隣の芝生が青く見える時の対処法 feat.寿司を食べる友人
先日、友人と大阪をサイクリングしていたときのことです。この日は朝から忘れ物、パンクなどのハプニングが続いたのもあり、少し疲れが溜まっていました。パンクの修理が終わった後、お昼時でお腹もペコペコになったので、近くのスーパーでご飯を買って休憩しました。私はおにぎりセットとたまごサンドを買い、友人は寿司を買っていました。
寿司を見て一瞬「うらやましいな〜」という思考がよぎったのですが、いくつかのことを考えて気を持ち直しました。そのとき考えたことを整理してまとめてみます。
■ ごはんの味を分かるのは意外と難しい(無意識 vs 有意識)
少し前のことなのですが、一日中自転車で走り回り、日も暮れた頃にやっとの思いで飲食店に辿りついたことがありました。その飲食店は普通のチェーン店でしたが、そのとき食べたカツ丼は今まで一番と言っていいほど美味しかったです。
その時、近くの席にはスマホを見ながら食事をしている人がいました。私にとっては腹ペコで食べた特別なご飯でしたが、その人にとってはよくあるご飯なのだと思いました。意識はスマホの方に向かい、ご飯の味を感じているのかどうかは分かりません。「こんなに美味しいのに勿体無いな」と思いましたが、その姿は実家で当たり前のようにご飯を食べる自分自身とも重なりました。
脳は、慣れているものに出会ったときに意識を省略しがちです。いつもの景色を見ているときや、いつものご飯を食べているときに、そこには存在しないものについて考え始めます。何を食べていたとしても、情報を知覚していないのであれば食べていないのと同じです。なので、私にとって重要なことは、これから食べるものを味わって食べることだと考えました。
■ 食べているものを噛み締めることしかできない(想像 vs 現実)
羨ましいという感情は大抵の場合は望ましいものではないので、意図して作り出した訳ではありません。つまり、状況に対する無意識の反応が生み出すものだといえます。
「羨ましい」とは、誰かが何か良いものを持っているのに、自分はそれを持っていないときに生まれる感情です。自分が持っているものを羨ましいと思うことはありません。
持って「無い」ので、感じるには想像するしかありません。そして、情報の豊かさの点では、大抵の場合で想像は現実に劣ります。暑い夏に冬の話を書くことを考えると、存在しないものについて想像する難しさが分かるのではないでしょうか。
そのため、想像で食べる寿司よりも、現実で食べるたまごサンドの方が美味しいのです。羨ましいと思っているものの正体は、今という瞬間に限っていえば、現実より情報量の少ない頭の中にしかないものに過ぎません。
■ 贅沢が贅沢であるためには(慣れについて)
さて、念願叶って寿司を食べることができたとします。美味しい!では、次に寿司を食べたときはどう感じるでしょうか? またその次はどうでしょうか? 最初の感動は薄れていると思います。どんなに美味しいものでも、続けて食べれば慣れてしまいます。
言い古された話ですが、贅沢が贅沢であるためには「たまの贅沢」である必要があります。先述の通り、どんなに美味しいカツ丼でも、手作り料理でも、毎日食べていれば当たり前になってありがたさを感じにくくなります。逆に言うと、この日寿司を食べなかったおかげで、その分だけ次の機会に食べる寿司が美味しくなったとも考えられます。
寿司だけが贅沢品であるかのように書きましたが、そもそも私が食べていたおにぎりや卵サンドも贅沢品のようなものです。今の時代に、ごはんが白米・お味噌汁・漬物の3点だったら「これだけ?」と思ってしまいそうです。しかし、それが日常の食事だった時代もあります。
白米に関して、江戸時代の農民は、わずかな米に麦・粟・稗などを混ぜた「かて飯」と呼ばれるものが主食だったと言います。白米が全国的に常食されるようになったのは、高度経済成長期とつい最近のことのようです。
つまり、私が普通だと思っていた食事は、慣れてしまった贅沢品でした。かつての食事を思えば感謝して食べるべきで、不満を言うなどもってのほかなのです。
■ 私は代償を払っていない
「奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業」という本に、次のような話がありました。
私は、かつての働きで得た貯金と親のすねかじりで飯を食っているニートです。寿司を買うことはできませんでしたが、ニウスがこづかいの代わりに意思の自由を持っていたように、金銭的な余裕の代わりに自由な時間を持っています。それでいいのです。
一方で友人は仕事に勤しみ、年下の兄弟や家族に仕送りもしています(偉すぎる…)。美味しい寿司を食べているのはそのためなのです。
■ 感情のメーターは意外と簡単に振り切れる
体を動かして、お腹を空かせて、ご飯を食べる。このことによって得られた満足感は、私が感じられる幸せの上限にかなり近いと思います。もちろん、食べ物を美味しさという次元で評価すれば、たまごサンドより上位に位置するものはたくさんあります。しかし、それを感じる自分の感覚は限られています。他のどんな次元で物事を評価したとしても、感情は自分の幅でしか感じることはできません。
このときの食事は、ただお腹を空かせてご飯を食べただけではなく、隣には友人がいました。一緒に食べたからこそ、より美味しく感じたり、より楽しい時間になりました。誰かと一緒にご飯を食べることは、人間という生き物の性質を考えると最も幸福な瞬間の一つと言えると思います。
■ 足るを知る
「足るを知る」という言葉があります。これを言葉のままに捉えると「持っているもので満足する」ということになり、どこか貧乏くささを感じるというか、受け入れるのは負けを認めることのように感じていました。
しかし、どんなに新しいものや良いもの(ものだけではなく、状況や感覚も)を手に入れたとしても、それは当たり前になってしまう。そうならないようにするためには、今あるものを味わって満足するしかない、そう考えると、この言葉が真理をついていることに気付きました。
つまり、足るを知ることが良いことなのではなく、求め続けることを辞めて、慣れや当たり前に抵抗するためには、足るを知るしかないということなのだと思います。
まとめ
羨ましいという感情は、状況に対する無意識の反応である。羨ましさに伴う黒い感情や不快感は、無意識から抜け出せば遠ざけられる。
羨ましいという感情は、誰かが持っているものを自分が持っていないときに生まれる。無いものを想像するより、あるものを味わった方が情報量が多く、豊かな感覚を得られる。
状況に慣れて無意識になっていないか? 意識を省略するのは死んでいるようなものである。慣れへの対処法は、事前に行えることとしては状況に変化を加えること、事中に行えることには五感を働かせて味わうことがある。
羨ましいと思うものを手にいれるために、その人はどんな代償を払ったのだろうか? あるいは、私はそれを持っていない代わりにどんなものを手に入れたのだろうか?
どんなに状況が良かったとしても、自分の感情の幅でしか感じることはできない。その上限は意外と近く、お腹を空いたときにご飯を食べる、誰かと一緒に過ごすなどで満たされる。
当たり前になっているものもかつての贅沢品である。慣れや当たり前に抵抗するには「足るを知る」しかない。私が生きるために、物理的・心理的に本当に必要十分なものは何だろうか?
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