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【中篇】かぞくあたま③

 最初にこの話をしたとき、私の父と母はぽかんとして口をあけ、何のことやら分からないようでいた。やがて眉をひそめて厳しい顔になった。

「こんな、馬鹿な話があるか」と私の父が言った。そしてどんどん大きな声になり、怒り、顔が赤くなり、怒り狂ったのである。「また、お前は、馬鹿か。自分の子のような年齢の子どもを、嫁にもらう、だと。何だ、お前、歌舞伎役者か。仕事に行けないようになるぞ。して、その子どもとの間に、また子をつくるというわけか」

「つくりません」と私は言った。

「フリムンや。恥ずかしくてね、あたしたちも家から出られないようになるね。一体さ、どういう風に(世間に※作者追記)説明したらいいわけ。え、お前。絶対に許さんぞ。お父さんもお母さんも、絶対反対だ」

 と言って父は席を立ち、これは父母の家にて行われた話し合いである、あーもーなどと怒った声を挙げ、別の部屋に行ってしまったのである。

 母はうつむいて卓上を見つめ、真剣な顔でかなしそうな目をしていた。

 こうなっては話し合いにも何にもならないので、私はそのまま帰ったのである。

 次に話し合いが行われた時は、二人いる妹の、上の妹も同席した(末っ子の妹は国外に住んでいるのである)。

「話は聞いたが、相手の、その娘の氏(うじ)素性(すじょう)は何なのだ」 

 と、父が言った。「相手の親にも会ったのか」

「会っていません」と私は言った。名前も知らずその親も知りません、そもそも彼女の名は私が付けたのです、とは言わなかった。

「はっさ」と声にして父は、両手のひらをこちらに向け、これを下に返す動作をした。話の「は」にもならないといった態度である。

「あのねJJ(これは私の呼び名である)、あなたがね、Jさん(これはおかあの名である)のことで、たいへんな苦労をしているのは分かっています」と母が言った。「でも、その、葉さんとおっしゃるのでしょう、その方にとっても、この話は、ほんとうにいいことなのかねえ」

 と言って母は、どこで聞いてきたのか、葉のその髪が金色に染められているということを話したのである。

「お兄ちゃんは、その子と付き合っているの」

 と妹が訊いてきた。

 何を抜かしているのかこのアマどもが、と思ったがここで怒っては相手の思う壺だとおもって私は「いいえ」とだけ言ったのである。

 話し合いは沈黙の場面となった。その日は七月二十三日、日向にいるとすぐに具合が悪くなるというような大暑の昼下がりであった。

 沈黙の中、冷房機の動作音が耳に大きく鳴っていた。

 私は深呼吸し、落ち着いた声で、次のように言った。

「わかりました。皆さん反対なのですね。わかりますよ、たとえば飛助がこのようなことを言ってきたら、私もわたしの父のように、馬鹿かお前はと、きっと言うでしょう。しかし飛助の未来は演繹的で、私の現状は証拠がずらりと揃っています。事実もあり、状況証拠をいくらでも挙げることができます。私は桃原(とうばる)に住んでいます。そうですね。お父さんお母さんは石嶺に住んでいます」と言って私は父母の目を見た。「そして貴女(あなた)はとおく、前東水上(まえあがりみなかみ)に住んでいますね」と言って妹の目を見た。

「私は現在、フルタイムで働いています。それをサポートしようと、近くに住むお父さん、お母さんは色々としてくれていますね。まいにちのように夕食を用意して、持ってきてくれます。そのサポートに対しては、感謝してもしきれないと本心から思っています。しかしフルタイムの仕事を終えて、Jの食卓を調(ととの)えるのは、私です。薬を用意し、食事を手助けする、そして食事の後片付けをする、洗濯をする、Jを寝かせる、毎日、毎日これを誰がやるのかというと、私です。また往々にして、排泄にさいして失敗があります。小ならばおむつを換えればいいだけですが、大きな不浄であればその股、女陰、尻、腿(もも)、またそれを覆う外装に不浄の穢れがたっぷりと附着します。途轍もない修羅場です。これを拭(ぬぐ)い、浴室まで案内し、これを洗い流し、股、女陰、尻、腿(もも)をタオルで拭(ふ)くのは誰でしょうか。私です。私はJの一生において、たったひとりでこの任を負わなければならないのでしょうか。あるいは飛助にお願いしましょうか。あなたたちの孫、あるいはあなたたちの甥に、自分を生んだ母親の、股、女陰、尻、腿(もも)に附いた不浄の穢れの後始末をさせますか」私は喋っているうちにどんどん声が大きくなってきた、頭に血がのぼり、顔も熱くなってきた。「それとも手前らが、やってくれるのか、おい」言葉が汚くなってきたので、ここで一旦切り、私は麦茶を一口飲んだ。

