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【短篇】鏡の中の鏡(全 三十枚)
私のなまえは波之上(なみのうえ)水子、友だちからはスイちゃんと呼ばれている、サーダカ生まれの十六歳、北北東高校の一年生。
通っている高校の校舎はとても古くて、何だか空間が狭い感じ、首里のディープな住宅街にぐるりを取り巻かれていて、学校の敷地も三つに分かれている。
校舎のある敷地に、体育館とグラウンド、それとサブグラウンド、これらの敷地が細い路地みたいな車道で分断されていて、校舎側と体育館・グラウンドの間には、小さな歩道橋が架かっている。元々この場所には、ずっと昔に二つの学校があって、それが何という名前の学校だったのか、もう誰にも分からないのだけど、その二つの学校が移転して、そのあとに私たちの学校ができたらしい。だから、学校の敷地は複数に分かれているのだ。その複数の敷地を分ける路地には住宅がパズルのように並んでいて、教室の窓から手を伸ばせば、となりの家の窓が開けられそうなぐらい、というのはたとえで、実際に手は届かないが、それぐらい近い。
異常なぐらいに近い住宅のベランダには洗濯物が干されている。私は授業中にベランダに揺れているしろいタオルを見ている。女の人が洗濯物を干しているのを見る時もある。私がいるのは学校で、授業中で、学校には学校の日常がある。女の人は自分の家に居て、家には家の日常がある。同じ日常だけどこの二つの日常は違う。手を伸ばせば触れられそうなほど近いし、私たちは同時刻のいまに存在しているけれど、全く違う時間と空間に生きている。授業終了のチャイムが鳴る。私たちはホッとするが、あの女の人にとっては何の意味も無い音だ。
なんだかうまく息ができないのでため息をつく。
すごくドープな感じ。こんな学校、見たことありますか。私は実はこの感じが嫌いではない。狭苦しいけど、密集・密生しているというようなこの感じ、息苦しいけれど仕方がないというようなこの感じ。
私たちは時にまったく意味の分からない体験をする、いくら考えても、考えても、その原因は分からないというような経験がある。分からないけど、分からないながらやはり原因はあるので、その結果にたいして、ある場合は理不尽だと思い、ある場合は許容、あるいは想定の範囲内だと思う、これが普通だと思ったり、また、いくらなんでもおかしな話だと思うと、私たちは急に怒ったりする。
ちょっとよく分からない話になってしまった。
この学校の好きなところを言う。
私は一年生なので、教室は校舎の四階にある。校舎にエレベーターなんかは無い。古い校舎なのだ。四十年ぐらい経っている。四階までは、足で、歩いて上がる。私の通っていた中学校は三階建てだったが、エレベーターがあった。勿論私たち生徒は使用が禁止されていて、車椅子の生徒、荷物を運ぶ人、時々先生方が使っていた。体調の悪い生徒の付き添いとか、先生に頼まれてプロジェクターを運ぶとか、口実をつくって私たちものることがあった。エレベーターの中は湿気がひどかった、湿気取りに炭が置かれていたが、独特のこもった重苦しい臭いがして、壁の鏡には黴がびっしりとはえていた。鏡に映る私たちはぼんやりしていて、顔も髪型も、身体も全然見えなかった、思い出せない記憶のようだった。
それはさておき、
私たちは毎朝、毎日、北北東高校の四階まで足で上る。移動教室で一階まで下りたり、また四階に上がったり、体育の時間は二階に下りて渡り廊下から歩道橋を渡って体育館・グラウンドに歩いたりする。
階段の私たちは汗みずくになり、先生たちは踊り場で、肩で息をしながら、休み休み、階段を上り、また下りていく。はっきり言ってダルい、一階から四階に上がるとき、三階から四階がいちばんキツい、足に乳酸がたまって、息が苦しくなる。
しかし四階は、首里の四階だ。
首里の空は晴れている。青くて、雲が近い。
