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【中篇】かぞくあたま②

 ところで私の新妻(にいづま)さがしはSNSに投稿され、事情を説明し、養女(元妻)・中学生男子・雌猫(十一歳)を共に養育してくれる者を募ったのである。お見合い写真よろしく私は自分のポートレートを添付し、さらに自宅の浴室とトイレの写真も撮影して添付したのである。浴室とトイレの写真のわけは、生来私は怠けもので、だらだらとしているようなところがあり、掃除など全然しないタイプの人間であったのが、きれい好きで家が汚れていたり散らかったりしているとヒステリーを発する妻に教育され、自分もきれいな方が好きなようになったのである。なので新しく買った分譲の住宅の、浴室とトイレはいつも清潔に保つようにしていたのである。浴室とトイレの写真は、自己アピールのような、このような生活をしていますという照会みたいなものであったのである。暫(しばら)くしてダイレクトメールにて返信があった。私はその者と待ち合わせをし、会ったのである。

 夏休み期間中であったので私は仕事に余裕があった。平日の昼下がり、経塚のコメダ珈琲店で彼女に初めて会ったのである。

 コメダ珈琲の店内は満員であちこちから人の声がしていたが静かであった。天井は高く、明り取りから夏の日差しが店内に落ちているが、冷房がほどよく空気を冷やしている。

 若い、というか子どもだな、というのが第一印象である。髪は金に染めていたが、化粧はしていなかった。眉は描いているようだが、その他は紅(べに)も引いておらず(リップぐらいは塗っていたのかもしれない)、目のところに変な線も引いておらず、ファンデーションもしているのかしていないのか、私は男なので化粧のことは全然わからないが、化粧を殆どしていないということは分かったのである。

 これぐらいの年代の子は化粧などしなくても充分美しい。そもそも自分に合った化粧法などは知るよしもなく、というか自分が何者かまだ知らず、だから化粧は自分以外の者になろうとする手段のごとく行われる。結果的に彼女たちの化粧は濃ゆくなり続け、ハロウィンの仮装行列のような、あるいは呪術的な儀式のようになるのである。

 彼女が化粧をしていないことは好感が持てた。

 挨拶をして、年齢を聞くと「十九歳」という。私が二十八歳の頃に子をなしていたとしたら現在その歳になっているという年齢である。

 新妻の想定として、私は自分と同年輩ぐらいの、社会を一通り見て来ていろいろと苦労もしたというような、バツイチで子どもはもう儲けなくてもいいというような女人を念頭に置いていたのである。その想定を二十八歳下回っており、これは下回り過ぎだろうと思われた。だから初めは彼女と結婚する気などまるでなかったのである。

「貴女(あなた)の親が許さないと思うな。私が貴女の親だとしたら、鎌をもってその男、すなわち私の家に乗り込むだろうね」

 と私は言った。すると彼女は、

「親はいない」

 と言うのである。「亡くなったのですか」と聞くと、彼女は何も言わないままなのである。全体的に浅黒い体色をしており(日焼けなのか、どうか、茶色系なのである)、表情に乏しいが、目鼻、口は整っていて、鼻がすこし低かった。体は中肉、中背で、その顔も体つきもどこか少年のようなのである。

 これは虐待などを受けて育った子かもしれない、と私は思った、それも暴力とか性加害などではなく、ネグレクトだろうと検討をつけた。私は職業柄そこらへんの消息に通じているのである。沖縄にはこのネグレクトが多いそうだし、実際それを受けて育った者を見てきたことがある。

「一人で暮らしているのですか」

「うん」

「アパートに」

「うん、小馬(こま)見(み)の」

「小馬見のどこ」

「豆腐屋の、ちかくのところ」

 なるほど、なるほどと私は思った。

 小馬見、私は三歳ごろからその集落で育って、十九歳までを過ごし、またその後三十六歳からの十年ばかりをその地で暮らしたのである。

 私が本当に幼い頃は、その地は首里の周縁で、隣の町には墓場、ごみ処理場があり、精神病院、新興宗教の施設があった。その他には、ちいさな個人商店のほかには、何もなかった。

 弁ヶ嶽という独立丘があり、これは聖地である、現在その傍には学校があるが、昔、その土地は弁ヶ嶽と墓地群を対岸に挟んだ、断崖であり、峡谷であった。

 またその対岸のさらに先には崖のようにして低まった土地があり、そこにごみ処理場があった。処理場というが、処理できないごみは全てこの谷に捨てられ、埋め立てられた。時代は高度成長期のさらにその先の時代であり、物の大量消費は常態化されていた。

 ある日、私が小学生の頃、ゴミ処理場のついでとばかりに、火葬場の建設が計画されたことがあった。付近住民のはげしい反対意見が湧き起こり、これは立ち消えとなった。

 峡谷には、あるいは家電があり、空き缶や瓶類があり、ドラム缶があり、またわけの分からぬ巨大な機械の一部もあった。プラスチック製品が散乱し、埋まっていく土地の表面には不吉な色の水があちこちにだいだい色の池をなしていた。その池は温泉のようにして、ぶくぶくと泡を噴いていた。水面を揺らすあぶくがはじけると、煙みたいなものも立ちこめた。

 夕方、父に手を引かれてこの断崖の端から塵屑(ごみくず)の大パノラマを見下ろしていたことがあった。夕焼けはだいだい色の池に反射し、あたりの煙も赤く染めていた。父はぼんやりと、それらをいつまでも見ていた。ちいさな私は、父を見上げた。父のTシャツには赤い葉のような図が大きくプリントされており、それはカナダの国旗の紋章であった。あたりの、死とごみばかりが赤く染まるその風景に生きた心地がしなかったものだが、それでも私は生きて、普通にすくすくと育ったのである。

