飲み込んだその言葉の味は
職場の目の前の桜が満開になっていた。満開どころか既に少しずつ散り始めていて、玄関マットに落ちたその花びらは無情にもダイソンの中に吸い込まれていった。
春先の生ぬるいこの空気がとても苦手だ。10代の頃からずっと、この季節になると毎年体調を崩していた。
だけど今年は何だか、桜の木を見上げて「ああもうこんな季節か」と目を細めることができた。
年々、色んな面倒なことが削ぎ落とされていく。特にこの1.2年は自分の思考回路に迷い込んでどうしようもなくなる、なんてことはなかった。その代わり、分厚いハードカバーの小説を読んだり、己の感情を煮詰めて吐き出したような文章を書いたり、そういったこともできなくなった。
人と生きていくには、シンプルで単純でいなければいけない。面倒なことをできるだけ削ぎ落とした結果、「この人と生きていく」ということに全振りすることになった。
我慢したり、自分を見失うこととも違う。「この人と生きていく自分になりたい」と、本気で思うようになった。人はそれを、依存と呼ぶのかも知れないけれど。
昨年11月末に入籍し、先月結婚式を挙げた。
名字が変わり、本籍地が変わったが他には何も変わっていない。
結婚式は何だかとても楽しく、夢見心地だった。「自分の人生でこんなに幸せなことがあるなんて」と本気で思った。バージンロードを歩いているとき、誰かの顔を見たら泣いてしまう気がして、どことも言えない謎の空間を見つめていた。私の人生には相応しくないと思ってしまうくらい、雲ひとつない快晴だった。
この場所に死ぬまでずっといられるのなら、私はどんなことでも捨てられる。どんな言葉も飲み込むし、どんな感情も殺してしまえる。だけど現実はそんなに大変なことはなくて、ただ隣にいるこの人の温もりを手や足や唇を通して感じるだけなのだ。
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