ぐるりを取り巻き、住宅は密集しているけれど、ここより高い建物は無い。首里の北北東で、ここは頂点だ。東に東北東中学校の丘陵があり、その向こうに電波塔、北に目を移すと石嶺や西原に続く稜線がある、西には浦添、その先に本島中部が霞んで東シナ海、また視線をうつすと那覇の市街地が白く光っていて、濃い青をはさんで慶良間諸島が浮かぶ。
ある日、
朝の早い時間、
私が四階まで上がって、自分の教室まで向かおうとしていたら、変なものが目に入ってきた。
教室棟から特別棟へと向かう渡り廊下の、ドアの前にそれはあった。
一瞬なんなのか分からなかったが、それはよく目にするモノなのだ。
私はきゅうに立ち止まり、それを見た。立ち止まったのはそれの名称が浮かばなかったからだ。
三組の教室から男子が一人廊下にやってきた。左目に眼帯をしていて、眼から垂れた血が頬を汚している、眼帯をしていない方の目は真っ赤に充血していてギョロリと私を見る、制服の上着はところどころ血に汚れていて、右手は上腕の骨が折れているらしくぶらぶらと揺れている、それでも両脚は無事のようですたすたと歩を進めて男子トイレに入っていく。
私は渡り廊下の前にある三角錐に近づいた。
赤と白、縞模様。
何だっけこれ。
背後を誰かが通り過ぎた。教室棟の端っこちかく、五組の方から人の声がした。
あ、
「カラーコーン」
思い出したように気づいた。
何でここに。
この先の渡り廊下が老朽化して危険なのかもしれない。それならそれでカラーコーン一個だけというのも変な感じがするけど。
どういう意味、これ、
「スイちゃん」
と背後から声がした。
振り返ると、女子の声がした。
「スイちゃん」
顔は白くて、鼻の下も白かった、顔がまんまるで大きな水風船みたいで、その下についている体が紐みたいでうねうねしていた。
女子の手足が地面に付くと屈伸して上空に飛び上がり、顔面を壁にこすって、また地面に付くと手足がバネのようにして伸び上がり、こちらに近づいて来た。
「スイちゃん」
私は急にトイレに行きたくなり、トイレに行った。
手を洗いながら「カラーコーン……」と思った。
四階は、東の方から二組三組と並んでいて、T字の廊下を挟んで四組と五組、六組がある。T字の線が交わる先には渡り廊下がある。その渡り廊下の前にカラーコーンがある。
腕時計を見るともう八時を回っている。
トイレを出ると軍服姿の男子が前を歩いていた。右の膝から下は無いので松葉杖をついている、四階まで上がってくるのはたいへんだったろう。
介護ベッドに寝た六組の女子生徒が胃ろうから注射器で水分補給をしている。この人は気がかりがあるらしくしきりに気をもんでいる。というのも誤答レポートの提出期限がきょうまでらしいからである。
「これ、なんだろう」
と私はひとりごとと問いかけを合わせたような声を出した。
毛虫のような男子が足もとを這っていた。
「どうしたの」
舌が二メートルほどに伸びた女子がいつの間にか傍にいた。舌の先は二股に割れていて、それぞれの先端が廊下を舐めるように蠢いている。
「これ、なんだろう」
と私は言った。
「なにって」
二股舌の女子はキョトンとしている。
渡り廊下の向こう、特別棟から音楽の先生がこっちに来た。
「おはよう」
と先生は言うと透明になり、次の瞬間には私の背後にいた。
「先生、このカラーコーンなんですか」
と私は聞いてみたが、
「え、なにが」
と先生は言って、また透明になり、次の瞬間には階段を下りていった。
始業時間が近づきフロアには人が増えてきた。
私はトイレに行った。
手洗い場の鏡の前には熱心にメイクをする女子たちが並んでいた。
目を見開き、人差し指でカラーコンタクトをする者、コンタクトが目に入ると、プール熱ふうの真っ赤に充血した眼になる。
瞼(まぶた)に350mlの真水と黒インキの混合水を注射し、その後ライターで睫毛(まつげ)を全部燃やす、そうすると黒い涙が目頭と目尻から溢れて自然な感じで頬を伝う演出になる。