 十九歳の少女が住むというアパートの近くには生活支援センターのようなものがあった。あるいはその支援を受けながら(いや、もう学生でないなら受けてないかもしれない)今は一人暮らしなのだろう。

 これはどうしよう、どうすればいいのだろうか。と私は心が迷うような感じがした。私は申し遅れましたがという風に自分の名をなのり、「お名前はなんというの」と聞いたのである。

 すると、彼女は何も言わないのである。

 これはマズいなあと私は思ったのである。

「貴女は、子どもが欲しいですか」

「いらない」と言って彼女は顔を横にうごかした、目が虚ろのような感じであった。

 ひとまず私は彼女を家に連れて帰り、妻に紹介してから(この時、飛(トビ)助(スケ)、私のひとり息子は部活に行っていなかった)、彼女に一通りの家事をしてもらった。

 彼女は妻の昼食で使った皿等を手早く洗い、猫トイレの猫が散らかした猫砂を片付け糞尿を処理し、クイックルワイパーで床を一通り拭き、また乾燥機から取り出した洗濯物をぱたぱたと鮮やかな手つきでたたんだのである。見事な手つきなので聞くと、仕事は家政婦をやっているとのことである。

「仕事はたのしいですか」

「うん」という風に彼女は頷いたのである。

 彼女、というか後日この人は私のあたらしい妻になるのであり、現在の妻との区別がややこしくなるので今のうちに呼び名を与えておく。といっても彼女は自分の名を言わないので、というか本当に無いのかもしれない――この日彼女はデニムのホットパンツを穿いており、裾の長いゆったりとしたTシャツを裾の短いワンピースのようにして着ており、オニツカタイガーのスニーカーを履いていた。Tシャツには葉っぱの柄が大きくプリントされていた。

 なので私はまず葉子(ようこ)という名前を思いついたのだが、これは字は違うが、読みが私の実母といっしょなのでやめた。次に葉子(はこ)というのはどうかと思ったが、山崎ハコさんと同じなのでやめた。別に同じでもいいのだが、私は山崎ハコさんのファンであり、自分の娘に付けるというなら話は分かるが、妻にその名を付けるのは違うだろうと思ったのである。ちなみに私が一番好きな山崎ハコさんの楽曲は『地獄「心だけ愛して」』である、「飛びます」も好きだ。

 話はずれていくが、十五年ぐらい前、まだ東京に住んでいた頃、妻(もうすぐ前妻となる人)と六本木だか新宿だか場所は忘れたが山崎ハコさんのライブに行ったことがある。何だか勝手に暗い人だろうという思い込みがあったが、その日のステージにいたのは明るい、朗らかな人物でニコニコと笑顔で楽しそうに歌ってらっしゃった。意外だと思ったが、何だか嬉しいような気持ちになったことを覚えている。

 話を戻す。

 私は新妻の名を「葉(よう)」と決めた。

「あなたは名を言わないですが、無いとやはり不便なので、これからはあなたのことを葉(よう)、と呼びますね」と私は言った。「はっぱの、葉という字です。そして読みは、よう、です」

「うん」という風に、葉は頷いた。感情が見えないような顔がすこしだけ明るく見えるようだった。

 そして現在の妻の呼び名も「おかあ」とする。これは普段私たちの間で使われている呼称である、私は妻のことを「おかあ」と呼ぶ、妻は私のことを「おとう」と呼ぶ、口が回らなくなった今は「オ、オ、」という感じの音になる、飛助も「おとう、おかあ」といって私たちを呼ぶ。この呼称はこれからの新生活でも変えなくてもいいだろう、そして飛助は葉のことを「葉さん」とかあるいは「姉さん」とか「ネーネー」とか呼べばいいだろう。そういえば私は第一子で長男だが、子どもの頃やさしい姉がいればいいのにと思っていたことがある。

 このように名称は整った。

 この日は夕食も葉(よう)がつくった。豆腐チャンプルーと豆腐の味噌汁と、ご飯はうちには炊飯器がなく、これは私が教えて土鍋で米を炊かせたのである。料理の手前もまあ、なかなかのものだった。しかし私ほどではないのだった、というのも私は生まれつき天賦の才に恵まれており、別に料理が好きというわけではないが、調理の要諦というのが感覚的に解るのである、なので私にはお袋の味というものはなく、恩知らずのようだが、子どものころの私は、おれがつくった(というか味付けした)方がうまいけどなあなどと思いながら三度のご飯をいただいていたのである。

 ダイニングテーブルの食卓は静かであった。おかあは元より啞(おし)だし、飛助は人見知りのようだし、葉もまた口数の多い方ではなかった、というか何にも話さないのだった。また家長の私も初顔合わせといった取組の、この場面において何を話せばいいのか分からず、とくに何も言わずに豆腐を食べていたのである。しかし気まずい雰囲気だったかというとそうでもなかった。親愛の雰囲気はなかったが、口数の少ない人たちが集まって、それぞれで食事をしているといった様子であった。しかも葉は早くもおかあの隣に座し、手の不自由なおかあの食事の手助けなどもしていたのである。だからこのときの夕食の雰囲気は、よくある普通の家族のようであったのである。飛助は食事を済ますと「ごちそうさま」と言って自分の部屋に行った。食べるのが遅いおかあは食べ終わると「オ、オ、」と言って葉に感謝した。猫は食卓の周辺をウロウロし、時々葉に近づき、その足のにおいを嗅いだ。後片づけをするという葉を制し、おれがやるからと言って、車で彼女の家まで送ったのである。

 というわけで、次は親や親族の者たちに対する説明であった。

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