 冷房機の音が耳に戻ってきた。

「Jは葉(よう)に馴染んでいます。葉はいい子です。実務的な能力にすぐれています。私には助けが必要です。付き合っているとか、いないとかいう話とは別に、私には葉の助けが必要なのです。今も、まさに」

 それであれば他にも適当な、女がいる、それをさがしてもよい、というようなことを母が言ったのである。

「誰ですかそれは、どこの氏素性の女ですか」私の言葉は詰め寄るように剣が立っていた。

「くわえて、あなたたちもそのうちJのようになります。今は元気ですが、この世の理(ことわり)には逆らえません。そうなったとき、一体だれがその世話をするのでしょう。私、ではないでしょうか。他に当てはありますか。トートーメー(位牌)の管理も、遠く山原の墓場の管理も、誰がやるのでしょう、私ではないのですか。何となれば貴公(あなた)は第一子の長男で」と父に向って大声で言ったのである。

「下に妹が、私にとっては叔母さんたちが五人いらっしゃり、私はわたしで第一子の長男で、下に妹が二人いる、その妹たちはそれぞれ嫁に行き、かたや前東水上、かたや遥か遠く米国の加州にいる」私は麦茶を一口飲んだ。

「手前らの、三途の川の此方(こちら)岸のみちびきは、誰がやるんだ。Jと合わせて都合三人ぶんのみちびきを、おれがたった一人でやんのか。おい、答えろ」

 私は私の声を低めてドスをきかせ、私をこの世に産んでくだすった父母を睨みつける。

 妹は、終始嫌な顔をしていた。

「だったらよ、手前がやんのか、おい」というような気持ちで妹の目を見た。妹はリビングの向こう、キッチンの方に視線を動かした。彼女は彼女で前東水上(まえあがりみなかみ)の長男の嫁になり、色々と苦労もあるのである。

 というわけで、話し合いは終盤恫喝のような形となってしまったが、私と葉の結婚は斯様(かよう)にしてまとまったのである。

 私たちは晴れて夫婦となった。

 披露宴のようなことはせず(新型コロナを理由とした)、しかし私の肝入りもあって、式はちゃんと挙げたのである。私とおかあは二十年前にいま棲む住所の目と鼻の先にある大型ホテルで披露宴もこなし、人前式ということで式も挙げたのである。しかしこの式は人の前で行うもので、二十年も経つと一体あの場でどのような契約が交わされたのか、知っている者も少ないのである。少ないというか主人公の一人の私にしてからがもう全く覚えていないのであり、従って誰一人覚えていないといっても過言ではないと思われる。

 その点、神を前にして行う儀式はやり方が昔から大体決まっており、訊かれることもほぼ同じで、これに答える言葉も似たようなものなのである。だから長く月日が過ぎても契約書の内容はいちいち照会しなくとも、その梗概は分かるのである。

 私は葉(よう)との結婚式は、断然神前をえらんだ。住まいから一番近いのは基督教の教会であったので、ここにお願いした。なんとかいう福音派の教会だと思う。

 日本人なのか沖縄の人なのかよくわからないが、非西洋の人が牧師であり、いろいろなことを言われて私たちは永遠の愛を誓った。親族の席には、私の方は父、母をはじめ前東水上の妹、その夫である義弟、その子たち、また父の妹の叔母たち、また、母の姉、母の弟とその妻などが列席してくれた。一方、葉の席には親族は誰もおらず、職場の同僚だというインドネシアの若い女人が二人、わざわざ来てくれたのである。