念の入った者は、瞼を小刀で三つ、切れ目を入れる。溢れる血が、演出を後追いして、より当然みたいな感じになる。
さらに先を求めて、口唇を切り落とす女子もたまにいるが、これはさすがに校則で禁止されている。一発で無期停学だ。過去には、気管支切開を行った翌日に、校内の自動販売機をバールで破壊して売り上げの小銭を全部奪った者もいるらしい。噂だが……。現在、校内に自動販売機が無いのはこの事件が原因だと云われている。
四階には人が増えてきた。
階段の上り口を起点にして人が溢れてくる。
廊下を、したたり落ちる血が汚す。
血にすべって廊下に頭を打ちつけ、ぬらぬらした脳漿(のうしょう)をこぼす生徒もいる。男子だ、彼は頭をふり、虚ろな眼をして立ち上がる、周りに笑い声が響く。
しかし、誰ひとりカラーコーンに注意する者はいない。
気づいているのは私一人だ。
というか、みんなにとってカラーコーンは無いのだ。
ようやく私にも分かった。これは、カラーコーンの霊なのだ。
八時四十ニ分になると、一学年主任の先生がカラーコーンの横に立った。
「鐘が鳴るよ、はやく教室に入りなさい」
学年主任の先生は女性なので、女子トイレに入っていく。睫毛(まつげ)をライターで燃やしている生徒はそこで注意される。
「教室に行きなさい」
先生は、男子トイレの入り口で大声で中に呼びかける。
「鐘が鳴るよ」
トイレの中から男子が四五人、わらわらと出て来る。壁を血が汚す。
鐘が鳴る。
起立、
各教室からHR長の声がする、
気をつけ、
霊、
ため息……うなり声……、
椅子がきしむ音、
波のような音がしばらくして、フロアはシーンとなる、
先生たちの声が各教室から虚ろに響いている、
首里は静かな町だ、
六組から発砲音がする、ピストルだ、
頭に穴をあけた女子が廊下に出て来て、倒れる、赤毛の太った女子がそのあとに出て来て、介抱している、
撃たれた女の子は、肩を抱かれて、保健室に運ばれてゆく。その跡に、新しい血が点々と落ちている。
翌日。
カラーコーンは三つに増えていた。
教室棟から特別棟に向かう渡り廊下の前、その左の三組の後方ドアの前、その反対側、四組の前方入り口の前、三点を直線に結ぶようにして置かれていた。
置かれていたというか、置いたというか、居たというのかこれは霊なのだ。カラーコーンの霊に意思があるのか無いのか、分からない。ただ、その日そこにあったのだ。誰かが置いたのかもしれない、そもそもカラーコーンというのは誰かが置くものだろう、しかし、カラーコーンの霊を置くのは誰なのか、その、彼もしくは彼女も霊なのか。
その日、三組の机と椅子は何者かによってすべて廊下に出されており、教室の床一面には赤ペンキで文字が書かれていた、しかし、下手糞すぎて誰にも読み取れなかった、あるいは絵だったのかもしれないが、この刻印が何を意味するのかは誰にも分からなかったのた。担任の先生は「これ、アラビア数字じゃねえか」と言った。
「アラビア数字って何ですか」とクラスの女子が言った。
「あのー、あれ」
「普通の数字のことですか」
「あ、そうそう」と先生が言った。
赤ペンキはモップで拭いても取れないので、ひとまず三組……私の教室は、意味不明の文字、あるいは絵、もしくはアラビア数字の上に整然と机が並べられ、その日の授業が行われた。
同じ日、四組の学級日誌には「石鹸置きの石鹸を裏返すと湿っていた。歩いて三つ目の角を曲がり、開いている門を入って小学生の子どもがいたので殺した。そのまま家に上がると小学生の子どもがいたので殺した。腹を割くと臭かった。洗剤をかけた。」という記述があった。
同じ日、二組はクラスの三分の一が自殺したので学級閉鎖となり、五組は詳細は分からないが、昨日の放課後に生徒間で拷問があったとのことで、関係者の保護者が呼ばれていた。六組はほぼ全員が仮死状態とのことであった。
翌日。
何組の生徒なのか分からないが、階段の踊り場に死体があった。
それ以外は、日常を取り戻しつつあった。
