王子様顔だと言われるだろう。
だがそれでも、私が心を惹かれるのはミンスで、他の誰でもないたった一人のかけがえのない男なのである。
『나도(私も)』
私はすぐに返信した。
夜分遅くなっても、明日も仕事をサボるつもりだった。
だが驚くことに、テヤンはすぐに私にテレビ電話を掛けてきた。
ひ、暇人なのか、コイツ…。
いくら推しではなくとも、このクタクタのみすぼらしいTシャツ、ジャージズボン、ちょんまげスタイルに泣き腫らした目を見せるのは忍びない。
せめてもと思い、TシャツをCUTのライブTシャツに着替え、ちょんまげを外しヘアバンドを着けて電話に出た。
もちろん、私の顔が見えないようにアウトカメラにしてである。
「ヌナ〜!ご飯食べましたか〜?」
電話に出た途端、満面の笑顔で手を振りながらテヤンがそう言った。
あまりにも屈託のない姿に、思わず笑ってしまう。
「おぉ?ヌナの顔が見えませんよ〜。カメラ間違ってますよ〜。」
「間違ってないよ。ルームツアーするんだから。」
私がそう言って鼻を啜ると、テヤンは下手な演技でもする様に「あぁ〜!」と声を上げた。
まるで昔のテヤンを見ている様で安心する。
デビューしてすぐの頃はこうやって表情豊かで、変なことをする子だった。
今はイメージを崩さないようにか、あまり目立って変なことをしなくなってしまったけれど、テヤンがテヤンである事に変わりがないと分かって表情が綻んでいく。
「cutterの部屋にお邪魔するのは初めてなので、그…緊張してしまいますねぇ〜。」
まるで、ステージで立っている時のような口調である。
最近、日本での活動なんてしていないのに、まるで勉強した後の様に彼の日本語が流暢な理由を私は理解しようとしなかった。
これから、ただ、ただ、私の不満と私の気晴らしに彼を付き合わせる事になる。
「うわぁ…歴代ペンライトにライブDVD…各CDの付属ポスターをぉ…ケースに入れてまで…ありがとうございます。」
特に説明するでもなく、ゆっくりと部屋の壁をカメラで映していると、テヤンが独り言の様に呟いている。
「これなんか懐かしいでしょ?」
私はそう言って、デビューしたばかりの時のメンバー全員のキャラクターのグッズを見せた。
「うわぁ!そんなのも持ってるんですか⁉」
彼は口角を上に持ち上げ、目を輝かせた。
「伊達にcutterを8年も続けてないよ。」
私が得意げに笑うと、テヤンも感心した様に頷いた。
「意外と全員分のグッズを持ってるんですねぇ。」
意外と?
テヤンのその一言に私は引っかかる。
「当たり前でしょ?オールペンなのに。」
私が真剣に答えると、テヤンは慌てた様子で首と両手を振った。
「그…申し訳ないです!勝手に최애がいるものだと思いました…。」
최애とは、韓国語で言う推しのことである。
もちろん、私の推しはミンスであるが、テヤンの手前そんなことは言いにくい。
「もちろん、最初こそあったけど、今は全員好きだから、順番なんて付けられないよ。」
私がそう言うとテヤンは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
なんだろう、私は何かおかしなことでも言ったのだろうか?
「テヤン氏?」
私がそう言うと、何故かテヤンは私に会釈した。
やっぱり不思議な子である。
「この部屋だけで驚いたりしちゃダメだよ。この部屋はライブ部屋だから、音源とかライブDVDとかペンライトを置いてあるけど、もう一つ日常部屋があるんだから。」
「日常部屋?」
テヤンが目を丸くする。
「シーズングリーティングとかサマーパッケージとかウィンターパッケージとか、あと、サイン会の時のポストイットも飾ったりしてるんだよ。」
私がそう言うと、テヤンは突然真顔になった。
なんだろう?
ふと周りを見渡し、私は唇を噛んだ。
きっと、ミンスの練習着が見えたに違いない。
ついさっき、推しがいないと話したばかりなのに。
私は平静を装い、テヤンに声をかけた。
「テヤン氏、どうかしたの?」
私がそう言うと、テヤンの口から思いがけない言葉が出た。
「ヌナ…そのポストイット見返したりしますか?」
まさか、そんな事を聞かれるなんて。
見返さないこともないが、やはり、見てもミンスとのやり取りを見返すことが多い。
私は努めて笑顔を作った。
「最近は見返せてないかな。」
私がそう言うと、テヤンが口を開いた。
「태양보다도 달이 어울리네」
私の口も思わず開いた。
もちろん、言葉を発するためではない。
「一番最初のポストイットの中に書いてありませんか?」
テヤンがいつから周囲のcutterにタリと呼ばれ始めたのか、私は知らなかった。
誰がそう言い始めたのかも知らなかった。
「당신을 만나서 정말 다행입니다と、僕は返したはずです。」
私は思わず、携帯を持っていない方の手で口を覆い隠した。
"太陽よりも月が似合うね"
"貴方に会えて本当に良かった"
8年も前の、私ですら忘れていたやり取りをテヤンはずっと覚えていたのだ。
「好きな人から貰った言葉は、どんな言葉も宝物ですから。」
無意識の内に私の両頬に涙が伝う。
「改めて、お会いしたかったです。ヌナ。」
私は、なんて酷いファンなのだろうか?
彼にこんな事を言わせて、自分は綺麗さっぱり忘れていた癖に嬉しいと思うだなんてどうかしている。
目の前の彼の表情は霞んで見えない。
それなのに、全てを受け入れたような笑顔をしているような気がしてならないのは、きっと気のせいじゃない。
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