 指輪交換の儀式については前夜に一悶着があった。というのも私は、こういうアクセサリー類については無頓着で、気が付かなかったのである。なのでもちろん指輪は用意されていなかった。

 前夜、おかあが突然音声アプリで「指輪はどうするの」と言ったので私は蒼ざめたのである。そんなものは無いからである。私の左の薬指には、二十年前に東京は御徒町の宝石問屋で購(もと)めたおかあとの結婚指輪が嵌められていた。一方おかあの指輪は病(やまい)を得てからは、その指が曲がり、樹木のように節々が変形して、介護に何かと邪魔なので外され、どこかに置かれているのである。

 また、おかあの耳朶に開けられた肉の穴は、ながいこと使われないうちに穴が肉で塞がり、よってピアスやイヤリングなどもどこかにしまわれ、この生活において見えなくなったのである。

 いま見まわしてみても、この部屋には女人の好むような装飾品はいっさい見当たらない。もともとこの家族は男が2であり、女が2であり(雌猫も計上した場合)同数対決みたいな感じであったが、おかあが病んで二年以上も経つと、おかあの女が消えて、だから人間の女の痕跡は、無くなってしまったようになっているのであった。

 私の指輪は私のもので別に新調しなくともいいだろうと思われた。一旦はずして、また嵌めればよいのである。しかし葉(よう)の指に指輪は無いので、これはどうすればよいのかと焦ったのである。その日は日も暮れ、午後の八時を回っていた。結婚指輪を購(もと)めにゆくには適当な時間ではない。

 近所の久場川の首里りうぼう(琉球貿易)や、汀(て)良(ら)のAコープには時折屋台の店舗のアクセサリーを売る店が開設されていることがあった。そこに買いに走ろうかとも思ったが、その時分私はすでにハイボールを二缶飲み、ビールも一缶飲み、生姜漬けを齧りながら泡盛も飲んでいたので車の運転はできなかったのである。それでは飛助に自転車を走らせ、買いにやらせようかと思ったが、営業時間も微妙であり、そもそも結婚指輪というものはこういう急場を凌(しの)ぐようにして用意するものとも思われなかった。

 やんぬるかな、と思いながら泡盛を啜っていると、おかあが「わたしの指輪をつかって」と音声アプリで提案したのである。

「どこにあるの(というかこの件について手前は女の側なのだからそもそももっと早くに気づき指摘しろよこのどブス娘が、などと思いながら)」問うと、廊下の、途中の棚にあると音声アプリでおかあが言うのである。飛助に命じて探させると、果たして指輪は見つかったのである。

「あったよ」と飛助は言って私に指輪を渡した。

 指輪はプラチナ製で、女用の造(つく)りは外側に輝石が嵌められていた。またその内側にはこのアクセサリーを記念する刻印がされていたのである。眼鏡を外して私はこの印を読んだ。「2003.8.16 J to J」とあった。また私の指輪の内輪にも同じ刻印がされていたのである。

 結婚式は、私のもともと持っていた指輪が私の左薬指に嵌められ、おかあ(元妻)の指輪が新妻・葉の左薬指に嵌められ、滞りなく行われたのである。誓いのキスは葉の額に私の口唇が触れ、この感触がその場にいる人々の共通の記憶として記録されたようである。

 その後私の妹の子の、長男、次男、三男が共同でブーケを葉に捧げ、教会の入り口を出てこのブーケを天空に投げる場面となった。だが、葉はいまいちこの儀式の由来を分かっていないようで、食べ終わった弁当殻をゴミ箱に捨てるようにして花束を放ったので、花はすぐに地面に落ち、これを拾った私はインドネシアの若い娘、二人いるうちの一人に手渡したのである。

 斯くして私たちは式をこなした。

 その後、行政にいろいろな手続きをし、職場の事務的手続きも済ませて、名目上の家族の形も整ったのである。

 十九歳の嫁をもらい、勿論世間からは後ろ指をさされもした。ロリコンとか異常性欲者のようなことを言われ、しかし私は「法的に問題はない」と思って気にしなかった。葉とは交合もしていないので後ろめたい気持ちもなかったのである。

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