私は安堵のため息をつきながら、階段を上った。
四階のフロアにつくなり、増殖しているのが分かった。
カラーコーンが、である。
階段の上り口から廊下、突き当りの渡り廊下の前にはあるく隙間もないほどのカラーコーン、またそこからT字の東西に延びる廊下にもたくさんのカラーコーンが無造作に置かれている。
邪魔になるというか、どかさなければ廊下を歩けないほどの数である。軍服姿の男子がカラーコーンにつまづいて転び頭を強打し血まみれになったが、それでもカラーコーンの霊には気づかないままだった。
下半身だけの女子はそこら中にあるカラーコーンにぶつかり、転んで足を擦り剝いている。天文学に詳しい男子生徒は足首から下を切り落として出校していたが、四階まで辿り着く前に、気絶して保健室に連れて行かれた。
アラビア数字の意味の噂をする生徒がいて、どこかに消えた、女子生徒だったらしく、右太ももから先の足だけが三組の床に落ちていた、肌の色が白い。
その日、四組には急に東欧からの転校生が二人来た、話によると、まだ小学生らしい。すぐに虐待を受けていた。
ICUから患者が運ばれてきて二組で面倒を見ることになった。
この日、私がゾッとしたのは、やはりカラーコーンの霊には意思があることを知ったからだった。廊下は生徒たちが行き交い、先生たちが歩いていく。
歩行者にぶっつかり、カラーコーンは倒れる。プラスチックの空洞が低い音を廊下に響かせ、赤い円錐があたりにゴロゴロ転がっている。
しかし、カラーコーンはいつの間にか元どおりに、四角い土台で廊下をしっかりと踏んで立っている。カラーコーンがみずから立ち上がるのをこの目で見たわけではない。ふと目を離した隙に、元のように立っているのだ。
霊だ。これは霊。
私たちの理解のおよぶ、向こう側の話。まったく意味が分からない現象なのだ。
国語の時間に、先生が「レギス第三惑星」の話をした。これは今、私たちが勉強している教材、スタニスワフ・レムの小説に出てくる砂の惑星のことだ。
「およそ数百万年まえ、惑星に不時着した琴座星人たちが死んだあと、どうやら機械たちは独自の進化をとげたようです」と先生が言った。「機械たちは自らの動力源(エネルギー)を確保し、また自らをメインテナンスし、またこの新しい環境において恒常性(ホメオスタシス)を保つために、ありとあらゆることをしたのです。原住の下等生物との戦いもあったでしょうし、また、進化の過程で機械どうしの殲滅(せんめつ)戦もあったようです。この星は現在、死と荒廃に覆われていますが、ある意味小康状態でもあり、長い眠りについているようでもあります。さて、現在、この星を支配しているのは誰でしょうか。プリントの問5に書いて提出してください。理由も必ず書くこと。理由を勝手に考えてはいけません。必ずテキストの中に書いてあることを根拠にしてください」
私はこう書いて提出した。
「星は自然の状態になっており、自然そのものが支配している」
先生は赤ペンで「自然とは何ですか、理由は……テキストに書かれてあることを根拠に答えなさい」と書いて突き返してきた。
私は気付かれないように舌打ちをして机に戻り、テキストをひらいた、猛烈な眠けがおそってくる『この宇宙のすべてがわれわれ人間のために存在しているように考えるのはまちがいだ』という文章が目に入ってきた、前の授業で先生に言われて線を引いた箇所だ。
「じゃあなんなの」
と思いながらスーッとまぶたが落ちて、気絶するように眠った。
授業おわりのチャイムが鳴り、「プリントを提出して、終わってよろしい」という先生の声がした。
私はあわてて「自然とは、意味が分からないもの。すべてをわかろうとしてはいけないもの」と書き加えてその文章に矢印を添え、テキストに線が引かれたこの小説の主人公の心情描写を書きうつし、文末に「根拠」と書いてプリントを提出した。
眠っているときに夢を見たが、どういう夢なのかは思い出せなかった。息苦しい夢、景色は真っ暗で、狭い。
