焼肉至上主義

一九九〇年。人々は馬鹿で、幸せであった。
 斎藤は旅行会社のお茶汲み係だった。社内結婚願望で上司の松本と付き合っていた。プロポーズを楽しみに毎日機嫌よく過ごしていた。早く専業主婦になりたい一心で働いていた。お茶はどんどん美味しく注げるようになった。斎藤は馬鹿で、幸せであった。
「松本さん、お電話です」
 なんて言ってるけど来月ごろには私も松本になるんだろうな、なんて思っていた。しかし、半年経っても斎藤は斎藤のままだった。
 斎藤は振られた。
 真冬の夜。イルミネーションを見ながらデートした。そこで松本から「別れたい」の一言。まさかのまさか。プロポーズをされると思った自分を心の中でタコ殴りにした。松本は社内で働く富田と付き合っていた。富田は可愛い女の子だった。斎藤よりも二歳年下で、愛嬌があって、みんなから好かれていた。そして、何より学歴があった。四大卒の富田はお茶汲み係ではなかった。
 斎藤は負けた。そしてその場から立ち去った。松本の前で泣くもんかと涙をいっぱいに溜めて「さようなら」とだけ言った。
 斎藤は無性に肉が食べたくなった。松本に可愛く見られたいという気持ちが消え去った今、どれだけ太ってもいい気がした。松本に尽くすのを辞めたから自分に尽くすことにした。
 イルミネーションの近くはフレンチの店ばかりだった。どこもかしこも浮かれたカップルが席を埋めている。お前たちも別れるよ、どうせ。
 電車に乗り、二駅。薄暗い電灯の駅に降りた。そこから歩いて五分。松本と「ここ穴場だよね」とか言いながら食べた焼肉屋がある。その思い出ごと食ってやる。
「いらっしゃいませ、一名様ですね」
 ここは店主と奥さん、そして娘さんの三人で切り盛りしている小さな店だった。薄暗い街の中、明るい店内が心を温める。皆フレンチに吸い込まれて行ったのか、他の客は誰もいなかった。しかしここの肉はどれも極上品で、網の上で一枚ずつ丁寧に焼くことはとてつもない幸せであった。斎藤は松本に肉を焼いてやったことを思い出した。
「ホルモンくださぁい」
 斎藤は隣のテーブルを拭いていた娘さんに笑顔で言った。
「はぁい」
 娘さんは案外早く肉を運んできた。しかし、皿の上に乗っていたのはホルモンではなかった。
「これ、サービスや」
 娘さんが持ってきたものはタンだった。
「え、ありがとうございます」
「ええんやに、お姉さん泣いてるから可哀想や」
 そう言われて気がついた。斎藤は号泣していた。そう自覚すると止まらない。嗚咽までし始めてしまった。
「やだ、私、ごめんなさいね」
 斎藤は恥ずかしくてたまらなかった。自分よりも随分若い娘に泣き顔を見られた。
「え、謝らんでよ、お姉さん彼氏となんかあったんやろ。そんな可愛い服着て一人とか、おかしいもん。話聞かせて」
 娘さんは全てお見通しと言わんばかりに優しく笑っていた。
 それから斎藤の向かいに座り、肉を焼き始めた。
「焼肉屋ってさ、不思議な場所なんやで。みんなお酒と肉出したらなんでも喋り出すねん。面白いくらいに。そんでタバコ吹かし出したらもう心まで掴めとんのさ。今まで何度タバコの煙浴びてきたことか」
 娘さんは手早くタンをひっくり返した。
「これ黒毛和牛なんやで。家でも食べきれんから一緒に食べよ」
 そう言って斎藤の皿にタンを積み上げていく。斎藤は一口食べた。美味すぎた。
「ありがとう、とてもおいしい」
「せやろ」
 娘さんは自慢げだった。そして興味津々で聞いてきた。
「そんでさ、お姉さんはなんなん?なんで泣いてたん」
「あの、彼氏に振られて……」
「振られたの!今日?それはキツイ」
「イルミネーション見ててね、彼が真面目な顔したからプロポーズかな、とか思っちゃって」
「え、それは勘違いしするわ」
 そう言って娘さんはジョッキいっぱいビールを注ぎ出した。
「よっしゃ、うちの黒毛和牛塩タンはな、二、三枚口に放り込んでビールで流すんや。肉の脂とビールが混ざり合って口の中が幸せになるで」
 言われた通りに斎藤は口の中に幸せをつくった。
「どう、これうちの常連さんが言ってたんや。疲れが吹っ飛ぶって」
「うん。嫌なこと全部飲み込めそう」
 斎藤は幸せであった。肉が喉を通る感覚が堪らなく快感だった。何枚でも食べたいと思った。
「お姉さん、彼氏のことはな、忘れればいいんや。忘れるだけで辛い気持ちから解放される」
 娘さんはそう言ってまた皿にタンを積んだ。
「肉食べれば忘れるよ。だってこの方が幸せなんだもん」
 娘さんの言ってることが全て正しいように感じた。斎藤はどんどん食べた。次から次へと出てくる肉を口の中に詰め込んだ。ホルモン、ハラミ、ロースと口の中に脂が溢れた。そしていつの間にかタバコを吸っていた。松本の良かったところ、悪かったところ。全てを娘さんに話した。書類ミスがあったとき助けてくれて惚れたこと。斎藤のお茶を美味しいと言ってくれたこと。いつも歩幅を合わせてくれたこと。寝相が悪かったこと。そこも可愛かった。ネクタイをプレゼントしたが一度も付けてくれなかったことは悲しかった。タバコの煙と一緒に鬱憤まで宙に浮いて消えていった。
 肉と酒とタバコは斎藤をどんどん馬鹿にした。頭も呂律も回らなくなったころで、斎藤はこれまで感じたことのないほどの幸福感に包まれた。
「娘さん、私今幸せよ」
 娘さんは満足そうだった。
「そりゃよかった。今日はもう帰り」
 斎藤は会計をし、鼻歌交じりに店を出た。
「また来てなー」
 小さな焼肉屋は新たな常連を手に入れた。
 娘さんは賢くて、幸せであった。


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今回はオリジナル作品を投稿させていただきました。
今後はおすすめ作品も紹介したいです!!

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