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家族未満の私たちを繋ぐお金の話

「まだ家族じゃないんだし」という言葉には、「いずれ家族になりたいけどね」「ほぼ家族みたいなものだよね」という願望と厚かましさが混じっている。

大学を卒業して3年半勤めた会社を辞めたのは25歳の時。
それから専門学校に入ることを決め、同時に派遣社員として働き始めて丸3年。
今の会社に入ったのは去年の9月で、そこで出会った人と付き合い、一緒に暮らし始めて半年が経った。
希望と絶望を繰り返し、なんか絶望の割合多くないか?とかまともに食らった時のダメージえげつないな、などと苦笑いの多い20代だったけれど、多分その波はやや希望寄りで20代の終わりという一つの節目を迎えようとしている。

一緒に生活をしている以上、家賃や光熱費など同じ財布から出て行くお金が結構あるため二人の口座を作ることにした。お互いに毎月同じ額をその口座に入れ、そこから色んな支払いが行われる。電子マネーも二人共同で使えるものを作り、買い物や外食に行った時などは「どっちが出す云々」のやりとりを省けるようにした。
家計の管理、とまではいかないが「今月あといくら使える」などといった情報を与えるのは私の方で、それに対して文句を言われたことはない。家具や家電を買い替えたときも、「今月は余力あるから大丈夫」とか「それぞれもうちょっと入れよう」などと話し、今のところお金に関しては割とうまくいっている。

「二人の口座」。そこにはまだ家族ではない他人同士を繋げる、確かな絆を感じる。
学生で収入の少ない私に、自分の買い物もここから出していいよ、と言ってくれる彼に対し「いやいいよ、まだ家族じゃないんだし」と答える。可愛げがないと思われるかも知れないが、十分な時間“大人”をやってきた29歳女の陳腐なプライドと、いつか家族になりたいよ、という伝わりづらい願望がその言葉を吐き出させる。
一緒にいること。それは信頼関係の上に成り立つ。ただそこに「これからも一緒にいる」ことの確信に繋がる何かはない。籍を入れている訳でも、子どもがいる訳でもないから「一緒にいることを辞める」なんて簡単なことだ。

「二人でお金を貯める」「二人でお金を出し合う」
それは信頼関係という曖昧な気体を形作る風船のようなもの。物理的な何かがあることで、目には見えないそれを確かなものにし、安心感を芽生えさせる。

いずれこの口座は「家族の口座」になるのだろうか。この口座で貯めたお金で旅行をしたり、もしかしたら住宅ローンを払うなんてこともあるかも知れない。
お金は生活そのものだし、あるに越したことはない。だけど、それ以外に、それ以上に、「大切な人との未来を考える」ための存在でもある。

絶望の量と比例して増えていく貯金。あの頃のお金はただ明日を生きていくための道具にしか過ぎなかった。休み明けの前日、ちょっと良いものを食べ、ちょっと良い服を買う。そんな風にして奮い立たせないとベッドから起き上がれなかった。お金を使って満たされた振りをしていても、残るのは虚しさだけだった。
あの時もやっぱりお金は欠かせないものだったけれど、それ以上に削られていく肉体と精神のことを考えるといくら貰っても足りないと思い、そしてもう1円もいらないから自分のことを守りたいとも思った。

お金の価値は変わらない。バブル崩壊直後の1992年生まれの私にとって、この世界はずっと不景気だ。
それでも大切な人とするお金の話は悪い話ばかりではない。お金が貯まったらこれをしよう、二人でこれを食べに行こう、と話す時間は希望か絶望かで言えば圧倒的に希望だ。

家族未満の私たちを繋ぐお金の話。それは希望の証。

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