教室を出ると急に便意をおぼえ、トイレに急ぎ足で向かい、便器に座った。休み時間の居場所を求めて、女子たちのガヤガヤする声がトイレの空間を圧迫した。私から出てきた軟(やわ)らかい流動物が、女子たちの声にまじり、においに姿を変えて申し訳なさそうに浮遊していた。ここは不自然だな、と私は思った。後ろ手に栓をひねり、便器に浮いているものを流した。
放課後、私はカウンセラーの先生に会いに行った。この日会えるように予約を取っていたのだ。
相談室に入ると、顔も頭も包帯でぐるぐる巻きにしたいつもの先生が、きょうは藍色に染めたワンピースを着て、つくえの前に座っていた。おしゃれだな、きれいな色、と私は思った。
包帯の隙間から、瞳の大きな左目だけがこちらを見ていた。タンブラーの飲み口から伸びたストローを包帯のすきまに差し込んで、先生は何かを飲んだ。先生は昔大きな事故に遭って、口から頬あたりまで、顔が裂けたままなのだと聞いたことがある。
右の頬にかけて、包帯は血の染みと、じゅくじゅくした膿で汚れていた。
包帯のすきまから、先生が舌を出した。白い垢の付いた舌、包帯を涎が濡らし、涎は顎に垂れて、きれいなワンピースに染みをつくる。
話しなさい、という意味だ。
私はカラーコーンの霊について話した。霊は三日前に現れたということ、見えているのは私だけらしいということ、日を追うにつれその数はどんどん増えていること。
先生は包帯のすきまの目でこちらをジッと見ていた。
私は、言いたいことは話し終わったので黙って先生の机の前の椅子に座っていた。
先生は包帯のすきまから白い舌を出した。舌の先は細かくふるえていて、だ液がワンピースの股のあたりに落ちた。
話しなさいという意味だ。
私はしばらく黙ったままでいたが、
「先生、カラーコーンにも、霊があるのですか」
と言った。
「私は不思議で、怖いんです」
先生は頷(うなず)いた。
「こんなことは初めてで……」
相談室は三階にあって、窓からは首里の北方面がよく見えた。石嶺本通りを挟んでひしめき合う住宅、高く伸びる高層集合住宅、それらの南面する壁が眩しいひかりを反射して、この部屋の北を向く窓に柔らかい光をそそいでいる。
先生はボールペンをもって、机の上の記録ノートに「27」と書いた。それを私に見えるようにして、またその下に「13」と書いた、アラビア数字で。そして先生は包帯の隙間から舌を出した。
話をしなさい。
「……お金が欲しいです」
と私は言った。
「不安にならないぐらいの、たくさんのお金が欲しい」
先生の左目がゆっくりとまばたいた。
「先生の月の給料はいくらですか」
先生はワンピースの裾を引き上げた、膝が見え、またさらに引き上げると白くてなめらかな太ももが露わになった。先生は太ももに指を這わせた。字を書いているようだ、片仮名だ。
「ビーチク」と先生は書いて、私の目を見た。
引き出しを開けソプラノ・リコーダーを取り出すと、先生は吹き口を包帯のすきまに差し込んだ。
ピーッ、と音が鳴った。
ピーーーーーーーーーッ、ピーッ、ピーーーーーーー、
ピピ、ピーーーーーーーーッ、ピピピッ。
先生はこう言ったのだ。
すべてのことには意味がある。わたしたちには、無意味なものは見えない。あなたにそれが見えているのであれば、それには必ず、何らかの意味がある。ならば、できるだけ丁寧に見るようにしなさい。
怖かったり、不安だったりする場合は無理をしなくてもいい。だけど、逃げてはいけない。わたしたちは、逃げるおおせることは決してできないのだから。不安でも、怖くても、それを見ようとする身構えだけは常にわすれてはいけません。
「というか、あなたはカラーコーンの霊が怖いのですか」
と先生は言わなかったが、そう聞かれたような気がした。
そう言われると、別に怖くはなかった。
カラーコーンが怖いわけではなく、ちょっと不吉な感じはするけど……そのカラーコーンの霊が怖いわけでもない。だってただの物だし、その物の霊だし。
