一掃

仕事が始まると、私は邪心を一掃した。

邪心といっても、犯罪的な意味合いではない。

自分だけが優位になろうとするように考えることを諦めた。

テヤンと結婚しなければ、周りのcutterを傷付けずに済むが、テヤンが傷付く。

テヤンと結婚すれば、テヤンは傷付かないが、周りのcutterが傷付く。

何が自分にとって最優先事項か、改めて考え直せば、私が成すべきことは自ずと見えて来る。

とりあえず、目の前の仕事をこなすこと。

そう考えると、なんでもないフリをすることは、苦痛ではなくなった。

今日は4人のおばあさまcutter達が、到着と同時にシアタールームに向かって行った。

「橘さん!今日は掛け声練習をしたいから、最近のDVDにしてくれる?」

シアタールームに向かうリーダー格の東雲さんが、扉を開けながら言った。

「掛け声、ですか?」

確かに、韓国のアイドルグループは、どのグループにも公式応援がある。

ここの4人は膝やら腰やら股関節やらが悪いので、ライブに行かないから見るだけで良いと言っていた気がするのだが…。

「この間のオンラインライブで孫にバカにされて腹が立つったらありゃしないわ!」
「誰のおかげで生まれてこれたと思ってるんだか!」
「今日の練習で見返してやりましょ!」

詳しく話を聞くと、東雲さんたちのお孫さん同士もcutterとして仲良くなったらしく、この間のオンラインライブを東雲さんの家で見たらしい。

そして、8人でテレビを囲んでいたが、公式応援が何一つ出来なかった自分の祖母達に対し、それでもcutterなのかとcutterマウントを取ってきたらしいのだ。

なるほど。

マウントとはどこにでも転がっているようである。

「分かりました。それなら、ライブDVDより、動画サイトで上がってる応援動画のリストを再生するようにしますね。」
「あら、そんなのがあるの?」
「はい、cutterがcutterのために作ってくれてるんですよ。多分、お孫さん達もそれを見て練習したと思いますよ。」

そう言って私は、施設内タブレットとプロジェクターを繋げると自分の動画チャンネルを開いた。

本国cutterに負けまいと新曲と公式応援が出るごとにアップし続けていた私の努力の結晶である。

アップし続けたおかげか、はたまた真面目に練習してくれたcutterのおかげか、今はバラバラになることなく、本国cutterとまでは行かないがそれなりに綺麗なハモりで応援出来ていると思う。

「あらぁ、これは見やすいわね!」

私は東雲さんたちの邪魔をしないように、そっとシアタールームを後にした。

これで4人の機嫌が治ってくれると良いのだが。

そう思い業務に戻ろうとした出先で、一人の利用者さんに捕まった。

「た、谷山さん、どうしたんですか?」

私を捕まえたのは谷山さんだった。

私のことを孫のように可愛がってくださる優しい女性だ。

彼女は私の腕を引っ張り、シアタールーム前のトイレの中まで連れてこられた。

何やらスタッフルームの方も騒がしい。

谷山さんは、眉間に皺を寄せて恐ろしい顔をしている。

「圭子ちゃん、悪いことは言わないから帰りなさい。」
「え?」
「スタッフルームの前は通らずに、裏口から帰るのよ?」

何故、スタッフではなく谷山さんが私の早退を決めているのだろう。

それだけで笑える展開だったが、谷山さんの表情がそれを良しとしなかった。

「谷山さん、何があったのか分かりませんが、私の荷物はスタッフルームにあるので、それを取りに行かないことには…」

私が説明しようにも、谷山さんはそれを制した。

「荷物は後で雪道くんにでも頼んで持ってきて貰えば良いじゃない。とにかく、帰った方が良いのよ。」

いつもの谷山さんならこんな事は言わない。

一体何があったと言うのか。

「谷山さん、心配してくださってるお気持ちは嬉しいですが、何があったのか教えてくださらないと…。」

私が話し切る前に、女性の高い悲鳴が聞こえた。

聞いたことのない声に驚き、廊下に出ると佐山さんが頭を抱えて叫んでいた。

雪道くんがスタッフルームの前で、誰かを押さえつけているのが見える。

押さえつけられているのは、時藤さんか?

時藤さんは、脳梗塞になったが幸いにも麻痺症状はなかった元気なおじいさんだ。

ただ、娘さんが急にカッとなる性格に毎日付き合いきれないと、週3回だけ預かるように頼んで契約している利用者さんなのである。

今まで易怒性も出現せず、普通に過ごしていたのに。

駆け寄ろうとすると、谷山さんに腕を掴まれた。

「行っちゃダメよ!」

そうは言われても職員として駆けつけない訳には行かない。

「谷山さん、大丈夫ですから。」

私はそう言って、谷山さんの手を離すと、スタッフルームの前に向かった。

その場にいる全員がバツの悪そうな顔をした。

時藤さんは、離せ、離せと叫んでいる。

彼の手には、皺だらけになり幾重にも引き裂かれたミンスの顔があった。

今朝、私を笑顔で出迎えてくれたはずの彼の顔である。

もちろん、それだけでなくこれから見えるはずだった他のメンバーの顔も同様だった。

「コイツらが、うちの孫の成績を下げた元凶だ!こんな物を作った奴らを連れてこい!」

時藤さんは、大声でそう叫んだ。

そう言えば、彼は元々大学の教授だったのだっけ?

きっと、今まではスタッフルームの窓を覗いたりしなかったから気付かなかったのだろう。

共有ルームに置いてあるペンライトはファンにならないとどのグループのペンライトかなど分からないだろうが、最近CUTのテレビ出演が増えたことによって時藤さんがメンバーの顔を覚えるのに時間が掛からなかったに違いない。

「雪道くん、時藤さんを離してあげて。」
「え?」

雪道くんは、戸惑いつつも時藤さんを押さえていた手を離す。

時藤さんが雪道くんから腕を振り払うごとに、無惨に散らばるメンバーの顔を私は一つ一つ丁寧に拾い上げる。

佐山さんは時藤さんが握りしめていたカレンダーの大元を預かった。

「すいません、圭さん。スタッフルームの鍵を掛けてれば…。」
「良いのよ。形あるものは壊れるもの。」

口ではそう言いながら、拾い上げる指先は震えた。

施設長が私の両肩に手を置いた。

「後は私がなんとかするから、今日は早退しなさい。」

スタッフ全員の優しさがまるで矢のように降りかかる。

本来は嬉しいはずのものが、私の心を重くしていた。

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