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終末期のモヤを晴らしたいひとであった、、?

3月末で僻地勤務が終わり、まちの診療所に戻ってきていた。
当院は緩和ケア病棟を持つ有床診療所で、今年度は常勤の指導医に加えて専攻医が2ヶ月ずつ病棟を担当することになっている。
自ら希望して4-5月の病棟勤務を希望していたので、私は山間部での半年間をしみじみと振り返る間もなく、緩和ケアローテーションが始まった。

その緩和ケアローテが昨日で終わったので、さすがにnoteを更新しようと思ったのだった。

16人で満床としている病棟に、この2ヶ月間で25人が入院し、23人が退院された。数名、体調を整えて在宅に移行した方もいたけれど、うちに入院される方は殆どが死亡退院の転帰を辿る。

指導医とも、後輩とも、訪問・外来担当の同僚とも、また看護師や薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカー、ケアマネージャーとも、もちろん患者さんやご家族とも、何度も何度も対話を重ねて、色んなことを決めていった期間であった。

ひとり迎え、ひとつ話し合い、ひとり見送る度に、思考や感情は何周も駆け巡る。
時に哲学を求め、時に心理学を見直し、あるようでないエビデンスを追求している。

医療には必ず不確実性がある。
例えば、「ちょっと喉が痛い」と受診したひとがいたとして、どんなに検査をしても、「診断は100%扁桃炎です」「コロナである可能性は0%です」と言うことはできないのだ。
時を味方につけて経過観察をすれば答えが自然に出ることもあるし、答えが出ずとも問題が勝手に解決することもある。
ただ、我々が不確実性を享受し、それを他者と共有する能力がなければ、ただ不安が募るだけになってしまう。
これを読んでいる方の中にも、かつて何かしらの問題を抱えて患者として受診したにも関わらず、モヤモヤするだけに終わったことのある方も少なくないと思う。

そのモヤモヤは終末期にもあって、自分の親が病気で最期を迎えんとするときに、「このまま目を覚まさないかも知れない」「数日のうちに亡くなるかも知れない」と医者に言われたとして、「かも知れないって何だよ、医者のくせに分からないのかよ」と思うのは自然なことだと思う。
実際、不確実なのだ。複雑すぎるひとの体に、更に複雑な病気の要素が絡まり、これまで生きてきた人生が絡まっているので、例えば死の1週間前に差し掛かっていたとしても、最期の時間がいつ、どのような形で訪れるのかをピタリと言い当てるのは不可能だ。

そして、不確実性が存在するという事実をどう伝えれば良いのかを、医学部は教えてくれない。
(1年生の物理で習った不確定性原理が一番近いかも知れない、というレベルで習ってない)

この2ヶ月間で私は、何かが不確実であることに不安を感じることはないが、その事実が他者とうまく共有できないときに強い無力感を覚えるのだなと自覚した。

見送る/見送られることが決まっている中で、話し合うことで我々に晴らすことのできるモヤがあるのであれば、そこに全力を注ぎたいと思った。

ただ、モヤの出所はこれまた十人十色で、死生観にも、家族関係にも、ひとの歴史そのものにも不確実性は存在する。1人の医者と話したくらいでは解決しないモヤの方が多いのだろう。

長くなってきた。
この、医療の、ひとの、私の、不確実性との付き合い方については、もう少しモヤモヤしていたいと思う。

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