怖いのは、それが意味すること、意味が解らないということが怖いのだ。そしてもしかすると、この謎が解かれたとき、カラーコーンの霊が真実を私に語ったときに、その意味に私が耐えられるのかが不安なのだ。知らないままでいることも、それを知ることも、どっちにしても怖くて、不安なのだ。
「先生ありがとうございました」
と言って私は相談室をあとにした。
私は階段を上ってカウンセラー室のある管理棟の四階に上がり、教室棟に向かった。教室には人気はなく、静かだった。廊下にカラーコーンたちが並んでいる。
「一、二、三……」
私はゆっくりカラーコーンの数をかぞえた。
管理棟からのびる廊下は、特別棟への渡り廊下の前で、T字に東西に分かれている。私はまず教室の並ぶ廊下の東端まで行った。この先廊下は折れ曲がり、多目的教室と先生たちのいる学年室に続いているが、この先にカラーコーンは無かった。
私は二組の前の廊下から、西に向かって歩き、カラーコーンの丸っこい頭に触れながら、数をかぞえた。
「四、五、六、七、八、九、十……」
三組の前を歩き、四組の前の廊下のカラーコーンをかぞえた。二十七か八まで数えたところで、数が合っているのか不安になった。整然と並んでいるのならかぞえやすいのだが、カラーコーンたちは勝手ばらばらに居るのでよく分からなくなるのだ。
私はまた二組の前の廊下に戻り、最初からゆっくりとかぞえ始めた。西の端に向かって歩き、途中なんども確認しながら、かぞえた。
廊下の西端、六組の前まで行った時には、陽は傾いて真正面から私を照らしていた。雲が多く、やわらかい日差しだった。廊下を通る風は涼しく、というか寒気をおぼえるようなつめたさだった。
「三十六、三十七、三十八、三十九、四十……」
そこまで数えて、前にはひとつのカラーコーンがのこった。
「四十一」
カラーコーンの数は四十一だった。
四十一、と私は思った。
四十……、
あ、
私は廊下に座り込んだ。
今年は北北東高校四十周年のとしなのだ。
背後に生温かい空気が動いて風となり私のスカート裾がすこしめくれ上がった。
振り返ると、カラーコーンたちが廊下から二十センチほど浮いていた。四十個のカラーコーンが。
糸で吊り下げられたように浮いたカラーコーンたちがゆっくりと、さらに上昇する。円錐形の空洞から噴射する熱気が廊下に渦巻いていた。
ある程度の高さになると、カラーコーンは液体のようになり、その液体が天井に吸い込まれるようにして次々と消えていった。
それらを見終わって、私は立ち上がった。
左手は四十一個目のカラーコーンにかけられていた。ちゃんとプラスチックの感触もあった。
「じゃあ、あなたは実体(じったい)なのね」
私は四十一個目のカラーコーンに話しかけた。
「霊じゃないんでしょう」
と言って私はカラーコーンを抱きしめた。
「ごめんなさい」
私はカラーコーンを持ち上げて廊下を歩いた。
どこからかピアノの音がした。向かいにある特別棟の音楽室からかと思ったけど、もっと遠い場所のようだった。私はピアノの音を目指して、歩いた。
ピアノの旋律に弦楽器の音色が重なる。この曲は聴いたことがある。『鏡の中の鏡』。やがて弦楽器が旋律をリードし、またピアノとの重奏があり、ピアノがリードする。
管理棟の階段を下りると、音楽が大きくなった。三階から二階へ。二階から一階へ。下るたびに音は大きくなる。
人気のない校舎は薄暗い。校舎を出てすぐの、二階まで吹き抜けになったピロティに、動き回る白い人影と音楽の源があった。
私は一瞬、カウンセラーの先生かと思った。その人は身体を包帯でぐるぐる巻きにしていて、その下は裸だった。
音楽に合わせて、というか合っているのかいないのか、よく分からないバレエのようなダンスをしている。手足が長く、長身で痩せているが動きは鍛えられた筋肉に支えられた機敏な動きをしている。
顔を見ると、どこかで見たような懐かしくてきれいな顔をしている。少年のようだが、胸にちいさなふくらみがあるので女の子のようだ、私と同じぐらいの年齢だろうか。
私はカラーコーンを抱えて突っ立ち、魅入られるようにしてダンスを見ていた。ピロティをあちらに飛び、こちらに跳ねて彼女は踊っている。つま先で立ってくるくると回るたびに身体の包帯がほどけていく。二の腕の包帯がほどけ、腹部が露わになり、側転したときに足首の包帯が円を描いて宙に泳いでいる。首からほどけた包帯が回転し胸元までほどけていく。
あ、と私は思った。
ほどけてゆく包帯は胸のふくらみの先に引っ掛かりギリギリですべてを露わにはせず、幻影のように白い布が私の視界を横切っていった。
その瞬間、私は横っ面を殴られた。踊っている彼女の回転する足が私の横顔に当たったらしかった。気を失い、つぎに気がつくと大の字になって地面に寝ていた。
隣にはカラーコーンもまた倒れている。
立ち上がってあたりを見回すと誰もいない。校舎の入り口のガラス戸に私が映っていた。
私は全裸だった。そう、あの少女は私だったのだ……いやいや、そんなわけはない。
スイちゃん、
と声がしたのでふり返ると、半裸の……ダンスをしていた少女が、私の制服と下着を持って立っていた。
これ、着てもいいの、
うん、私は頷いた。
ほんとう、ありがとう、
少女の顔はぱっと明るくなり、校門の方に駆けて行った。後ろ姿に包帯はほとんどほどけていて、お尻はほぼ見えていた。
門を出るところで少女はこちらを見て、笑顔で手をふった、私もふり返した。手をふり合うのは、安心する、手をふり合うのは仲間という意味だ。今は別れる仲間だけど。
唇が生温かく、ぬらぬらとしているので触れてみると鼻から血が流れている、それもかなりの量が。
でも、私は、家までどうやって帰ったらいいのだろう……。
私はカラーコーンを持ち上げ、からだの前を隠すようにして抱きしめた。ガラス戸に映してみると、しかし、カラーコーンは映っていない。無いのだ。それでも私の右腕は胸を隠すようにしているし、左手は私のデルタを蔽(おお)っていた。
私は抱えたカラーコーンで半身を隠すようにして……しかしこれもまた誰にも見えていないのかもしれないが……日は暮れかけてあたりには誰もいない。
校門を出て右に曲がり、校舎とグラウンドの敷地の間の道路を歩いた。
やっぱり、あなたも霊だったのね。
私はカラーコーンに話しかけた。
そうだよ、とは言わずに、ただカラーコーンは寝ている猫みたいにあたたかかった。こんなにも無意味な体験。あとで誰かに話して聞かせようにも言葉にならない記憶が続いている。裸足の足が小石と草きれを踏む。もしかするとこの記憶はこの先無限に続くのかもしれない。
もしそうなら、こんなカラーコーンなんてそこらに放り出して走り出してもいいのかもしれない。逃げだせばいい、好きなところに行けばいい。
しかし私はそうしなかった。理由は、とりあえずカラーコーンは私には見えているし、抱きしめている感触もある。それに私は裸を見られたくない。
私たちは密生する歴史の重みにあえいでいるし、進化の歪みに苦しんでいる。日常は繰り返されるために必ず誰かの犠牲を強(し)いるし、変化のために誰かの不安と誰かの絶望を産み出している。ここから抜け出すために、逃げ出すために——といっても何処かに行くのではない——ここで、この場所で生き抜くのだ。
犠牲、不安、絶望。
私は噴き出す鼻血を手の甲で拭った。急に笑ったのだ。不快な感触がして、指が震えていた。
ここは北北東高校。首里のディープな住宅街に囲まれた創立四十周年のドープな谷間。四階建ての、首里の北北東の頂点。住宅の輪郭と屹立する校舎に区切られて、見上げる空は遠い。
その空から落ちてくる。きょうも。
あしたも、私たちが。
◇参考・引用文献
『砂漠の惑星』スタニスワフ・レム(ハヤカワ文庫)
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